水円 岳

 引越し屋のバイトは、きついけどそれなりに実入りがいい。体力的にめっちゃハードで、ガクセイには人気がイマイチだから、応募した時に「もう埋まっちゃいましたー」ってのもあまりないし。同じところで何回かやってると、そこの営業所から「この日、来てくれないかい」と誘いが来たりもする。きついって言っても、慣れればペースがわかってくるし。

 しかも毎度毎度きついとは限らない。戸建てはハードだけど、独身や単身系はそもそも荷物の量が少ないし、箱ものメインだ。そういう日はラッキーデイってことになる。さて、今日はどうかな。点呼の時にタカハシさんに確認した。


「タカハシさん、今日の現場はどんな感じっすか?」

「箱ものばかりだ」

「家具や電化製品は?」


 タカハシさんが、見積もりのコピーを見ながらそっけなく答える。


「ない。処分したのかも」

「そっか。じゃあ、楽そうですね」

「さあ、どうだろうなあ」


 タカハシさんは五十絡みのおじさんで、営業所のベテランだけど社員じゃなく、長いことバイトをしているフリーターだ。髪はごま塩。結構ハンサムだと思うけどしゃれっけが全然なくて、作業服姿しか見たことがない。無精ひげだらけのまま来ることも多いし。

 背は高くないし見るからにガタイがいいわけじゃないけど、どえらい力持ちで俺らとは馬力が全然違う。俺らがひいこら運ぶ大物まで一人で上げ下げしてしまう化け物みたいな人だ。でも物静かで、怒ったりいらいらしてる姿を見たことがない。黙々と働くっていう感じ。

 長いこと働いてるだけあって手際がよく、俺らのような図体と態度だけはでかい役立たずを上手に指揮して、ちゃっちゃと荷下ろしと積み込みを済ませる。引越しバイトは仕切る人の腕と性格次第でしんどいか楽ちんかが決まるから、タカハシさんと一緒の組になれば楽してバイト代がもらえる。他の組のバイトたちからうらやましがられるんだ。いいなあってね。


 その日は午前、午後一件ずつで、どっちも独り者の引越しだったから二重にラッキー。独身者だと大型の家具や電化製品はまずないし、箱ものメインで運び出しや積み込みがしやすい。作業が短時間で終わるから早く上がれる。今日は楽勝だな。


◇ ◇ ◇


 午前中はあらさーくらいの女性の引越しで、部屋はアパートの二階だった。ワンルームだから荷物は少ないし、事前情報通りで家具や電化製品はない。箱ものだけだ。

 箱詰め作業に疲れ果てたようなひっつめ髪の痩せたおねえさんが、ぼんやりと俺らの荷出しを見守っていた。箱ものだけなら楽勝だし、その箱も軽い。きっと衣類メインなんだろう。とことんラッキーだ。

 社員の矢作やはぎさんは俺らバイトのお目付け役オンリーで、荷出しは手伝ってくれない。代金精算のことでおねえさんとやり取りをしている。ずるいなあと思うけど、この程度の量ならわざわざ手伝ってもらうまでもないもんなあ。

 とかぶつくさ言ってる暇もなく、あっという間に荷出しが終わってしまった。タカハシさんが部屋をもう一度チェックして運び残しがないことを確かめ、おねえさんにも念を押した。


「荷は全部出てますよね」

「はい。これで全部です」

「わかりました」


 確認表にサインをもらって矢作さんの書類と照合したタカハシさんは、軽やかにアパートの階段を降りた。でも、降りてすぐ不安そうに部屋を見上げた。俺は……喜怒哀楽があまり顔に出ないタカハシさんにしては珍しいなと思ったんだ。


