2-7
静かに向かい合う二人の間に、柔らかな風が吹き抜ける。真っ直ぐ相手に向けられた目を瞬くことも、武器を強く握った腕の筋肉が震えることも許さないほどの緊張の中で、風になびく髪が森の木々と同じリズムで揺らめいている。
やはり先に動いたのは莉葉だった。両手で持った戦斧を振りかぶるように構えながら、勢いよく地面を蹴ってミツネに向かって突進する。
それは常人には反応することも難しいスピードだった。しかし、ミツネはその初動を見逃さない。彼女が飛び出してくる瞬間に、すでにいなすための準備を整えていた。
二人の距離が数メートルまで縮まり、ミツネは素早く振り下ろされた戦斧を避けようとわずかに身をよじる。ところが、その動きに一瞬遅れて、彼はある違和感に気付いた。
――攻撃が短い……!?
莉葉の戦斧は明らかにミツネのところまで届いていなかった。振りかざす瞬間に斧を短く持ち替え、わざとその刃が届かないように調整していたのだった。
すでに攻撃を避ける動作を始めてしまっていたミツネは、そのことに気付いても、体勢を立て直すまでにわずかなタイムロスがあった。その間に莉葉の戦斧が地面に突き刺さり、彼女はそこを起点として綺麗な弧を描くようにミツネの頭を飛び越えていく。
「……私の勝ち」
ミツネが振り返ろうとしたときには、すでに莉葉の戦斧が彼の頬をかすめていた。得意げに笑う顔を見て、ミツネは降参するように両手を挙げる。
「完敗だよ」
修行を始めておよそ二週間。莉葉の刃がミツネを捉えたのはこれが初めてだった。
「最初に比べたら見違えるほどだな。動きのキレもいいし、戦い方のバリエーションも増えてパターンが読みづらくなってる。何より武器をそいつにしたのは正解だったみたいだな」
近くで観戦していたニシナがそう言って莉葉の持つ戦斧を指差す。
着実に修行の成果は上がっていた。この一勝も決してまぐれではなく、莉葉が確かな実力を付けた結果だった。
「一旦これで修行は終わりかな。僕に教えられることは全部教えたし」
「そうね、ありがとう。あなたたちのおかげで戦い方だけじゃなく、色んなことを学べた気がする。この世界で一人生きてきたことにちょっとした自負を持っていたけど、ただ自分は運が良かっただけだってことがよくわかった」
ミツネと莉葉は互いに自分の愛用する武器を丁寧に手入れしながら、目を合わせずにぽつぽつと言葉を交わす。作業をするついでに語るふりをするからこそ、普段よりも少しだけ心を曝け出すことができた。
「ねえ、一つだけ聞いてもいい?」
一瞬だけ迷うように言葉を止めたあと、意を決して尋ねる。
「あなたたちはどうして旅をしてるの?」
それはずっとあえて避けるようにしていた話題だった。決して自分たちから話そうとしないので、莉葉はミツネたちがそれを話したくない理由があるのだと思っていた。
しかし、明らかに異質な二人と過ごしているうちに、その疑問は増していく一方だった。最初は好奇心のみだった感情は徐々に変化し、今では掴みどころのない彼らへの心配が勝っていて、何か手助けになれないかと考えてついにその質問を口にしたのだった。
「別に隠してるわけじゃなかったんだ。でもわざわざ話すようなことでもないし、そもそもどこから話せばいいか……」
ミツネは困ったようにはにかみながら言い淀む。莉葉が野次馬心理で聞いてきているわけではないことがわかっていたから、どう答えるべきか悩んでいた。嘘や誤魔化しで場を凌ぐのは不誠実だと思いつつ、何の関係もない彼女に長々と自分語りをするのも気が引けた。
「大丈夫。どこからでも聞くわ。せっかくこうして知り合えたんだから、あなたたちのことをもっと知っておきたい」
そんな莉葉の熱意に押し切られる形で、あるいはそれを言い訳にして、ミツネは一度手を止める。本当は心の片隅で、誰かに聞いて欲しいという想いを抱えていた。そして自分たちと境遇の似ている彼女ならば、話してもいいと思えたのだった。
「突拍子もない話に思えるかもしれないけど……」
そうしてミツネは遠い記憶を呼び起こしながら、ゆっくりと語り出した。
