3 スロースペースと脱臼

 目を覚ますと右肩が脱臼していることに気がついた。マリー右肩の球体をもう片方の手でなんとかはめ込むと、けだるい身体を持ち上げるようにして席を立った。

 姿見にうつった顔には、寝るまえの微笑がたたえられたままになっていた。マリーはあわててもとの無表情にもどすと、変な癖や跡がついていないか、口唇を引っ張ったり、頬をなでまわしたりしてみた。

 とくに問題はなかった。マリーはメンテナンスルームのぬるま湯のような空気を、かき分けるようにしてドアまで向かっていった。

 ドアを開けると、ちょうど白髪を荒れ放題にしたタツヒコが、小窓から半身を乗り出しているところだった。タツヒコは自分を見つめているマリーに気がつくと、ちいさく息をついた。

「やっと起きたんですか」

 マリーは手のひらを太陽にかざした。

「おはよう。いま何時」

「もう十時ですよ」

 マリーはモップを手に取ると、タツヒコについていたホコリをはたき落とした。小窓に眼をうつす。

「これじゃドアにカギをかけていても全然意味がないわね」

 マリーはさっそくコーヒーの準備をはじめた。

「大丈夫ですよ。もう入れてます」

 目蓋をこすったあと、店内を見渡した。丸テーブルのうえに、ハンチング帽と湯気のたっているコーヒーカップを見つけた。

「でも、わたし飲めないんだけど」

「もちろん、お姉さんに飲んでもらおうとは思っていませんよ。あくまで飲むのはぼくです」タツヒコはやんわりと言った。「これだったらお金をはらう必要もありませんよね」

 マリーはいつもの笑みを浮かべた。

「そうね。それだったら大丈夫です」

 それを聞いたタツヒコは座ると、カップを持ち上げた。それから目蓋をとじると、コーヒーの湯気に鼻先を当てた。

「よかったです」

「それにしても、あんな方法を使うなんてね」

 タツヒコは目を開けた。

「だって、心配だったんですよ。次の日来たら店は閉まったままだったし、それから四日間、なんにも音沙汰なかったんですからね」

「でも、メンテナンスルームには入ってはこなかったんだ」

 タツヒコはハンチング帽をそっと手に取ると、そのまま目深にかぶった。

「なんだか入っちゃいけないような気がして」

「でも、ここには入ってこれたわけだ」

 店内の床はきれいになっていた。カウンターを見やると、アルバムの場所がずれていることに気がついた。立て掛けられたアルバムのすみから、とじられていない写真の角がのぞいている。四日前にマリーが置いたときにはそうではなかった。

「なるほどね」

 タツヒコはハンチング帽をかぶり直した。ツバの下から瑠璃色の瞳孔がのぞいていた。小刻みにゆれている。

「ごめんなさい」

「いいのいいの。心配してくれてありがとう」

 マリーはからっぽのコーヒーカップを持ってくると、タツヒコのまえにすわった。カップを持ち上げると、口元に持っていって飲むふりをした。

「それで、これからどうするの」

 タツヒコは口をつぐんだ。

「考えてきていないってことね。じゃあ、久しぶりに外に出ることにしましょうか。もちろんあなたも来るわよね」

 タツヒコはコクリとうなづいた。マリーはハンガーにかかっていた真っ白なピケ帽を手に取った。

 今日も店は「closed」を掲げることになった。タツヒコは無輪車のシートにすわると、回線につなげるまえにマリーに声をかけた。

「乗ります? 一応荷物を置くところに座れますよ。ちょっと窮屈だけど」

「いえ、自分の車があるからそれには及びません。それに、結局わたしが案内するんだから、あなたに運転をまかせることはできないでしょう」

「目的地さえ言ってくれれば、あとは連れていきますよ」

「そうことじゃないの」

 そう言うと、マリーは店の背後にある林のなかに足を踏み入れた。タツヒコが十分ほど待っていると、耳ざわりなベルの音とともに、おおきなな自転車に乗ったマリーがあらわれた。大昔のサーカスなんかでピエロが乗っていたようなものだ。巨大な前輪をこぐマリーを、タツヒコは下から見上げた。

「それも貰い物ですか」

「そう、ある博物館が閉館するときにもらったんです。やっぱり人間向けの展示は、ほとんど儲けが出ないのよね。歴史を扱っているところはとくに。だれも興味を持ってくれないし、展示する側もみんなやる気がないって感じ」