「どうしたんすか?」

「いや、本当に全部荷出ししたかな」

「えー? ワンルームなら見落とすような荷物なんかないっすよ」

「そうかな。一箱残ってるように感じたんだが」

「チェックしたんすよね」

「したよ。ただ、箱ものは厄介なんでね」

「へ?」


 どこがだろう。荷造りも運ぶのも、めっちゃ楽だと思うんだけど。

 先に車に乗っててと言い残して、タカハシさんが階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。それから矢作さんと何かごそごそ話をして、おねえさんの部屋の呼び鈴を鳴らした。こそっと顔を出したおねえさんと二言三言何か話したタカハシさんは、そのあと部屋に入って十分くらい出てこなかった。

 最初はわあい休めるラッキーとバイト連で騒いでたけど、なかなか出てこないからどんどん不安になってきた。


「タカハシさん、どうしたんかな」


 俺が代表で聞いてこようと思ってバンを降りたら、やれやれという表情で部屋を出たタカハシさんがゆっくり降りてきた。


「タカハシさん、降ろし忘れてた箱があったんすか」

「あった。二箱。荷物リストに追加してチェックし直した。確認表の訂正が要るから、あとは矢作さんに任せる。じゃあ、メシ食って次行こう」

「うす……」


 二箱追加って言ったよな。でもタカハシさん、手ぶらだったじゃん。どういうこと? 俺がしきりに首を捻っていたら、タカハシさんが俺ではなくてアパートの二階の部屋を見ながらぼそっと呟いた。


「さっき言ったろ。箱ものは厄介なんだよ」


◇ ◇ ◇


 どこかすっきりしないまま、コンビニで買った弁当をバンの中で食べる。タカハシさんもクラシックなアルマイトの弁当箱を開けて、黙々と食べている。

 いつもならタカハシさんそっちのけで、俺たちバイト連だけでわいわい盛り上がるんだけど。運び残しがあったのなら、俺たちがへまこいたということだ。どうもすっきりしない。最終確認はタカハシさんがしてるんだし、矢作さんもチェックしてる。おねえさんにも確認取ってたよね。


「あの……タカハシさん。俺たち、なにかどじこきましたか?」

「いや、指示通りにきちんと運んでるよ。全部ね」


 ほっとする。じゃあ、運び残しってのはなんだったんだろう。


「ええと。聞いていいもんかどうかわかんないんすけど。何を運び残してたんですか?」

「リストにないものさ」

「あ!」


 俺だけでなく、バンの中の全員が声を出して、顔を見合わせた。


「そ、そっか。あの番号のついた箱以外に何かあったら、俺たち見落とすかもしれないんだ」

「そう。だからさっき言ったろ? 箱ものは厄介だって」


 タカハシさんが空になった弁当箱をかさっと閉めて、俺らの前に掲げて見せた。


「これだって箱なんだ」


◇ ◇ ◇


 午後。午前中と違って、俺らバイト連の雰囲気は微妙になっていた。

 午後も独り者の引越しで、午前と同じように部屋はアパートの二階だ。今度は年配の男性らしい。らしいってのは、この部屋の住人がもう引越し先に行っていて、荷出しの立会人が住人の勤めている会社の人だからだ。大型家電や家具は最初からなかった。会社の人がレンタルでしたからとタカハシさんに説明をしていた。

 午前中のおねえさんの荷物も少なかったけど、ここの住人のはもっと少ない。箱ものオンリーで、それも十箱あるかどうかだ。特別重いものもなく、箱には割れ物や壊れ物が入っているという表示がない。その割には、箱を下ろしている間にがちゃがちゃ食器かガラスがぶつかり合うような音が聞こえて、どうも気持ち悪い。


 荷出しはあっという間に終わった。午前みたいに、タカハシさんが「運び残しがある」と言い出すんじゃないかとひやひやしたけど、今度はあっさり最終確認を終えて車に戻った。ただ、下から部屋を見上げて一言だけ吐き捨てた。


「詰めるのも出すのも下手なやつってのは、嫌だね」


 俺たちは運びのバイトでパッキングは請けてないから、お任せコースのパッキング部隊が下手くそだったのかな。でも、出す方はこれからだけど……。やっぱり、すっきりしない。