ミツネには幼い頃に両親を不慮の事故で亡くしていた。幼い子どもを引き取ることができる親戚はおらず、しばらくたらい回しに遭ったあと、結局そのまま孤児院に入れられることになった。
彼が暮らしていた孤児院は特殊な施設だった。ある研究機関の近くに設置されていて、表向きはその研究機関を運営する会社が行う慈善事業という建付けになっていた。
しかし、実態は大きく異なっていた。その研究機関は人間や動物の遺伝子研究を行っていたのだが、その実験試料として集められていたのが孤児院の子どもたちだった。そのため、ミツネたちは『健康診断』という名目で様々な実験や調査が行われていた。
実際にどういった研究が行われていたのか、そもそも何を研究するための施設だったのか、といったことはミツネたちにもわからない。ただ、非合法でリスクと伴うことが行われていたことは確かだった。
実際に彼の周りでも度々友達だった子が姿を消すことがあった。大人たちは新しい親に引き取られたのだと言っていたが、そうでないことは状況から察していた。どうやらミツネたちのように正規のルートで引き取られた子どももいれば、人身売買に近いような形でやってきた子や、そもそも戸籍を持たない子もいたようだった。そうした子たちはよりリスクの高い実験の対象者となり、何かしらの理由で消えてしまうことがあったのだと思われる。
そうした環境下ではあったものの、ミツネは比較的平穏な日々を送っていた。
施設の大人たちはまさしく親代わりとして、優しく親切に彼らを育ててくれた。『健康診断』以外は特に課せられた義務もなく、孤児院内に学校施設も併設されていたため、人並みの教育を受けられるようになっていた。もちろん衣食住も保証され、誕生日になると好きな物を何でも買ってもらうことができた。
不満と言えば施設の外に出ることが制限されていることくらいで、むしろ親を亡くした自分がこんなにも豊かな暮らしをできることに感謝さえしていた。
しかし、ちょうどミツネが十五歳の誕生日を迎えた頃、幸せだった日々に突然影が差し始める。
「人類が滅亡するかもしれないらしい」
そんな噂が施設中で回り始め、同じ時期にテレビでは「不治の奇病が蔓延している」という話題ばかりが連日流れるようになった。
閉鎖的な暮らしをしているミツネたちは、その深刻さをあまり実感できていなかったが、施設の大人たちが明らかに取り乱しているのを見て、尋常ではない事態が起きているのだということを何となく理解した。
そして世界が日に日に混乱を極めていく中、ある日ミツネは研究所の一室に呼び出された。
「君たちはこの施設にいる子たちの中で、とりわけ優秀であると判断された。そこで今日からはこの研究所で生活し、特別な訓練を受けてもらいたい。訓練を終えたあかつきには、この施設を出て、今より何倍も良い暮らしと自由が手に入ることを約束しよう」
さほど広くない部屋に集められたおよそ三十人の子どもたちに向かって、おそらく偉い立場なのであろう白衣を着た中年の男が芝居がかった口調でそう語った。
一応の選択権が与えられ、拒否する場合は帰っていいと言われたが、誰も席を立つ者はいなかった。所詮は生活を保障してもらっている立場である以上、その場に呼ばれた誰もが大人たちの命令に背くことは得策ではないと考えたからだ。
それに最後に語られた自由という言葉は、ミツネたちにとって甘美な響きだった。施設での生活に不満はないとは言え、外の世界で暮らしてみたいという想いは隠しきれない。
「それじゃあ、期待しているよ」
男は不敵な笑みを浮かべながら去っていき、その日からミツネたちの生活は一変した。
彼らが受けたのは、さながら軍隊のような訓練だった。様々な武器の扱い方やそれを使った敵との戦い方を教えられ、そしてそれを実現するための基礎体力作りや実践訓練なども行われた。
今までは月に一度だった『健康診断』も週に一度に増え、より精密な検査や得体の知れない薬の投与が繰り返された。
最初は三十人いた子どもたちは次第に人数を減らし、一年半が経って残ったのはミツネを含めたった七人だけだった。
「なんかずいぶん寂しくなっちゃったね」
