第19話
涙で歪んだ視界の中、学務教育棟へ向かう。この棟の理事長室がモニカとの待ち合わせ場所だった。この棟は全て新しく改築されているためセキュリティも厳しいと思われがちだ。しかし部屋の扉を開ける装置は理事長本人が度重なるパスワードの更新に耐えられず、とある数字から一ずつ足しているだけで、他のアルファベットや記号を変えていないのを秘書から聞いていた。しかも扉の解除に必要な端末を部屋の主がよく紛失してしまうので一階の保安・防災室に複数の予備を預けている。
何故、そんな事を知っているかと言うと、モニカが秘書と仲が良く仕事で何か起きた時に助け合っていたからだ。これはさっき教えて貰うまで全然知らなかった。
一階へ行って端末を回収し、予め教えられたパスワードをプッシュする。解除に生体情報を必要とされていなくて本当に良かった。ここは一時的な避難所に使える。
室内に入ると人の気配がした。慌てて扉の横にある電気のスイッチを入れる。
「先生!」
部屋の中央に位置する机の前で教授は倒れていた。仰向けになり、腹部を抑えて呻いている。出血が多く、酷い怪我だった。すぐさま駆け寄って手を握った。しかし教授は一般人だ。あまり力の効き目がない。
「おや、悪戯小僧がお出ましだ。私は、なんて運が良いのだろう。」
「先生、黙っとき。何か患部を縛るもの用意するから、ちょっと待っとれ。」
教授に握った手を引っ張られる。少年も怪我をしているので力が入らずバランスを崩してしまう。
「大丈夫だ。自分の状態ぐらい把握している。もう手遅れだ。…それより頼みがある。」
億劫そうに、もう片方の手で少年の頬を撫でた。さっきまで泣いていたので、瞼が重く、腫れぼったい。教授はそんな子供を見て目を細めた。優しい表情だった。
頬に添えられた手と表情があまりに切なく、胸が詰まる。一旦は止まった筈の涙が再び溢れ出してしまった。
「な、何言って…。何で皆、すぐに諦めて…。なんで?怖くないんか?痛ないんか?」
「…怖いさ。それは誰にとっても変わらない。巧が折角忠告してくれたのに、私は逃げられなかった。一応これでも医者でね。自分の力が及ぶ限り人命を救いたい欲求があるんだ。そこから窓を見てごらん。」
膝立ちになって、窓を見る。机が邪魔でよく見えなかったが、窓の端に避難用梯子が見えた。遮光カーテンが夜風に煽られて揺れている。
「本当は異研の鍵を使って、外へ出ようとしたが罠だった。…見ての通り、私はもう動けない。だが一人だけ患者を外へ逃がした。上手く敷地外へ出られれば、助けを呼んでくれるだろう。」
吉田は先生の手を丁寧に床へ置いて、窓の外を覗いた。下には変異体が複数体いて、梯子から降りて来る者を狙っている。もうこの脱出方法は使えない。
呆然としている少年に、先生は此方に来てくれと願った。よろよろと歩いて、再び手を取り、話に耳を傾ける。
「君に頼みたいことは二つある。一つは私の上着のポケットにあるものを預かって欲しい。」
頷いて、上着のポケットを探る。透明な丸い石が出て来た。石の中に複雑な黒い文様が浮かんでいる。
「それは宝玉と言って、とある神社で使われていた神具の一つだ。これを誰にも内緒であるべき所へ返して欲しい。宝玉が場所を教えてくれる。返すのはいつでも構わない。数年後でも、数十年後でも良いから。」
手に取った石を仕舞おうとするが、いきなり光が強くなり、空中で掻き消えた。声も無く驚いている少年に大人は笑いかける。
「異能者に反応するんだ。大丈夫。君が呼びかけたら姿を現す。」
「…まるで手品やな。」
「ああ、確かにな。さて最後の一つだ。どうか私の代わりに巧を救って欲しい。居る場所は判っている。システム課の事務室だ。今は引きこもっているから、君の手で引きずり出してくれ。」
「ん。分かった。絶対に巧を先生に会わせるから、手当させてくれへん?そのままやと痛いやろ。」
教授は首を振った。再び子供の手を握る。
「いや、包帯の無駄だ。もう目が霞んでいる。私はあの子には会えない。君の手を掴んでいるのが精一杯なんだ。」
痛みさえ、よく分からなくなってきたと呟いた。少年は握っている手を両手で包み込んだ。少しでも力が届きますようにと願いを込めて。
だが力の発動時に現れる蒼い光が出なかった。何度握っても、心の中で願っても、効き目が無い。
ここまで己の無力さを感じたことは無かった。異能者なのに、強大な敵を倒す力も無ければ、人を助けることもできない。なんでこんな不便な能力を持ってしまったのか。完全な治癒能力者であれば、今すぐ死にかけている大人を助けることが出来るのに。
吉田は教授の胸に縋りついた。もう見ていられない。
この人にはたくさん怒られた。ムカついて烏龍茶と天つゆを混ぜて渡したこともある。でも、どんなに説教をしても次の日には何事も無かったように接してくれた。我儘だって、一杯聞いてくれた。無理なら無理で何故無理なのか説明をしてくれた。子供だからと侮って馬鹿にされたことなんて一度もない。間違えた道を行きそうになったら、腕を引いて正してくれた。
いつだって優しい眼差しで、同じ歩調で歩いてくれる。そんな素敵な大人だ。
ゆっくりと頭を撫でられる感触がする。
巧に亡くなった息子さんの面影を重ねているのは知っていた。どうして今、ここに居るのが俺なんだ。きっと巧に看取って貰いたいはずなのに。
「…巧を頼む。私は君達の成長が楽しみで仕方無くてね。どんな大人になるのだろうと、いつも楽しみにしていた。本当はずっと見守っていたかったよ。一緒にお酒を飲み交わしたかった。」
「うん。」
「私の事は気にしないで欲しい。神に召されたら妻と息子が待っている。…ようやく会えるんだ。だから重荷に思わないでくれないか。」
「…うん。」
頭を撫でていた手が重力に従って床に落ちた。思わず顔を上げて覗き込むと、教授の目から涙がとめどなく溢れていた。
「いつだって君達の幸せを祈っている。今まで一緒に居てくれて、出会ってくれて、ありがとう。私は幸せ者だ。」
「先生。俺…ううん。僕もです。先生と出会えて良かった。」
最後の言葉は掠れて殆ど聞こえなかった。それでも気持ちは伝わったと思いたい。
なんて凄い人なのだろう。痛くて、苦しくてしょうがないはずなのに、そんな素振りは微塵も見せずに感謝の言葉を残すだなんて。
心も体も強い人だ。どんな状況になっても挫けない。死でさえも教授を打ち負かすことは出来なかった。
吉田は一頻り泣いた後、彼の遺体を整えた。腕で涙を拭き、情けない顔をしている自分の両頬を叩く。
まだやることは残っている。先生が信頼して、託してくれたのなら俺は応えたい。この人のように強くありたかった。
恐怖や背中の痛みはどこかに吹き飛んでしまった。これが混じりけなしの今の素直な気持ちだ。
「待っててや。すぐに巧を連れて来る。そんで絶対に病院の外へ出る。先生、俺達のこと見といて下さいね。」
遺体の前で両手を合わせ、丁寧にお辞儀してから部屋の外へ出た。目指す先は巧の居る情報システム課の事務室だ。
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