3-5

「ここは……?」

 ミツネが目を覚ますと、見覚えのない部屋に横たわっていた。電気が付いていないせいで部屋の中は暗く、ぼやけた視界も相まって状況が把握できない。

 何だか幸せな夢を見ていたような気がする。遠い昔、施設に入るよりもっと前の、両親がまだ生きていた頃の記憶。いや、身体は結構大きくなっていたから、あれは正確な記憶ではなくて、あり得たはずの未来、願望だったのかもしれない。具体的な内容を思い返そうとしてみても、形のない夢は掴もうとした指の隙間から霧散するように消えていってしまう。

 ぼんやりとした頭にかかった靄を必死に取り払いながら、暗闇に慣れてきた目で辺りを見回す。どうやらそこは倉庫のようだった。部屋の中は背丈より少し高いくらいの棚が立ち並び、その中には薬瓶や実験器具などが置かれている。

「あ! ニシナ、莉葉、起きて……!」

 そこでようやくミツネは二人が少し離れたところで倒れているのに気付く。慌てて近寄って身体を揺すると、二人とも寝ぼけ眼をこすりながら起き上がった。

「静かに。あまり騒ぐと気付かれるかもしれない」

 部屋の奥からミツネたちを窘める声が聞こえる。

「あなたは……?」

「先にこちらの質問に答えてくれるかしら。あなたたちは一体何者なの? あの男と親しげだったけれど」

 その声の主は白衣を着た施設の職員らしき女性だった。すらっとした線の細い身体を姿勢よく伸ばし、腕を組んで壁にもたれる姿は、落ち着いて余裕のある雰囲気を携えている。メガネの奥に見える釣り目がちな瞳はまるでミツネたちを品定めしているようだった。

「あの男……クシミのことですか?」

「ええ。あの男が現れてから、ここはまさに地獄と化した。さっきあなたたちも見たでしょ。殺された彼は私と同い年で、幼馴染として一緒に育った人だった。とても優秀な人材で、あんな風に死んでいい人ではなかったのに……」

 悔しそうに語る女性の瞳には、じんわりと涙が滲んでいた。しかし、それを振り払うようにして顔を上げると、再びミツネたちに警戒の目を向ける。

「僕たちは彼の古い友人です。彼に会うために、遥々ここまでやってきました」

「つまりあの男の仲間ってこと?」

「それは、何と言ったらいいか……。少なくとも、あんな風に人を殺した彼を許せない気持ちは僕たちも同じです」

 そう答えるミツネに対し、女性はまだその真意を図りかねているようだった。

「どうかこの施設で起きていることを教えてくれませんか。僕たちはそれを知らなくちゃいけない。そして……」

 一瞬だけ言葉を止めて、深く息を吸い込む。

「もし彼が化け物になっているなら、僕たちの手で彼を殺します」

 力強く放たれたその言葉は覚悟と決意に満ちていた。その迫力に気圧されたのか、女性は気まずそうに視線を逸らす。ミツネはそれ以上何も言わず、ただ真っ直ぐなまなざしを彼女に向けた。

「わかった、一旦あなたたちを信じることにするわ」

しばらくの沈黙のあと、痺れを切らした女性は諦めたように言う。

「私は滝川。一応ここでは所長ということになってる。もっとも今は形だけで何の意味もなくなってしまったけどね」

 壁から背中を浮かせて、滝川は握手を求めるように右手を突き出した。とりあえずはミツネたちのことを敵ではないと判断したようだった。ミツネは安堵した顔を浮かべながらそれに応じると、三人の名前を告げて挨拶を交わす。

「……ちょうど一年半ほど前、彼は突然目を覚まして、私たちの前に現れた」

 手近に置いてあったカップを手に取って、すっかり冷め切ったコーヒーを啜る。そして少し重たそうに口を開き、滝川はクシミのことを語り始めた。

「どこからともなく知らない少年が現れたから驚いたわ。彼自身も状況が呑み込めていなかったようで、最初はかなり困惑した様子だった」

 クシミの証言を頼りに調べていくと、研究所の地下深くに隠された部屋があることが判明した。そこでずっと彼は眠らされていて、何か設定された条件を満たすと目を覚ますようになっていたらしい。

「彼は何も話そうとしなかった。私たちに対して警戒心を抱いているように見えたわ。こちらとしても彼は得体が知れなかったけれど、そのまま外に放り出すわけにもいかず、職員たちで世話をしながら色々と調べさせてもらった。友好的ではなかったにせよ、不思議と抵抗する素振りは見せず、検査に関しては素直に受けてくれていたわ。まあ、結論としては、私たちの知識と設備ではほとんど何もわからなかった」