孤児院で暮らす他の子どもたちとの接触もなくなり、完全に隔離された環境で暮らすようになっていたため、日々の苦しい訓練をともに乗り越える仲間として、自然とその七人は仲が深まっていた。
「いなくなった根性なしなんて知ったことかよ。俺たちは絶対に外で自由になってやろうじゃねえか」
しかし、その生活もすぐに終わりを迎えることになる。彼らが訓練に勤しんでいる間も、人類は未知の奇病に侵され続け、その後に突如出現した正体不明の化け物の被害も加わって、ほとんど世界は崩壊してしまっていた。
研究所からもどんどん人がいなくなり、訓練や健康診断もろくに行われないようになった。そして最後に残った研究員たちは、彼らを見捨てるか、ともにこの場所で心中するかという選択に迫られて、ある決断をすることになる。
「僕は君たちに本当のことを話さなくてはいけない」
研究所の中でも特によくしてくれていた中村という職員が、突然ミツネたちを集めてそんなことを話し始めた。
「君たちには『健康診断』と称して、ある実験が行われていた」
彼が語ったのは、この施設内で行われていたある研究についてだった。それは人類を滅亡に追い込もうとしている未知の奇病『鱗粉病』に関するもので、その実験体となっていたのがミツネたちだった。
鱗粉病は旧現代の医学では治療方法が存在せず、人類はただ自分のところにウイルスと言う名の死刑宣告がやってくるのを震えながら待つことしかできなかった。
そんな絶望の淵で、さらに人類から希望を奪ったのが、山梨県に落下した隕石だった。隕石自体はさほど大きな被害を出さなかったものの、その副産物として地球上に降り立ったのが、『ヒトデナシ』と呼ばれる化け物だ。
ところが、この絶望二つが掛け合わさったことで、思わぬ形である一筋の希望が差し込むことになる。
鱗粉病は人間に限らずすべての生物に感染する病だったが、唯一その猛威を全く寄せ付けなかった生物がいた。それこそがこの『ヒトデナシ』という未知の化け物だった。
「君たちは鱗粉病を治すための研究の被験者だった。その研究というのは、人間の身体にヒトデナシの細胞を移植し、鱗粉病に対する抗体を作るというものだ」
ミツネたちの身体には、すでに一年以上をかけてゆっくりと細胞の移植が行われていた。そしてその実験はすでにほぼ成功と呼べる段階まで辿り着いており、彼らは実際に鱗粉病に対する抗体を獲得していた。
「抗体以外にも、様々な副次的効果がある。身体能力の向上、異常なまでの治癒能力、そして、普通の人間にはありえないような超能力の覚醒。きっと君たち自身も気付いているだろう?」
確かに言われたことには心当たりがあった。特にここ数か月の間で、自分が人間離れした存在になっているのを感じていた。きっと『健康診断』で投与された何かによるものだとは思っていたが、まさか化け物の細胞を入れ込まれているとは思いもしなかった。
「じゃあ俺たちが受けてたあの訓練はなんだったんだ? ただの人体実験なら、戦闘訓練は必要ないだろ」
「……それは、抗体を持った君たちを軍事的に活用しようとしていたんだ」
鱗粉病に汚染された地帯では軍隊も上手く機能せず、それによってヒトデナシの被害が深刻化している実情があった。加えてこの混乱に乗じて他国への侵攻を図ろうとする国もあり、そこから日本も巻き込む世界大戦に発展する可能性も危惧されていた。
「残念ながら、ヒトデナシの細胞を移植するのには時間と手間がかかりすぎるし、成功率も低いからビジネスとしては成り立たない。そこで上層部は方針を変えて、別の形で儲けようと考えた。それが君たちだ」
研究所の上層部が考えたのは、鱗粉病に臆さずどこでも戦うことのできる兵士を作り出すことだった。ヒトデナシへの対策や各地の紛争など、その需要は計り知れない。だからミツネたちに細胞の移植を行いながら、同時に軍事訓練を行って戦闘要員として育て上げたのだった。
「君たちには本当にすまないと思っている。だからこうして真実を話すことにしたんだ」
「でもどうして今さら? そもそもこんなこと話しちゃったら、あなたたちが危ないんじゃ……」
