【KAC20243】妻と浮気と私と箱と

斜偲泳(ななしの えい)

第1話


「Kさん。今日出勤じゃないですよ」


 いつも通りに職場に行くと同僚に笑われた。


 どうやらシフトを勘違いしていたらしい。


 そのまま働くわけにもいかないので私は大人しく家に帰る事にした。


 その道中でふと思いつく。


 折角だから妻をちょっと驚かせよう。


 少し遠回りをして洒落たケーキ屋に寄り道をする。


 先日二人でTVを見ていた時に出てきた店で、妻が美味しそうねと言っていたチョコレートケーキを購入する。


 妻の喜ぶ顔を想像すると自然と私も笑顔になる。


 惚気と言われたらそれまでだが妻は私の宝物だ。


 彼女がいなければ私の人生は酷く味気ないものになっていただろう。


 彼女もふとした時に似たような事を口にする。


 あなたと結婚出来て本当に幸運だった。


 こちらこそと私は返す。


 その程度には私達は互いに愛し合っていたはずだった。


 だからだろう。


 こっそり帰宅した私はその光景の意味を正しく理解する事が出来なかった。


 私達の寝室で知らない男がベッドに仰向けになる妻に馬乗りになって首を絞めている。


 二人とも裸だった。


 愚かな私は強盗か強姦魔だと思い、唖然とする男を力づくで妻の上から引きずり下ろすと怒りのままに暴力を振るった。


 止めに入ったのは妻だった。


 それで私は理解した。


 彼は間男だったのだ。


 それなら猶更怒るべきなのだろうが、私の怒りは急速に萎えていた。


 怒りよりも疑問の方が大きい。


 なぜ、どうして。


 私達はあんなに愛し合っていたはずなのに。


 全ては私の勘違いだったのだろうか。


 間男が去った後、平謝りの妻を問い詰める。


 何故浮気をしたのか理由を教えて欲しい。


 答えによっては情状酌量の余地があるかもしれないし、答えによってはどれだけ泣いて謝ろうが許せるものではない。


 私がそういう性格の持ち主で妻もそれは承知していた。


 だからだろう。


 彼女は理由を言いたがらなかった。


 絶対に許されない理由だと思っているらしい。


 だが、それを決めるのは私だし、この期に及んで理由を隠すような不誠実さを許す気もない。


 妻もこれ以上私を裏切りたくはないようだった。


 それでも言い淀んだのは理由を言って私に捨てられる事を恐れたからだ。


 暫くすると彼女も落ち着き、覚悟を決めて語り出した。


「……今まで隠していたけれど、実は私酷いマゾヒストなの」


 妻はあれこれと長く語ったが、結局はそれだけの話だった。


 彼女は私を愛していた。


 愛していたが故に異常な性癖を曝け出す事が出来なかった。


 それを曝け出す事で私に嫌われる事を恐れたのだ。


 彼女は私の全てに満足していた。


 ただ一点、夜の営みを除いては。


 彼女とはこれまでに数え切れない程の夜を共にしたが、生まれ持った異常な性癖故にただの一度も私を相手に満足した事はなかったという。


 寝耳に水だった。


 そして彼女は名女優だった。


 私はすっかり騙されて、これまで彼女を必要以上に満足させていると思い込んでいた。


 お笑い種だ。


「どうして言ってくれなかったんだ!」


 私は彼女を責め、自分を責めた。


 何故気付く事が出来なかったのか。


 私達は一つ屋根の下に暮らし、数え切れない夜を共にし、今もなおお互いに愛し合っているというのに。


 愛は盲目という言葉がある。


 その通り、私は何も見えていなかった。


 だからと言って浮気が許されるわけではない。


 それでも、私は情状酌量の余地があると感じた。


 実際私は日頃からあらゆる異常な性癖を冷笑し差別的な態度を取ってきた。


 彼女の口から真実を奪った原因は私にある。


 それに私には彼女の気持ちが自分の事のように理解出来た。