 そして、そんな歪な共同生活がしばらく続いたあと、事件は唐突に起こった。

「その日も同じように検査をしていたら、大人しかったはずの彼が急に暴れ出した。検査機器を素手で破壊し、その場にいた職員五人を惨殺した。異変に気付いた私たちは、すぐに研究所の防衛設備を使って対応しようとしたけれど、いつの間にかシステム権限が彼に奪われていたの。結局私たちは何もできないまま、彼の暴力に付き従うことしかできなかった」

 それから研究所内の状況は一変した。クシミによる恐怖政治、独裁が始まる。職員たちは奴隷のように扱われ、気に入らなければすぐに殺される。それから約一年の間、彼の顔色を窺いながら何とか生き延びてきたが、三百人いた職員はすでに三分の一以下まで減ってしまっていた。

「友人、と言ったけれど、彼は一体何者なの?」

「彼は……いや、僕たちは眠らされる前に人体実験を受けていたんです」

 ミツネは自分たちにヒトデナシの細胞が埋め込まれていること、それによって自身も化け物になる可能性があることを説明した。

「つまり、彼は……」

「おそらくヒトデナシの細胞に飲み込まれてしまったんだと思います。見た目は変わっていないですが、少なくとも今の彼は僕たちの知っているクシミじゃない」

「まさかそんなにおぞましいことが行われていたなんて……。同じ科学者として恥ずかしい。人間はなんて傲慢なの……」

 事情を把握した滝川は一連の出来事に合点がいったようだった。そしてやるせなさを隠しきれず深い溜め息を漏らす。

「今度はこっちからも聞きたいんだが、ここは一体何の施設なんだ? あんたも科学者ってことは、何か研究してたんだろ? こんな世界で何を研究するって言うんだ?」

 話が一区切りついたところで、今度はニシナが滝川に尋ねる。

「ここではずっと培養肉の開発や食用動物の遺伝子組み換え、クローン家畜の研究などを行っていたわ。現代で食糧問題を解決するための研究だと聞いていたけれど、思い返すとところどころきな臭い部分もあった気がする。私の祖父が初代の所長を務めていたのだけど、その代の人たちはみんな亡くなってしまったから、そういう怪しいところは知らぬ間に葬られていたのかもしれない」

「なるほど。そうするとここでも手掛かりを得るのは望み薄だね……」

 実際に稼働していただけに、何か自分たちのことがわかる手掛かりを期待してしまっていたので、ミツネは少しがっかりした様子で肩を落とす。もちろん血眼になって探せば多少の情報は見つかるかもしれないが、核心を突くようなものは厳重に隠されているか、とっくに破棄されたあとだろうと思われた。

「それじゃ、話も済んだところで、そろそろ行くとするか。やられっぱなしなわけにもいかんし、ちゃんと約束を果たさないとな」

 滝川との情報交換を終えて、ニシナは凝り固まった身体をほぐすように伸ばしながら、部屋の外へ出ようと扉に向かって歩き出した。ミツネと莉葉も彼の言葉に頷き、その後に続く。

「待って、どうするつもり?」

そんな三人を見て、滝川が慌てた様子で進路を遮るように立って彼らを止める。

「どうするって、もう一度あいつのところに行くんだよ」

「無謀すぎる。あなたたちをここへ連れてくるだけでもギリギリだったの。もしこのまま外に出たら、彼のところに辿り着くどころか、その途中でセキュリティに見つかって排除されるだけよ」

 この研究所には一施設としては不相応すぎるほどの防衛設備が組み込まれていた。ミツネたちが戦った入口の警備ロボットもその一つだが、あれと同じような、あるいはより上位で戦闘能力の高いものたちが数十体以上、さらにより巨大な自律兵器なども配備されている。それらがすべて発揮されれば、たった三人の侵入者など排除するのは容易だった。

「それでも俺たちは行かなくちゃいけない」

 ニシナは滝川を避けて扉の前に立つ。

「わかったわ。でもそれなら私たちにも協力させて」

 肩に手を置いて強くニシナを引き留めると、滝川は意を決した声で言う。彼女たちもただクシミに付き従って、奴隷のように過ごしているばかりではなかった。その裏で密かに計画を練り、反旗を翻すときを窺っていた。そして、彼女は今こそすべてを賭して戦うときだと確信した。

「あんたらの仲間を弔うつもりはないぜ。これはあくまでも俺たちの戦いだ」

「それでいいわ。別に復讐がしたいわけじゃないから」

 それは滝川の本心だったが、同時に自分に言い聞かせる言葉でもあった。クシミへの怒りや憎しみは彼女の心に確かに存在しつつも、それに吞み込まれてはいけないのだという自戒の念がそれを押し殺そうとしていた。

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