1-2

 目を覚ましてすぐ、二人は異変に気付いた。

「明らかに森が騒がしいな」

 重なり合う木々を伝って、少し離れたところから喧騒が響いてくる。

「もしかしたら、人がいるのかもしれない」

 このざわめきは野生動物によるものではなかった。おそらく自然に馴染まない人間が放つ気配だろう。激しく動き回っているようだから、何者かに襲われている可能性もある。

 すぐに荷物を整えると、慎重に気配のする方へと向かう。さほど距離は離れていないようで、近づけば近づくほどその音は鮮明に届いてきた。

「誰か、助けてくれ……!」

 はっきりと声が聞き取れるのと同時に、その姿を視界に捉えた。

 助けを求めているのはひどく弱々しそうな青年だった。腰が抜けた様子で地面に尻もちをついて、恐怖で身体をぶるぶると震わせている。

「これは当たりかもしれないな」

 ニシナはたまらず笑みをこぼす。その青年は身なりを見るにずいぶんと軽装で、ろくな武器も持っていないようなので、おそらく旅人ではないと思われた。ということは、この辺りに住んでいる可能性が高い。そしてこんな森の中で人が住めるとすれば、それはマチ以外には考えられなかった。

「とにかくあの人を助けないと!」

 怯える青年の前には、彼らの背丈をゆうに超える巨大な化け物が迫っていた。大きく裂けた口には鋭い牙が光、獣のような耳を付けた人型の化け物。ミツネたちはその化け物のことをよく知っていた。

「『ヒトデナシ』か。こんなところにまでいるとはな……」

 その化け物は『ヒトデナシ』と呼ばれていた。

 ちょうど世界が鱗粉病によるパンデミックで混乱する中、彼らは日本人に追い打ちをかけるように現れた。発端は山梨県に落下した隕石。その中に地球外生命体が存在しており、それが地球に降り立った後、爆発的に数を増していった。

 姿は地球上の生物と似ているが、凶暴性が非常に高く、人間に敵意を向けて攻撃をしてくる。また、人型に近い獣人のような姿をしたものもいて、その中でも知能が高い者は人語を介するとも言われている。

 鱗粉病によって人口を減らし、ヒトデナシによって生存圏を奪われた結果、日本人はもう五十年ほど前から、限られた場所で旧時代的な自給自足の生活を送ることを余技なくされていた。日本は病と地球外生命体に完全に敗北したのだった。

「俺が奴の注意を引きつける。その間にお前はあの人を安全なところへ」

「わかった」

 ミツネは腰に差した刀に手をかけ、いつでも動き出せるよう前傾姿勢で構える。そして、二人は無言のままアイコンタクトを交わすと、それぞれ左右に分かれて一気に走り出した。

「こっちだ」

 ニシナはあえて見つかりやすいように、遮蔽物のない道を選んで走る。そして挑発するように声を発しながら、斬撃のように鋭い風をヒトデナシに向かって放った。相手との距離があるため上手く命中はしなかったが、顔をかすめて灰色の毛が宙に舞う。おかげで牽制としては申し分ない効果を発揮したようで、ヒトデナシの注意が一気に彼の方に向かった。

「大丈夫ですか?」

 ヒトデナシがニシナの方へと向かっていく隙に、身を隠していたミツネが襲われていた青年に駆け寄る。青年はひどく怯えていて、腰を抜かして完全に動けなくなってしまっていだ。顔につけた鱗粉病対策の防護マスクが欠けて、額から血を流していたが、他に大きな外傷などはない。間一髪のところで助けることができたと、ミツネは安堵の息を漏らす。

「彼が何とかしてくれているうちに、早くここから逃げましょう」

 そう言ってミツネが青年の手を掴むと、何故か彼は首を振って逃げようとしない。

「どうしたんですか? 早くしないと……」

 手を引っ張って無理矢理立ち上がらせようとしたところで、青年が震える声で呟く。

「う、後ろ……」

 しかし、ミツネが青年の言葉の意味に気付いたときには、すでに手遅れだった。後ろを振り返った瞬間、彼の左肩を鋭い爪が引き裂いた。

「そうか、もう一匹……」

 肉がえぐれ、血が湧き出る方を抑えながら、辛うじて青年を庇うようにヒトデナシに相対する。ニシナは少し離れたところで以前交戦中なので、さっき見たのとは別の個体のようだった。青年は最初から二匹いることを知っていたから、ミツネに手を引かれても、恐怖にやられて逃げることができなかったのだった。

「ここは何とかするので、あなたは逃げてください」

 ミツネは目の前のヒトデナシからは目を逸らさずに、後ろにいる青年に告げる。

「でも、そんな傷じゃ……」

「大丈夫、このくらいの傷はすぐ治りますから」

 そう言って、ミツネは押しやるようにして青年を逃がす。彼はもつれる足を何とか踏ん張りながら、慌てて森の奥へと逃げていった。

「さて。ずいぶん手ひどくやってくれたもんだね……」

 左腕は肩の傷からだらんと伸び切っていて、全く力が入らなかった。使い物にならなくなった左は諦めて、右手だけで器用に刀を鞘から取り出す。

 このヒトデナシは人型なだけあって、知能はそれなりに高いらしい。その証拠に、先ほどからこちらの様子を窺って襲いかかってこない。いっそ適当に攻撃してきてくれる方が楽だったが、そういうわけにはいかないようだった。しかし、知能が高いと言っても、先ほどのニシナの挑発に乗る程度なので、特別に警戒するほどではない。