 私も異常な性癖を持っていた。


 だからこそ、それを彼女に知られないように異常性癖に対して過度に否定的な態度を取ってきた。


 性癖とは呪いだ。


 誰も自分の性癖を誤魔化す事は出来ない。


 好みに合わない食事を美味い美味いと食べる事は出来るだろう。


 それで腹は満ちるだろうが心の飢えが満たされる事はない。


 それと同じだ。


 だから私は彼女を許した。


 他の男にバカな奴だと笑われてもいい。


 愚か者の腰抜けと言われても言い返せない。


 結局の所、それは愛の問題だった。


 彼女は愛ゆえに間違いを犯し、私は愛ゆえにその間違いを断罪出来なかった。


 私は言った。


「二度と浮気をさせないように君の性癖を受け入れるよ」


 首絞めだろうが鞭打ちだろうが蝋燭だろうが、その他の私の思いもよらないどんなSMプレイだろうとやってのけると彼女に誓った。


 彼女は泣いて喜んだ。


「私もあなたの性癖を受け入れるわ」

「それは無理だよ」

「そんな事ない。あなたが受け入れてくれたのに、私だけ蚊帳の外なんて狡いじゃない」

「僕の方がもっと異常だ。きっと君は耐えられない。怖くなって逃げ出すよ」

「絶対にそんな事ない。だってあなたはこんな私を許してくれたのよ? 世界中探したってあなた以上の相手なんか見つかりっこない。私にとってあなたは世界でたった一人の最高の伴侶なのよ。どんな性癖だって逃げ出す理由にはならないわ。それに私は今回の事で酷くあなたを傷つけた。その償いをしたいのよ」


 謝罪の意味を込めて、彼女は全面的に私の性癖に従うと言ってくれた。


 例えそれが寝取られや野外露出、逆レイプや獣姦、スカトロのような変態プレイだとしてもだ。


「……知ってしまったら後戻りは出来ないよ。それでもいいのかい?」


 彼女はいいと言った。


 むしろそうしなければ自分の犯した罪の重さに耐えきれないとまで。


「ありがとう」


 私は心からの感謝共に妻を抱きしめた。


 妻はずっと、私に首を絞められる事を望んでいた。


 鞭で打たれ、口汚く罵倒され、心身共に痛めつけられる事を望んでいた。


 浮気相手はその代用品でしかなかった。


 私も同じだ。


 私もずっと、この異常な性癖を妻に向けたいと思っていた。


 当然だ。


 何故なら妻は私を愛していて、私も妻を愛している。


 叶わぬ願いだと諦めていた。


 それが叶う日が来るなんて!


 私は浮気相手に感謝さえした。


 都合の良い事に今日は休みでまだ昼前だ。


 私は妻を車に乗せ、洒落た店でランチを食べた。


 映画館で恋愛物の映画を見ながら、彼女の手が私を焦らし、私の手も彼女を焦らした。


 その後は長いドライブだった。


「どこに行くの」

「秘密の場所だよ」


 彼女は笑った。


 冗談だと思ったらしい。


 数時間後、私達は秘密の場所に到着した。


 人里から遠く離れた山の中の一軒家だ。


「隠れ家みたい」


 と彼女は言った。


「似たようなものだね」


 と私は答えた。


 これから自分はどんな酷い目に遭わされるのだろう。


 そんな期待で妻の表情は別人のように蕩けていた。


 なるほど、彼女は真性のマゾヒストだ。


 それで私は安堵した。


 彼女なら私の異常な性癖も楽しんでくれるかもしれない。


「たとえ悲鳴をあげたとしても、ここなら誰も気付かない」

「ワクワクするわ」

「僕もだよ」


 秘密の場所の秘密の部屋に妻を案内する。


「なに、これ」


 棚に並んだ透明な立方体を前に妻が呟く。


「箱だよ」


 答えると、私は背後から妻の首を絞めた。


「人が入っているんだ」


 箱化。


 それが私の性癖だ。

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