◇ ◇ ◇


 事務所の前でバイト代を受け取れば今日は終わり。ご苦労さんの挨拶と同時に、俺たちバイト連は解散だ。だけど、今日のバイトはどうもすっきりしなかった。朝から晩まででかくてごつい大物をひいひい言いながら運んだ方が、むしろ楽だったかもしれない。どこにも持っていけないもやもやが頭のどこかにべったりへばりついて、振っても振っても離れてくれなかった。


 タカハシさんは単なる臨時雇いの俺とは違うバイト代の受け取り方なのか、作業服を私服に着替えただけですぐ戻ってきた。もっとも、私服も作業服みたいな雰囲気なのであまりイメージが変わらない。特に疲れた顔でも嬉しそうな顔でもなく、淡々と俺の方に近づいてくる。


「タカハシさん、お疲れ様っすー」

「ああ、今日はありがとな」

「いいえー。タカハシさんは帰ってからご飯作るんすか?」

「いや、一人暮らしだからね。朝飯と弁当はこさえるけど、夜は定食屋で食う」

「ご一緒していいすか」


 珍しいこともあるもんだという顔で、タカハシさんが俺をぐるっと見回した。


「かまわんけど、ただ飯食って終わりだよ?」

「いや……」


 ずっと気になっていたことをぶつけてみる。


「今日の引越しで、タカハシさんが言ってたじゃないすか。箱ものは厄介だって」

「ああ」

「厄介にしないために箱に入れるんすよね。そのあたりどうなのかなと思って」


 俺の目をじっと見ていたタカハシさんが、わずかに苦笑いした。


「君は引越しのプロになれる素質があるよ。いい目をしてる」

「ううー、引越業界に就職するつもりはないっす。バイトだけで十分すー」

「まあ、そう言うなよ。俺らだって引越しするんだから」

「あ」

「そうだろ? 運ぶ方だけがプロじゃない。運んでもらう方でもプロになれる。それがいいかどうかはともかくね」


 そうだ。確かにそうだ。運ぶという経験を一度積めば、運んでもらう立場になった時、いろいろなことに気づける。自分自身と引越し屋、両方に。

 ジャケットのポケットに両手を突っ込んだタカハシさんが、すっかりくたびれた夕陽を見やりながら、俺を誘ってくれた。


「行きつけの定食屋がある。安くてうまい。そこで飯を食いながら、箱の話をしようか」

「あざあっす!」

「割り勘な」


 ちぇ。まあいいや。安くてうまいなら、コンビニで弁当買って帰るよりずっと豪勢になるだろう。たまにはいいか。


「うっす!」


◇ ◇ ◇


「なあんだ」

「ははは。こんなに近いとは思わなかったろ」

「知らなかった。社屋のすぐ近くなんすね」

「うちの社員さんが昼飯を食いに来てるよ。夜にはあまり来ないけどな」

「昼も夜もじゃ飽きちゃうかあ」

「そう。それに妻子持ちが多いからね」


 社屋から二百メートルも離れていないところにこじんまりした定食屋があって、うまそうな匂いをぷんぷん漂わせていた。ただ、メインの集客は昼なんだろう。店内にはあまりお客さんがいなくて、のんびりしてる。タカハシさんは焼き魚定食、俺は野菜炒め定食を頼んで、ご飯を大盛りにしてもらった。盛り増しでも料金は同じだそうだ。ラッキー!

