第一章 帰る場所

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 深く静かな森が続いていた。頭上には覆いかぶさるように茂った木々が空を隠し、地面から浮き出た大きな根が波のように重なり合って足取りを阻む。鳥のさえずりすら聞こえない静寂が張り詰めているせいで、地面を踏みしめる度にその足音がうるさいくらいに響き渡る。その不本意な破壊行動の繰り返しが余計に徒労感を増していた。

「やっぱりこんな山の中を通らなくてもよかったんじゃない?」

 ミツネはいよいよ痺れを切らし、溜まっていた不満を漏らす。しかし、そんなことをお構いなしというように、先を行くニシナは軽やかに根から根へと飛び移っていった。

「絶対こっちの方が近道なんだって。それに地図によれば、この先には『マチ』があるはずだ。美味い食い物があるかもしれないし、寄っていかない手はないだろ」

「『マチ』ねえ……」

 本来ならばもっと平坦で進みやすい道もあったにも関わらず、ニシナがどうしてもマチに寄りたいというので、わざわざ危険な山の中に入る道を選んだのだった。目的地があってないような旅なのだから、どんな道でも問題はない。しかし、かれこれ丸三日以上同じ景色の中を進み続けていて、ミツネは精神的にも肉体的にも限界が訪れていた。

「とりあえず一回休憩しよう……」

 ミツネはちょうどいい根を見つけると、荷物を下ろしてそこに腰かけた。一度座ると全身の疲労感が一気に全身を駆け巡る。

 空が木々で完全に隠れてしまっているので気付かなかったが、いつの間にか太陽も沈みかかっていた。思い返せば朝から何も食べておらず、胃の中は完全に空になってしまっていて、息を吸うのと同時に微かな吐き気を覚えた。

「……ったく。本当は今日中にマチを見つけたかったけど、しょうがねえな」

 すっかり満身創痍のミツネに比べ、ニシナはまるで疲れた様子が見えない。重たい前髪が顔にかかった明らかにインドア派のミツネと、脱色した派手髪で華のあるニシナは、見た目通りバイタリティに差があるようだった。

「ずいぶんマチにこだわるけどさ、今まで行ったところは軒並みハズレだったでしょ」

 ニシナは行く先でマチを見つけると、必ずと言っていいほど寄りたがった。彼曰く、そこには過去の人々が遺した物がたくさん眠っていて、資材や燃料、食糧など、旅人にとっては宝の山だと言う。

 しかし、これまで何か所もそのマチを訪れた彼らが見たのは、自然に侵食されて崩壊した廃墟ばかりだった。長い間をかけて建物はその役割を失い、中に遺されていたであろう宝の山はほとんど誰かに持ち去られたあとだった。

 それでも彼は諦めず、マチに夢を求め続けていたが、ミツネにはそれが徒労にしか思えず、すっかり辟易してしまっていた。

「いや、まだ手が付けられていない場所だってあるはずだ。それどころか、まだ生きているところを見つけられる可能性も充分ある」

「そうかもしれないけど……」

「それに、何か俺たちが求める手掛かりだってあるかもしれないだろ?」

 もちろんミツネもそのことはわかっているつもりだった。だから不満を言いつつも、マチを探すこと自体には反対しない。

 腹が減っているせいか、マイナスなことばかり考えてしまっていたようだった。どうせこの旅は当てもなく果てしないものなのだから、徒労や回り道に一喜一憂していてはどうしようもない。そのことを思い直し、ミツネは気持ちを切り替えるように勢いよく息を吐き出す。

「ともかく休むにしても、もう少し身を隠せるようなところを探そう。ここじゃ囲まれたら一発アウトだ」

 ニシナはうなだれるミツネの腕を掴み、引っ張るようにして散策を再開する。重たい身体を何とか引きずって、ミツネはその後を追った。

「ちょっと待って、あれ……」

 ずんずんと進んでいくニシナに対し、少し遅れて歩いていたミツネが何かを見つけた様子で声を上げる。

「……人、だよね?」

 遠目でわかりづらかったが、それは明らかに人の形をしていた。木の根本に寄りかかって、身体をエル字に曲げてへたり込んでいる。その恰好はあまりに不自然で、まるで人形のように見えた。

