第4話

 帰宅するときには新宿で一度乗り換える。帰宅ラッシュでホームに上がる階段は人が多い。目の前の女性がゆっくりとした足取りで階段を上がっている後ろについていく。

顔を上げると女性のトートバッグにマタニティバッジがついているのが見えた。

 妊婦さんかと思ったとき、電車がついたのか階段を降りてくる人たちが増えた。明確な仕切りがあるわけではないので、階段を上る人と下りる人が行き交う。

 向かってくる人たちとぶつからないようにと少し横に寄った時、口をへの字にしたスーツの若い男が足早に下りてくるのに気づいた。

 彼がずいぶんこちらに寄っていると思った瞬間、男があたしの前にいる妊婦をチラリと見た。そしてさらにすばやく横に身体を動かして、女性と肩がぶつかった。

 女性の悲鳴とあたしが両手を突き出すのは一瞬のことだった。女性が横倒しに落ちてくるのをを抱き止めて膝をつくと段差に膝を強く打ち付けた。バランスを崩しそうになってその場に座り込む。舌打ちが聞こえた気がしたけれど、周りのざわめきがそれを打ち消してしまった。顔を上げると、もう男は見えなかった。

「大丈夫ですか?」

 声をかけると女性はゆっくりと体を起こした。まわりの人たちも駆け寄って支えてくれる。女性は頷きながらよろよろと立ち上がろうとした。

「ありがとうござます」

「今駅員さん呼んでますから。あんたも大丈夫?」

 おじさんが声をかけてくれたので、あたしも頷く。段差にぶつけた膝がじんわりと痛かった。

「若いスーツのやつがぶつかってっただろ。さっさとどっか行っちまいやがったな」

 おじさんの言葉に、立ち上がりながらあたしは息をつく。あれはわざとだった。明確な悪意はこの人を狙っていた。

 駅員さんに救護室に連れて行ってもらい、話を聞いてもらった。警察に連絡を入れてくれ、しばらく駅員含め注意してみてくれるとのことだった。

 ここ最近、ぶつかられて怪我をするという人が増えているらしい。

「もしかしたら同じ人がぶつかってんのかもなあ」

 駅近くの交番からやってきたという警官がそうぼやいた。

 騒動のおかげですっかり帰るのが遅くなってしまった。家についてすぐシャワーを浴びるために服を脱ぐと、ひざは浅黒くなっていた。それを見て無性に西森に会いたくなった。今日のことを話したかった。そういえば西森が夢に現れるようになってから、あたしはいろんなことを彼女に話していた。

 西森以外にいったい今日のことを誰に話せば良いのか。きっとあの妊婦にはいるだろう。これが彩菜ちゃんだったら、絶対に昌也に話すだろう。

 でもあたしには、誰もいない。ただひとりでこの暗闇を抱えて眠りにつくしかない。だから、あたしは西森を待つのだ。話しを聞いてくれる誰かを。

 次の日、起きたときに今夜西森に会えると思うと、早く眠りにつきたかった。不思議だ。生きているときでさえ、こんなに会いたいことなんてなかったのに、我ながら都合がいい。

 きっと今夜、彼女は夢に出てきてくれる。そう思うと、待ち遠しいけど奇妙だ。なぜ西森はあたしの夢に出るのだろう?

 あたしが彼女を呼び寄せているのか、それとも彼女があたしの夢に来てくれているのか。わからない。

 あの薄闇の中に彼女はただそこにいるのか、それともやってくるのか。

 ささいな問題なのに薄気味悪さが広がるけど、会える嬉しさは変わらないので、仕事を早めに終わらせて帰ることにした。

 小さな疑問に目を向ければ、そこからほころびが見つかって引き返せない気がした。少なくとも今は西森に会える。それでいいはずだった。

 ともかくその夜、思ったとおりに西森が夢に出てきた。

 あたしはまたつらつらと昨日あったことを西森に話し始めた。男が妊婦にぶつかったこと。それを受け止めたこと。受け止めたときに足をぶつけて、怪我をしたこと。警察に話したこと。あらためて言葉にすることで、腹が立ち、悔しくなってきて夢の中だというのに足の痛みを思い出し、涙がにじんだ。

 西森はなにも言わない。慰めの言葉ひとつもなく、暗闇に自分の言葉が消えていくだけなのに、あたしはそれでよかった。ただ誰かに聞いてほしいだけなのだ。あたしを品定めしない、誰かに。

 しばらくしてあたしが口をようやく閉じると、西森が頷いた。表情さえ見えないというのにこの前と違い、確かに彼女は頷いた。はっきりとした意思表示に動揺して、じっと西森を見つめる。目を凝らせば向こう側が見える気がしたけれど、無理だった。顔が見えないのはあたしが彼女の顔を覚えていないからなんだろうか。

西森は一度頷いたきり、石像のようにじっとしている。でもその石像は一度でも目を離したら見失いそうだ。とうとう不安になって、あたしは尋ねた。

「あんた、どうしてあたしの夢に出てくるの?」

 正しい質問だったのかわからない。もしかしたら、あたしが西森のところに来ているのかもしれないのに、そう聞かずにいられなかった。

 今度はなんのリアクションもなかった。ひとりで話していたときは気にならなかったのに、会話をしようとしたら、急に置いていかれた気分になって怖くなってきた。

「どうせだったら、彩菜ちゃんのとこの夢枕にでも立ったらいいのに」

 西森はその名前にちっとも動揺せず、微動だにしない。名前を出したあたしの方がしまった、と口をつぐむ。謝ろうかと考えたが、反応のない相手に言っても仕方ないだろう。それよりも、別の話題にしてしまおうと顔を上げたところで、目が覚めた。

 もう秋だというのに 汗をかいていて、体を起こすとずいぶんだるかった。それでもひと通りぶちまけたからか、気持ちはすっきりしていた。走ったあとのような爽やかな気分すらある。

 重たい体で立ち上がって、シャワーを浴びて、また昨日と同じように出社をする。

 新宿に着くと昨日の事件を思い出したけど、西森に散々愚痴を言ったおかげか、暗い気持ちになることはなかった。

 深めに息を吸って、乗り換えの階段を見上げたとき、悲鳴が聞こえて人が目の前に転がり落ちてきた。

 電車の音に混じりながら悲鳴と怒鳴り声が周りを囲んだ。あたしはそこに立ち尽くしていた。あたしは彼を知っていた。目がかっと開かれて倒れているその男の顔を、あたしは知っている。

 それは、昨日妊婦にぶつかった、あの男だった。

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