 ビールでも飲むのかなと思ったけど、タカハシさんは下戸らしい。水ものは定食の味噌汁だけ。俺もまだ十九でぎり未成年だから、一応自重しておく。こっそりとは飲んでるけど、今はそういう雰囲気じゃなかったし。

 料理を食べ終えてしまってから、タカハシさんがおもむろに話し始めた。


「まず、箱ものがなぜ厄介かというところから話をするね」

「うす」

「その前に、君……ええと、江口さんだっけ」

「あ、はい」

「江口さんに聞いておきたい。バイトの時に、箱ものが多いと楽。そういう印象を持ってる?」

「持ってます」


 正直に答えた。


「じゃあ、その印象を解消しておいた方がいいよ。箱ものは本当に厄介なんだ」

「どうしてですか」


 だから、厄介な理由を知りたいんだって。


「箱ものならなんでも運べると思い込んでしまうからさ」

「意味が……」


 タカハシさんが、指で空中に箱みたいのを描いた。


「江口さんの箱ものイメージは、うちでよく使うSサイズの箱なんだよね」

「120サイズですよね」

「そう。あれにさ、上までぎっしり本を詰めたら運べる?」

「死ぬっす」

「あはは。俺でも無理だよ」


 重い。本は死ぬほど重い。本のサイズの大小に関わらず、段ボール箱いっぱいに詰め込まれるともうダメ。自分で持てないような箱をこさえるなってと言いたくなるけど、今でもたまあにぱんぱんに詰めちゃうお客さんがいるんだ。申し訳ないけど、詰め直してもらう。運べないもの。