「もはや世界の状況がそれどころではなくなったんだ。このまま行けば人類のほとんどが滅亡することになる。それなのにお金を儲けたって意味がないだろう。それよりも今はいかにして自分が生き残るかを考えなくてはいけない。お偉いさんたちはそっちにご執心さ」
世界はミツネたちが想像しているよりも悲惨な状況になっていた。日本も国というものが崩壊し、生き残るために各地で人々が争い合い、特権を得たごく一部の人たちだけが安全な場所で安心できる暮らしを得ている。
「こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、君たちには生きて欲しいと思っている。君たちを救うことが、僕たちが犯した罪に対する唯一できる償いだ」
それは中村の本心だった。ずっとこの研究に疑問を抱いていた彼は、自分を騙して上の言いなりになり続けてきた自分を恥じていた。世界が終ろうとしている今、自分はもうどうなってもいいが、せめて自らの手で汚してしまった子どもたちだけは救いたいと考えていた。
「何よりも君たちは希望なんだ。君たちの身体をもっときちんと研究できれば、人類は鱗粉病を克服できるかもしれない。ただ今の人類にはその余裕がなくなってしまった。だから君たちは生きて、未来に希望を繋いでほしいんだ」
ミツネたちはそんな中村の言葉に何を思えばいいのかわからず、ただ無言で俯くことしかできなかった。
「君たちをそれぞれ各地にある研究施設に連れていく。そこでいわゆるコールドスリープの状態で眠ってもらおうと思うんだ。今の人類には無理でも、数十年経った世界なら、君たちの中にある希望が生かせるときが来るかもしれない。少なくとも今よりは世界もマシになってるはずだ」
中村は七人全員にゆっくりと視線を向ける。そして震える声を抑えるようにして言った。
「どうか、幸せに生きてくれ」
「それで僕たちは長い眠りについて、起きたらこうして見事に終末世界になっていたってわけ。眠らされるときに散り散りにされちゃったから、その昔の友達たちにもう一度会うために、僕とニシナは旅をしてるんだ」
「……そういうことだったのね」
過去の話を一通り聞き終えて、莉葉はこれまでの色んなことに合点がいった。しかし、彼女の中で一つだけはまりきっていないピースが残されていた。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
少し悩んだ末、ミツネが隠した最後のピースを見つけるため、さらに踏み込んだ質問をぶつける。
「あなたたちはただ友達を探しているわけじゃない。申し訳ないけど、そんなに楽しそうな旅には見えなかった」
「……まあ、隠してもしょうがないか」
ミツネは参ったといった困り顔で、あえて避けていた部分を語り出す。
「実は僕たちが受けた細胞移植には、副作用があったんだ」
「副作用?」
「うん。それこそあの実験の成功率が低いとされた要因であり、最初は三十人いたはずの子どもたちが僕たち七人だけになっていた理由でもあった」
真剣なまなざしを向ける莉葉の顔を見て、少し躊躇うような素振りを見せたあと、溜め息を吐きながらさらに言葉を続けた。
「いつか、化け物になるかもしれない。それが僕たちの抱えてる副作用だよ」
まさに莉葉の境遇は、ミツネたちと似ている部分が多すぎた。だからニシナは彼女の話を聞いて涙を流し、ミツネは彼女の強くなりたいという想いに全力で協力することにした。
「じゃあ、友達を探しているっていうのは……」
似た境遇であるがゆえに、莉葉は彼らが何を考えているのか咄嗟に理解することができた。
「そう。僕たちは別れるときに、みんなで約束したんだ。長い眠りから目が覚めて、もしまた会えたら、また会えたときに化け物になっていたら、そのときは正気な人が化け物になった人を殺してあげようって」
ミツネたちの旅は再会のための旅ではない。むしろ正しい別れのための旅だった。
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