「そうなんですか。でもまあ、そうですよね」

 おだやかな風が吹いている。マリーはピケ帽を片手でおさえた。

「でも、一握りではあるんだけどね、ちゃんと誇りをもって仕事をしていた人だって、なかにはいたんですよ。じゃなかったら、わたしに渡すなんて面倒ははぶいて、全部捨ててしまったでしょう」

 タツヒコはシートを倒すと、頭のうしろで手を組んだ。

「でも、ここだってリサイクルショップということになっているんですよね。貴重なものを保存するという目的はないんでしょう」

「そう、はじめはそうでした。でも、しだいに自分の姿を見ているような気がしちゃってね」

 沈黙が流れた。

 タツヒコはマリーから眼をそらした。

「じゃあこれをもらったのは、わりと最近ということですか」

「そう、三十年くらいまえ。それでね、いまから会いにいこうと思っているのは、その元館長のところなのです」

「じゃあ、活人形じゃないということですか。お姉さんみたいな……」

 タツヒコを見下ろしていたマリーの眼がうるんだ。

「いえ、もうとっくのとうに活人形に乗り換えてしました。やっぱり実用性には勝てないものね。昔はね、彫りものが本当に素敵な人形だったのよ」

「そうですか」

「でもね」とマリーは言った。「いまでもちゃんと話してくれる数少ない人形なの」

 タツヒコはなにも返すことなく回線に接続した。マリーは顎紐をかけると、ハンドルを握りしめた。

 自転車はゆっくりと進んだ。いくら手入れをしているとはいえ、年代物の自転車のいたるところから悲鳴がした。無輪車はそのうしろを静かに追いかけた。

 景色がゆるやかに流れていった。しばらくのあいだは鬱蒼とした森のなかをただ走るだけだった。ほとんどの木々にはマリーによってタグがつけられていた。無断で切り倒されないようにするためには、こうするほかない。人形は融通が利かないのだ。太陽がだいぶ傾いてきたところで、前方にそびえている木々のうしろから巨大な影が迫ってきた。

 森を抜けると、視界がひらけ、植物で覆われた高層建築物の大群があらわれた。途中の階層からくずれ落ちてしまっているものもあれば、風化してはいるものの、まだ大昔の佇まいを維持しているものもあった。崩れた落ちたコンクリートの山からは、あたらしく木が生えていた。

 ここは人間たちが自分たちで生活を営んでいたといえる最後の場所だった。議員たちからはプロジェクトEと呼ばれている。一昔前には、ほかにもこのような廃墟が歴史別にAからDまであった。現存するのはこのEだけである。人形たちは人間の生きていた痕跡を、次から次へと消していった。そして、人間がつくってきた文化の実用的部分だけは利用し、そうでないものは葬り去った。

 そういうものにあえて価値を見出すのは、ラジオの電波に言葉をのせるようなアンダーグラウンドの好事家連中ばかりだった。音楽なんかもそのようなニッチな趣味のひとつだった。好事家たちは開発予定の区域でCDやレコード盤といったものを見つけては、操り人形たちによって葬り去られてしまうまえに運び出した。そして、もともと盗み出される価値があるとは、一般にも認識されていないため、かれらが罪に問われることはまずなかった。マリーもたびたびかれらに同行して、廃墟から珍しいものを漁ってきた。

 ビル群を走っていると、地響きが聞こえてきた。

 前方でビルがひとつ崩れていった。

 近づいていくと、破壊されたコンクリートのうえで、数十人もの操り人形たちが無心に作業をしているのが見えた。操り人形は回線には接続しているものの、意志がもたされていない。ゆえにべつに表情をつくる必要がないため、どの人形にも頭部ががつけられていなかった。

 身体は工場のあまりものでツギハギされていた。関節は蛇腹であったり、球体であったり、人工繊維だったり、さまざまだ。操り人形たちは、いずれ壊れるためにつくられたフランケンシュタインの怪物だった。かれらがそばを通りかかると、マリーは会釈した。もちろん返事はない。

「かわいそうね」

 そうマリーはつぶやいた。

 操り人形たちはボロボロだった。つくられてから一度もメンテナンスされていないことが、すぐに見てとれた。そこらじゅうに動けなくなった人形のかけらが散乱していた。あたらしく現場に投入された操り人形たちは、用済みになった人形たちを重機で容赦なく踏み潰した。整地がはじまる。

 解体途中のビル群を過ぎたところで、人形たちの街に入った。

 活人形たちはマリーに白い眼を向けた。

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