「そっか。同じサイズの箱だから大丈夫っていう先入観ができちゃうんすね」

「そう。実際には中に入っているもので、天と地の差がある。江口さんは経験上知ってるはずなんだ。それなのに、箱ものなら行けると思っちゃう」

「うう。確かにそうっすね」

「それだけじゃないんだ。箱ものは中身が見えないよう、飛び出さないよう、ガムテで閉じられる」


 当然だと思うけど。


「閉じられた途端に、中身がわからなくなるんだよ。お客さんがつけてるラベルはあくまでもお客さんの参考用さ。そのラベルと中身とが一致しているとは限らない」

「あ……」

「たとえば、ラベルに『ぬいぐるみ』と書いてあったら、俺たち運び屋は軽いと考える。で、中身が漬物石だったら?」

「腰、やっちゃいますね」

「そう。底が抜けたら足を直撃だ。大怪我しちまう」


 ぞっと……した。


「つまり、箱に入っているから大丈夫、ではなく。箱には何が入っているのかわからないという用心が要るんだよ。お任せでなく自分でパッキングしてるお客さんの箱は特にね」

「そこまで考えてなかったっす」

「だろ?」


 タカハシさんは、さっき空中に描いた箱が本当にそこにあるかのように、両手を頭上に掲げて箱を下ろす仕草をした。そっと。


「ここに箱があると言ったら。江口さんは笑うかい?」

「……」


 変なことを言うなあとは思った。でも、俺は笑えなくなっていた。


「組み立てた空箱は、開いている間は何も入っていないと見る。でも、それがガムテで閉じられた途端、中身が空でも荷物になる。それは『運ばれる』ものだ」

「お客さんからしたら、大損すよね」

「本当に空、ならね」

「……」

「もしお客さんがその場のクウキを送りたいと考えていたなら、それは荷なんだ。空じゃないんだよ。立派な荷物だ」

「うう、そんな変な人がいるとは思えないっすけど」

「いたよ。過去には何人も」

「え? マジっすか」

「そう。確認も取った」

「……」


 タカハシさんが、ガムテを剥がして箱を畳む仕草をする。


「組み立てられる前と後。形が違うだけでそれは同じものさ。でも畳まれている段ボールを箱とは呼ばない」

「そっすね」

「じゃあ、箱ってのはなんだい?」


 アタリマエだと思っていたことを、ぽんと聞かれるとすぐに説明ができない。詰まってしまった。


「難しいだろ?」

「うす」

「実はね、箱っていう『物』はない。それはものすごく漠然とした概念なんだよ」

「漠然とした……かあ」

「そう。立方体を箱だと思い込もうとする人がいるけど、お菓子の箱を考えてごらん。六角柱や円柱型のものも、半球形のものもやっぱり箱さ」


 確かにそうだ。箱だから四角四面というわけじゃない。


「開閉できるものが箱? 違うね。ゴミ箱なんか、上が開きっぱなしのものが多い」

「あ……」

「サイズもそうだよ。小さな部品を収める箱は、相応に小さい。どでかい機械を収める木箱はとんでもなく大きい」

「サイズだけでなくて、材質とか特徴みたいのもいろいろっすね」

「そう。紙、プラスチック、木材……いろいろある。でも、それらは全て箱と呼ばれる」


 タカハシさんが、空いたご飯茶碗を指差した。俺の視線が茶碗に吸い込まれる。


「何かを収めておく容器。それを箱と定義するなら、ご飯を収めるこいつだって箱のはずなんだが、そうは呼ばないよな」

「もちろんす」


 タカハシさんが、俺の目をじっと見ながらもう一度聞いた。


「じゃあ、箱っていうのはなんだい?」


 さっきはぴんと来なかった『漠然とした概念』という意味が、リアルに脳裏に刻まれた。


「正直に言っていいすか?」

「ああ」

「わかんなくなっちまいました」

「だろ? だから箱ものはものすごく厄介なんだよ」


◇ ◇ ◇


 とっくに料理を食べ終わっていたから、とっとと出て行けと言われても仕方ないんだけど、タカハシさんは店の人と顔馴染みみたいで、食器を下げられたあとにおばちゃんが「ごゆっくり」と言ってお茶の入った湯呑みを置いた。

 俺は確信していた。タカハシさんの話はまだ前半。今日の奇妙な荷出しについて、きっと何か教えてくれると思う。俺から切り出すか。


「あの」

「うん?」

「今日の現場。午前中は運び忘れがあって、午後のはパッキングが雑だって言いましたよね」

「そう。俺の言葉通りだよ。そのままだ」

「午前中の現場には何が残っていたんすか? 二箱残ってたって」

「うーん、そうだなあ」


 ひょいと腕組みしたタカハシさんが、心配そうにあさっての方を向いた。


「一つは小さな箱だよ。シンクの一番端っこにぽつんと置いてあった」

「えっ?」


 そうか。荷物だと見ていない限り、それはお客さんの私物だと考えちゃう。箱っていう概念から外してしまう。さっき、タカハシさんに言われた通りだ。


「なんの箱だったんすか?」

「薬だよ。あまり、いや、どうにもよろしくないたぐいのね」

「……」


 背筋がざわっとした。無意識に熱いお茶を口に含む。湯呑みを持つ指が震えていた。


「なあ、江口さん。あの部屋、女性の部屋にしては匂いがおかしいと思わなかったか?」

「あっ!」


 そうか、残り香が女性の部屋っぽくなかった。オトコの部屋に女性の匂いが少し混じってるみたいな。だから俺も違和感を覚えたんだ。


「出す荷物の送付先は、これから彼女が引越すところじゃない。そんな気がしたんだよね。勘だけど」


 あのおねえさんは、オトコの部屋に転がり込んだか、押しかけたのかも。だけどオトコが全部ぶん投げて逃げた。もしくはなんらかの事情でいなくなった……か。タカハシさんの心配そうな視線はずっと変わらない。