 鋭い牙と爪を持っていて、殺傷能力は高そうだが、攻撃は直線的で単調。相手の攻撃を誘って、その懐に入ってカウンターを食らわせるのが最適だとミツネは考えた。

 足を少しずつ前に出し、相手の間合いに入るようゆっくりと滲み寄る。すると彼の思惑通り、リーチギリギリのところまで近づいたタイミングで、好機と言わんばかりに勢いよく鋭い爪が眼前に振り下ろされた。

 そこからは一瞬の出来事だった。ミツネはほんの数ミリの隙間を残して、寸前で相手の攻撃をかわすと、そのまま地面に突き立てられた腕を一閃。そして、片腕を失ったことで体勢を崩したところに、刀を返して首元に刀を振り上げる。

「お、ちょうど終わったか」

 首を落とされた巨大が鈍い音を立てて倒れ込むのと同時に、ニシナが空から軽やかに着地し、ミツネの肩に手をかける。

「って、おい! こっぴどくやられてるじゃねえか」

 ニシナはちょうど手をかけた左肩がぱっくりと割れていることに気付き、まるで泥を落とすように慌てて手を払う。心配するほどのことではないとわかっての行動だというのは理解していたが、それでもあまりにひどい態度にミツネは呆れた顔を浮かべた。

「それで、あいつは?」

「一応戦闘に巻き込まないように、向こうの方へ逃げてもらった。追いかけて話を聞かないとね」

 二人は念のため新手が来ないかどうかを警戒しながら、助けた青年を探して森の奥へと進む。どうやら彼はもはや逃げ去る体力も残っていなかったようで、ほど近い茂みの陰に隠れており、すぐに見つけることができた。

「もう大丈夫ですよ。あいつらはとりあえず追い払いましたから」

 ミツネが優しく声をかけると、青年はその声に反応してびくりと身体を強張らせる。そしてゆっくりとこちらを振り返ると、安堵した表情を浮かべて、へたり込むように脱力した。

「ありがとう。君たちがいなかったら絶対に助からなかったよ」

 差し伸べられた手を掴んでよろめきながら立ち上がると、服に付いた泥を軽く払って、しゃがれた声で礼を言う。

「そういえば君、肩は大丈夫……!?」

 そうして落ち着いたところで、青年は思い出したようにミツネの傷を心配する言葉を口にした。すると、ミツネはどこかバツの悪そうな顔をして、さりげなく左肩を隠すように身体を背けた。

「あれ、その傷……」

 しかし、青年は一足先にその違和感に気付いてしまう。ヒトデナシの爪に引き裂かれ、ぱっくりと開いていたはずの肩の傷がいつの間にか繋がっていた。服は破れ、凄惨な事件現場のように赤黒い血が残されているにも関わらず、肝心の傷が完全に塞がっている。

「そもそもなんでマスクをつけてないんだ……?」

 青年は腰を低く身構えて、じりじりと後ろに下がりながら、まるで身を守るように顔を覆ったマスクを手で押さえる。そして、震える手で腰に刺した短刀を抜くと、真っ直ぐミツネの方に刃を向けた。

「待ってください。僕たちは怪しいものじゃ……」

「ひいッ! こっちに来るな、化け物!」

 完全に敵意をむき出しにされ、話を聞くどころではなくなってしまった。本来ならば外界で一般人と会うときは、青年と同じように防護マスクをつけるのが鉄則だった。それがこの世界での〝普通〟なのだから。そんな初歩的なことを失念したことに、ミツネは歯がゆさを覚える。

「めんどくせえな。そっちがその気ならそれでもいいや。痛い目を見たくなかったら、質問に答えてくれる?」

 ニシナはけだるそうにそう言いながら、ミツネの前に出て、突き立てられた短刀を素手で握り止める。そして滴る血を意にも介さずに鋭い視線を向けると、その眼光が具現化したように激しい風が吹いて、青年の頬をかすめて皮膚を切った。

「ちょっと、ダメだって……!」

 そんな彼を見かねて、ミツネが抱きかかえるようにしてニシナを青年から引き剝がす。青年は持っていた短刀を取り落とし、恐怖にまみれた表情で慌てて逃げ去っていった。

「あ、おい! 待て!」

 追いかけようとするニシナと、それを制止するミツネ。しばらくその悶着が続いているうちに、青年は木々の向こうに姿を消してしまった。

「なんだよ。お前のせいで取り逃がしちまっただろ」

「あんな脅すようなやり方はよくないに決まってる」

 ミツネの言うことを理解しつつも、マチに関する情報を得る絶好の機会を失ったことに苛立ちを覚え、ニシナはやり場のない感情を深い溜め息とともに吐き出す。

「人を化け物呼ばわりする奴をよくもそこまで庇えるもんだよ」

 嫌味っぽく吐き捨てられた言葉はミツネに対する皮肉でありつつも、半分は本音も入り混じっていた。それを感じ取ったミツネはあえてそれに何も答えず、話題を変えるように話を続ける。

「でもこれでニシナの言うように、生きているマチがある可能性がかなり高くなったね」

 麓の集落に住む人たちがわざわざ鱗粉病やヒトデナシの危険があるこんな森の中に来る理由はない。同じように、こんな森の奥深いところに集落がある可能性も低い。そう考えると、あの青年はこの近くに住んでいて、かつ、そこはある程度の安全性が担保されているということだ。それはつまり、旧現代の遺物であるマチが残っている可能性を示唆している。

「とりあえず戻って荷物を回収しないと。その後、あの人が向かった方を探してみよう」

 ミツネはふてくされるニシナの背中を強めに叩いて、来た道を引き返していく。ちょうど踵を返す瞬間、切り裂かれた肩口に風が当たって少し冷たさを感じた。

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