「とりあえず近くまで行ってみるか」

 二人は周囲に警戒しながらゆっくりと人影のところへ近づいていく。しかし、細かい部分が確認できるようになると、その悲惨な姿が露わになっていった。

「これはひどい……」

 その男がすでに息絶えていることは一目瞭然だった。全身の皮膚は焼けただれたように黒ずんでいて、目は落ち窪み、眼球の片方は地面に転げ落ちてしまっている。顔面はもはや原形を留めていなかったが、底知れない恐怖と苦しみだけがひしひしと伝わってきた。

「『鱗粉病』だな」

 彼を蝕んだその病は、『鱗粉病』と呼ばれる奇病だった。およそ七十年前に突如として現れ、わずか十年で世界の人口のおよそ九割を死滅させたと言われている。有効な対処法は存在せず、一度感染すれば数日で死に至る。

 感染すると全身の皮膚がぼろぼろと剥がれていき、細かい粉状になってまるで鱗粉のように見えることからその名前が付けられていた。非常に感染力が強く、この鱗粉を少量でも吸い込めばすぐに発症してしまう。

「放っておくわけにもいかないし、ここで処理しよう。幹の太い木の根本だから、森に燃え移ることもないだろ」

 周りに軽く燃料を撒き、死体に火をつけて燃やす。鱗粉は火に弱いので、死体を燃やしてしまえばそれ以上感染が広がる心配はない。

 肉が焼ける臭いに包まれながら、二人はその死体が燃え尽きるまで静かに見守っていた。と言っても、すでに身体をひどく蝕まれていた彼は、一度火が付くとひどくあっけなく灰と骨になって消えた。

「行くか」

 最後に軽く手を合わせ、その場を後にする。幾度となく見た光景にも関わらず、未だにミツネはこうして人を弔うのに慣れなかった。

「こんなところに人がいるってことは、本当にマチが動いているのかもしれないな」

 そんなミツネとは対照的に、ニシナは早くもこの先のことを考えていた。自分以上にこういった悲しみや虚しさに向き合ってきたであろう彼が、一体どんな想いでいるのか、ミツネにはまるでわからない。そして同時に、自分の本当の感情を表に出そうとしない彼のことが少しだけ心配だった。

「よし。近くに川もあるし、今日はこの辺りで休もう」

 それからしばらく歩き続け、ようやく腰を据えて落ち着ける場所を見つけることができた。周囲を草木に囲まれているので外から見つかりづらく、何者かが近づいてくれば音で気付くことができる。それに、衣服に鱗粉がついている可能性があったので、洗濯ができる川が近くにあるのはとてもありがたかった。

 手早く野営の準備を済ませ、昼間に狩った鳥の下処理をして、火を起こした頃にはもうすっかり夜になってしまっていた。木々のわずかな隙間から辛うじて入ってきていた陽光も失われ、周囲は完全な暗闇に包まれる。焚火で照らされた半径数メートルよりも外は、黒ベタで塗り潰されたようにほとんど何も見えない。

 もう旅を始めてから半年以上経つというのに、ミツネは未だにこの時が止まった世界に取り残されたような感覚には慣れなかった。雑音が一切ないこの空間には、自分たちは存在してはいけないもののように思える。しかし、そんな世界と自分の乖離がどこか心地よくもあった。

「早く食わないと焦げちまうぞ」

 ミツネが取り留めのない思考に溺れているうちに、すっかり鶏肉が焼き上がっていた。皮目に油が滴るのを見て、思わず腹が鳴った。しばらくレーション中心の生活が続いていたので、こうして温かい肉を食べられるのは久しぶりだった。ニヒルを気取って悦に浸っていたことなどすっかり忘れ、彼は湧き上がる食欲に支配されるがまま、その肉にかぶりつく。

「そういえば、昔もよくこうやってキャンプみたいなことをさせられたよね」

 味付けのない淡泊な肉の味に、ふと遠い記憶が呼び起こされる。

「ニシナは『虫が出るし不衛生だから嫌だ』とか言って、いつも不機嫌だったよね」

「ああ、そうだった。俺が虫嫌いなのを面白がって、朝起きたら枕元にびっしり虫が敷き詰められてたんだ。あの時は本当に気が狂うかと思ったぜ。思い出したら腹が立ってきた……」

「いや、あれは僕も止めたんだけどさ……」

 そんな風になんてことのない思い出で笑い合えることがすごく幸せに感じられる。二人の間で揺れる暖かな炎が、この瞬間だけ二人の頭から余計なものを消し去ってくれていた。

「早く会いたいな、みんなに」

 ミツネが何気なく呟く。

「そうだな」

 二人はそのまま静かに焚火を眺めたあと、いつもより少し早く眠りについた。

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