「矢作さんは、ああ見えてとてもよく鼻が利くんだよ。いい方にも悪い方にもね」

「……」

「あのお客さんが同居男性の荷物を全部送り出すと、彼女の手元には何もなくなる。なくなることを本人がすっぱり割り切っていればいいんだけどね」

「そうは見えなかったっす」

「だろ? 変な薬をがばがば飲んで自殺を図られたんじゃ、アパートのオーナーも引越し屋の俺らも大迷惑だよ。リスクを下げないと商売に差し障る」


 乾いた言い方だったけど、それは建前なんだろう。さっきの心配顔でわかる。


「あの、じゃあもう一つ出し忘れてた箱ってのは」

「あの部屋自体だよ。彼女から箱を取りあげないと、箱に閉じこもろうとする。箱から出られなくなるんだ。あの部屋は何もしてくれないよ。ただの箱だからな」

「でもぉ、部屋なんか荷出しできませんよね」

「そう。だから彼女の方を箱から出した。荷は彼女だよ。大家を呼んで即座に部屋から退去させ、鍵を取り上げた。あとは矢作さんに任せてある」

「げ……」

「引越し屋はいろんな事情の人にぶち当たるからね。彼は慣れてる。なんとかしてくれるだろ」


 矢作さんには慌ててる様子はなかった。そうか。お客さんに呼ばれて見積もり出す段階で、どこか変だなと思ってたのかもしれない。すごいな……。


「あの、じゃあ午後の訳ありだったんですか?」

「もちろん。本人の荷物を、同じ社の人とはいえ他人が出すことなんかないよ。絶対にない」

「も、もしかして……」

「あの部屋の住人が亡くなっていたということさ。社や遺族が表沙汰にできない面倒な事情があるんだろ」

「……」

「レンタル品は返せば済むよ。でも本人の持ちものは、第三者には勝手に処分できない。遺族が引き取れるものだけを持ち去り、残りは社に処分を依頼した。そんなところだと思う」

「だから荷物が極端に少なかったのか……」

「そう。依頼主は遺族じゃない。社のトラブルシューターだな。本来は俺らじゃなく、遺品処理の業者に頼むべきなんだ。遺品であることを隠そうとして、通常の引越しを装おうとした。事情を知らない俺らに、死後処理の片棒を担がせようとしたのさ」


 とんでも……ないな。


「だから荷物のパッキングがものすごく雑だった。早く片付けたくて急いだんだろ」

「それ、矢作さんは?」

「もちろん見破ってるよ。だから始末は矢作さんに任せる。俺らは単なる運び屋だ。深く関われないからね」


 目を伏せたタカハシさんが、冷めてしまったお茶の上にふうっと波紋を描いた。


「亡くなった人がどんな生き方をしてきたかは知らないよ。ただ彼が入れる箱は社にも家庭にも……いやどこにもなかったんだろう。彼はがらんどうのあの箱にすら入れてもらえなかったんだ」

「う」

「彼が無になってしまった以上、俺らはもうどうしようもない。ただ彼の人生が、不用品となったいくつかの箱に一緒に放り込まれてしまうのはかわいそうだなと……思ったんだ。誰が。彼のパッキングを間違えたんだろうな」


 顔を上げたタカハシさんが、俺の目をじっと見据える。今度は俺が目を伏せてしまった。いつもの穏やかな声が、水底に沈んでいく鉛のおもりみたいに、俺の暗いところにゆっくり落ちていった。


「訳ありがダブルで来るなんてことは滅多にないよ。その滅多にないことが、たまたま今日は重なっちまったんだ。そう考えてくれると嬉しいかな」

「う……す」


◇ ◇ ◇


 予想外に話がずっしり重くなった。箱、かあ。ぬるくなっちゃったお茶を黙ってすすっていたら、店の中はいつの間にか俺とタカハシさんだけになっていた。

 お茶を注ぎ足そうとしたおばちゃんを手で制したタカハシさんは、おばちゃんに済まなそうに言った。


「もう今日は閉めるんでしょ?」

「うん。暖簾は仕舞った」

「俺らもそろそろ出るわ。でも、あと十分だけ。いいかい?」

「十分と言わず、ゆっくり話したらいいよ。わたしは洗い物してくるから」

「済まんね」

「いつも来てくれてるからね」

「ありがとう」

「いいって」


 おばちゃんは、タカハシさんにだけでなく俺にもにこっと笑ってみせた。おばちゃんが厨房に入ったのを確かめてから、タカハシさんが俺に向き直る。


「なあ、江口さん」

「うす」

「どんな箱であっても、そこに何か入れて、そこから何かを出すから箱なんだ。で、箱に出し入れされるものが自分だとしたら、箱の中と外とじゃ見えるものがうんと違うはず」


 箱の中と外、か。


「たとえば。運び屋とお客さんがそうさ。俺らは外から箱の中のお客さんを見る。お客さんは箱の中から外にいる俺たちを見る。見えるものが違うだろ」


 ああ、確かにそうだ。俺らからは中が狭く見え、お客さんからは外が広く見えるんだろうなあ。


「そっすね」

「箱の外に出ないとわからないことがある。俺は、そのことを箱を壊してから思い知らされたんだよ」

「え?」


 こ、こわす?


