7 とぐろを巻いたキツネ

 郵便夫が崩れてから四年もの歳月がたっていた。あれからというもののマリーの時計は止まったままであった。この四年のあいだにマリーは街まで八度自転車を走らせた。行くたびに人形の街はマリーに冷たい目線を投げかけた。カタンだけがマリーを迎え入れてくれた。

 タツヒコと顔を会わせることはなかった。カタンにきいてみると、タツヒコは彼のもとで学べることをすべてこなして巣立ちし、ついに人間保護区域の試験会場に向かったという。人間保護区域の職員の試験は、二年という長期にわたって行われる。その二年間で数百人いた人形たちは次々と脱落していき、ほとんどの場合は二年という期間を要するにも関わらず、一人として合格を勝ち取れずに終わってしまう。そして、落とされた人形たちは、次の試験も、次の次の試験も受験し、けっきょくは同じような結果を繰りかえすのだった。

 最後にマリーが街におもむいたのは五か月前のことだった。街の空で波立っているホロクラウドに眼をやると、人間保護区域の新人としてタツヒコのコードが表面に入力されていることが見てとれた。人間保護区域に登録された人形は一四年ぶりであるため、タツヒコはカタンの見込みどおりの人形だったようである。むろん、そんな多忙なエリートにマリーの店を訪ねる暇があるはずがなかった。

 マリーはわざわざタツヒコを見るためだけに、動物園のような場所に足を踏み入れることはしなかった。だいいち、この街への登録をまともに済ませていないマリーにとっては、演劇やディスプレイなどのエンターテインメントはさておき、お堅い公共施設を利用するには面倒事があまりにも多すぎた。人間保護区域は回線を接続して三段階の厳重なチェックを受けなければ入ることはゆるされなかった。ディスプレイの会場のような形骸化したチェックではない。人間保護区域においてマリーは透明人形とは見なされなかった。なんとかしてマリーが入るためには、一時的に受信機を頭に埋めこむか、あるいはシステムを欺くために、アウトローな好事家連中の手をかりる必要があった。むろんそんなことをするメリットはなきに等しかった。

 店に持ち込まれる遺物はほとんどなくなった。かつてプロジェクトEと呼ばれていた廃墟群の半分以上は、操り人形たちによって更地に変えられてしまった。ところどころに使い捨てられた操り人形がほったらしにされていた。地面を掘ればもっといろんなものが出てくるはずである。このなにもない土地は人間と人形の墓場だ。これからまた新しい操り人形たちが投入されて、このだだっ広い更地は人形の街に作り替えられていくのだ。

 廃墟の大部分が更地に変えられるまえに、マリーは何度か好事家たちに混ざって、廃墟から人間たちの遺物を漁った。操り人形たちはひたすらに働くだけで、マリーたちにはみじんも注意を払わなかった。認識さえしていないのである。なにか大きな物音がするたびに、好事家がひとりひとり死んでいった。もともとそういうリスクを承知でこんなことをしているため、誰ひとりとして操り人形たちへの文句を口に出す者はいなかった。

 マリーは数枚のレコードとレーザー式の丈夫なプレイヤーを持ち帰った。いくつかのパーツを交換すれば、まだまだつかえるものだった。

 好事家の一団のなかにはメルツェルという活人形もいた。マリーがよく聴くラジオのパーソナリティーだった。メルツェルは男型の人形であり、ジャズメンからサンプリングした嗄れ声がとてもよく似合う大柄な身体つきをしていた。古めかしいスーツを着込んだメルツェルの巨体は、意外にも瓦礫の山のなかで俊敏に動いた。マリーと同じように、メルツェルもまた音楽に関係するものを探していた。片手におおきなジュラルミンケースを持って貴重なものがありしだい、そのなかにしまい込んだ。帰還時のメルツェルは、小型の電子トランペットを小脇に抱えていた。マリーはジュラルミンケースに眼を落とした。

「ほんとうに音楽が好きなんですね」

 メルツェルは朗らかな笑い声を上げた。

「おもしろいでしょう。活人形なのに」

 マリーは口元に左手をそえて微笑んだ。表情を変えるのにも、やっと慣れてきた。

「ええ、ほんとうに」

 一団は廃墟群を抜けると散り散りになった。それ以降メルツェルとは会っていない。今日もラジオから彼の嗄れ声だけが聴こえてくる。

 ぼんやりと頬に手をあてていると、ドアになにかがぶつかる音が聞こえてきた。マリーの視界のすみには、ハンガーポールにかかった郵便夫の制帽がうつっていた。四年そのままになっていたこともあって、だいぶホコリかぶっている。

 ドアを開けると、足下で一匹のキツネがとぐろを巻いているのを見つけた。真っ白な艶のあるキツネだ。

 マリーはかがみ込むと、キツネの背中をやさしく撫でてやった。

「どうせ偽物なんでしょう」

 モデルはホッキョクギツネで間違いないなかった。キツネは撫でられると身体全体を震わせて、マリーに向かっておおきく欠伸をした。喉の奥底に赤と緑の点滅が見えた。やはりアーティフィシャルだった。マリーはキツネを抱きかかえた。キツネは抱えられるとすぐに、両腕をくぐり抜けて、右肩をつたってマリーの首までまわり込んだ。マリーはそのまま店に戻った。

 キツネはカウンターに飛び降りた。口をモゴモゴと動かすと、租借音と電子音を混ぜたような音声が喉元から発された。

「やあ」 まっすぐな目線がマリーをとらえた。「お姉さん、久しぶりですね」

 思わずマリーはキツネを見つめ返した。

「シモン?」

「ちがいますよ。誰です、その人」

 キツネは眉をひそめた。

「じゃあだれ」

「タツヒコですよ。覚えていないことはないでしょう」

 マリーは首をかしげた。

「ああ、そうだったっの」

 キツネの声からしだいに咀嚼音が抜けていていき、最終的に健康的な青年の声に落ち着いた。マリーはキツネのためにコーヒーを入れてやった。

「アーティフィシャルなんかをよこすぐらいだから、ほんとうに多忙なのね。にしても、もうちょっとやり方しかなかったのかなぁ、とは思うけど」

 キツネはタメ息をつくと、後ろ足で耳の裏を掻いた。

「ちょっとちがうな。ぼくはほんとうにここにいるんですよ」

 マリーはコーヒーを引っ込めた。

「乗り換えたってこと?」

「そうそう」

 キツネはただでさえ細目だった両眼を、より引きのばして不気味な笑みをつくった。

「それもあなたの仕事のうちなの?」

 タツヒコはかぶりを振った。翳りのある眼差しをマリーに向けると、カウンターのうえでとぐろを巻いて口元をかくした。湿っぽい鼻先が泣いているようだった。

「実はね。あそこを追い出されちゃったんです」

 マリーは表情を変えずにこめかみを掻いた。

「解雇されたってことなのね。それにしたって乗り換えるまでしなくてもいいでしょう」

「いや、こうしなくちゃならないことをしてしまったんです」

「そうなの。だからあなたの先生もなんの連絡もしてくれなかったてこと?」

「そうなんでしょうかね。わからないです。ずいぶんと会っていないもので」

 長い沈黙が流れた。交錯する二人の眼線のあいだで、コーヒーの湯気だけがゆらめいていた。タツヒコはあのタメ息をもらした。

「まあ、でも、たぶん、ぼくのせいなんです。でも、悪いことをしたのでしょうか」

 マリーはコーヒーを飲む振りをした。

「よくわかんないけど、なにがあったか聞かせてくれるかな」

「わかりました」

 そうキツネはちいさくつぶやいた。声は小刻みにふるえていた。

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