2 ロングスリーパー
マリーはタツヒコから伝票を受けとると、古ぼけたレジをたたいて会計をすませた。カラクリ仕掛けのレジは電気仕掛けのものとはちがって、メンテナンスさえつづけていれば、いつまでもつかうことができるのであった。
マリーはシャツの胸ポケットに差していた水色のボールペンを抜きとると、カウンターに置いてあったメモ用紙にペンを走らせた。タツヒコは首を小指でいじくりながら、そのようすを見ていた。
書き終えるとマリーはメモ用紙をタツヒコにわたした。
「はい」
「これはなんです」
マリーは口元に手をあてて微笑んだ。
「もちろんレシートだけど」
「ああ、これがそうなんですか。まさか手書きだとは知りませんでした」
「いや、自動でレシート出してくれるレジはたくさんあるんだけどね、わたしはこのやり方が気に入っているの」
「両替はどうします」
「やっぱり初回サービスってことで今日は無料でいいわ」
タツヒコはレシートを見た。メモ用紙には荒い楕円形でゼロとだけ書かれていた。
「ほんとうに、これでいいんですか」
「いいのいいの。儲けようなんてもともと考えていないし。来たかったら、また明日にでも、十年後にでも来てください。そのときはちゃんと請求しますからね」
タツヒコは襟をただすと、マリーの顔に眼をやった。 まだ微笑のままだった。もとにもどすのを忘れてしまっているのだった。
「それでいいなら、いいんですが」
「いいんです。そのかわり、つぎに来るときは、できるだけ紙幣を持って来てね」
「わかりました。近いうちにまた来ますね」
マリーは笑った。
「近いうちなんて言わなくていいよ。来たくなったら来てください」
タツヒコはドアノブをまわした。
「それじゃあまた会いましょう」
「ではでは」
外に出たタツヒコは、無輪車のサドルにすわり、そのままプライベートの回線につながった。もうマリーの声はとどかない。情報が瞬時に入力されると、車体の底についている無数の球体が地形のスキャンをはじめて、無輪車は音を立てずして進みはじめた。
地平線の向こうまで遠ざかっていくタツヒコを、マリーは視界から消えるまで、手を振りながら見守っていた。完全にひとりになったのがわかると、シャツについたホコリをはたき落として、つめたいドアノブに手をかけた。
ドアをひらくと、ひときわつよい風が吹いて、束ねた黒髪をゆらした。まわりに生えているヤシの木やイチョウも、呼応するようにしてささやいた。そのどれもが本来従うべきバイオームを無視するように遺伝子操作されたものばかりだ。
屋内に入りドアにカギをかけた。パイプを流れる水の音や、駆動しつづける機械の音が聴覚を刺激した。
机にひらかれたアルバムを閉じると、マリーは思い出したようにカウンターからインスタントカメラを持ってきた。そして、小窓をすこしだけひらくと、タツヒコが無輪車で帰っていった方角に向けてシャッターを切った。カメラから写真がすこしずつ出てくる。このインスタントカメラはインクと厚紙さえあれば、正規のフィルムがなくても印刷することできた。そのためマリーは長いこと愛用してきたものの、ここ二十年くらいは接触がわるくなったせいで、一枚の写真ができあがるまでに三、四分はかかるようになってしまった。
しばらく待っていると、写真が机のうえに引き出された。地平線に接近している太陽とそよいでいる木々しかうつっていない。このようなだれもいない写真が、アルバムのなかにはたくさんあった。マリーは写真の裏に「タツヒコ」とボールペンで書くと、アルバムのそでに挟んでキッチンに入った。
洗いものをするまえにラジオをつけた。ラジオは好事家たちのオモチャである。回線で流されているような、まともなニュース番組はもちろんない。電波ジャックが繰り返される無法地帯だ。恥ずかしいプライベートを垂れ流す人形なんかもざらにいた。
チャンネルが合った。ノイズがひどい。
「きょうも全然反応してくれなかったね。もっといいもんかと思ったんだけどなあ」
声だけはよくある二枚目なのに、息つぎのいたるところに性悪さがにじみ出ていた。
「まったく、あそこにいくらかけてんだろうね。回線で引き落とされるのを知らされるたびにそう思うなあ」
それから一息つくと、声はこう言った。
「結局ぼくらよりも劣っていたということでしょう、人間ってやつは。だからせめて……」
よくある人間保護区域への悪口だった。実際こういう考えが出てくるのもしかたがなかった。回線につながれているというだけで、自分たちの生活とは直接的には関係がない保護税が毎月抜きとられていくのに、それに文句をならべないという方がむずかしい話なのかもしれない。
マリーはチャンネルを切り替えた。つぎのチャンネルはまともだった。古き良きジャズとともに、しゃがれた声が聞こえてくる。
「つぎはベルメールさんですか。内容はですね、えーと、質問です。メルツェルさんはどこからその素晴らしい声を手に入れたんですか、か。そっか、まだそのことを言ってませんでしたっけ」
リスナーのメッセージを読んでいるようだ。
「そうですね。この声は外部からサンプリングしたものを調節したやつでしてね。ですからね、やっぱりここで流しているようなレコードなんかには、とてもいい素材があるんですよ。一般に手に入る声に飽きてしまった人は、そこらへんを漁ってみるのも一興かもしれませんね。人間のものだからといって、つかえないといって捨ててしまうのは、ほんとうにもったいないんです。ちなみに、わたしの声はですね、ルイ・アームストロングっていうジャズメンからサンプルしたものです」
メルツェルと呼ばれたしゃがれ声はそう言うと、愛想のよい笑い方をした。
マリーは洗い物をし終えると、ドアの看板をひっくり返して店じまいをしてから、メンテナンスルームに入った。暖色系の灯かりをつけると、空気のよどんだメンテナンスルームの姿があらわになった。すみに置かれたテーブルには、一昔前にマリーがつけていた仮面が無造作に置かれており、だいぶホコリをかぶっていた。
地下へとつながるドアには、地下室に入りきらなかった自転車や掃除機が立て掛けられていた。ここ最近はものを無料で受けとっても、人形たちから文句を言われることはなくなった。人間がつかっていたアンティークなんて、まず回線ありきの人形たちからすれば、ガラクタ同然なのであった。そして、マリーはあえてそのようなものばかりを買いとり、大事につかってきたのだった。当然ながら、あの錆びついたレジもそのような経緯で店に入ってきたものだった。
マリーは色褪せたスツールに腰かけると、左足の靴を脱ぎ、踵についていたキャップをはずした。それから壁からチューブを引き出すと、踵にチューブの先端を接続した。
接続すると頭のなかがクラクラしてきて、マリーはそのまま顔をかたむけて眠ってしまった。一度眠ってしまうと、組まれた両脚は微動だにしなかった。
眠っているあいだにも、マリーのまわりでは、壁に埋め込まれた歯車の駆動音や水流の音が鳴り響いていたが、それはごちゃ混ぜになることで無秩序な雑音となりさがり、ほとんど無音と変わらなかった。そして、この部屋にはどこにも窓がなく、日の光が差してくることもないため、マリー自身が眠ってしまうと、ありとあらゆる動きが死に絶えて、あたかも時間がとまったようになるのであった。
もちろんこの部屋には時計もなかった。ひどいときには寝過ごしたら三ヶ月たっていたこともある。
今回の眠りにしてもマリーは、四日ものあいだ夢を見ることとなった。
もちろん翌日にタツヒコが来ていたのにも気がつかなかった。
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