「俺の親父は運送屋をやっててね。俺は一応跡取りだったんで、大事に育てられたんだよ。まあ、俗に言う箱入り息子ってやつだった」

「わ! そうだったんすか」

「いいことじゃないよ」


 タカハシさんの表情がうんと渋くなった。


「親の苦労なんかわかりゃしない。極楽とんぼの最たるものさ」

「信じられないっすけど……」

「いや、実際そうだったんだ。だけど運送屋ってのはなかなか儲けが出ない。大手でも苦労してるのに、中小はもっとね」


 トラック一台あれば出来る商売だ。でも、激しい競争の中で仕事を取ろうと思ったら、他にないウリを作るか、料金を安くするしかない。タカハシさんが切なそうに漏らした。


「親父は真面目だったけど、商売の才覚はなかった。だから、身を削って採算を合わそうとしたんだ。それが限界に来て過労死した」

「ええっ?」

「そんな親父の苦労を俺はちっとも知らなかったんだよ。俺はずっと箱の中にいたから」

「……」


 卓の上で握られていたごつごつした拳が、ぱっと開かれた。


「俺は箱から出たんじゃない。箱が壊れて、外に放り出されたんだ」


 開かれた拳が、またゆっくりと閉じていく。


「箱の中に戻りたくても、もうこれまでの箱はどこにもないんだ。そうしたら、入れる箱を探すか自分で箱を作るしかない。今までずっと試行錯誤さ」

「社員にならないってことも、関係あるんすか」

「社員として決まった給料をもらえるようになったら、俺はきっと勘違いする。箱がある、箱の中にいつでも入れるってね。でも俺の壊した箱は二度と元に戻らない。俺が入れる箱は、実際にはどこにもない」

「じゃあ……」

「そう。なんとかして作るしかないんだ。とりあえず、俺一人くらいは入れる箱を、ね」


 ずいぶん狭苦しい考え方だなあとは思う。でもそう思い込んでしまうくらい、箱を壊してしまったことが大きな後悔になったんだろう。


「済まんね。辛気臭い話をしちゃったな」

「いや、聞かせてもらってよかったっす」


 ゆっくり話をさせてくれたおばさんにお礼を言って、勘定を払った。いつも買って帰るビニ弁よりコスパいいかも。味もよかったし、引越しバイトの時は帰りにここで食べることにしよう。

 店を出たら、タカハシさんにもう一回謝られた。


「江口さん。変な話を聞かせて済まんね」

「いいえー。勉強になりました。ただ」

「うん?」


 俺もきっと、さっきのタカハシさんに負けず劣らず渋い顔をしてたと思う。


「俺には壊せる箱が最初っからないんすよ」

「……」

「箱は最初っから一人分だけだし、もっとでかい箱が欲しかったら嫌でも作るしかないんす」

「そっか」

「うす。だから、気楽っす」


 まいったなというようにばりばり頭を掻き回したタカハシさんが、またなと言ってゆっくり歩き出した。俺も、ごちそうさんしたーと答えて別方向に歩き出す。

 今日、運んだ箱の中に俺とタカハシさんの分はない。そこには俺たちを入れたくないし、俺らが入れられる箱はそうそうないと思う。でも、俺はタカハシさんとは違う。

 暗闇に紛れて見えなくなったタカハシさんの背中に向かって、こっそり話しかけた。


「タカハシさん。俺にとって、やっぱ箱ものは楽っすよ。とりまそこに入れとけば、なんとか運べますから」



【 了 】

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