第17話
懐中電灯を右手にひたすら走り続けた。渡り廊下の犬走を抜けて研究棟へ辿り着く。室内は昼間と異なり不気味な雰囲気があった。
廊下の先にある自動扉の前で端末を翳す。しかし扉が開かない。
ここまでは想定内だ。監視カメラの前を一瞬通ることになるが、扉から数メートル先にあるエレベーターで一階まで降りて、一旦は隣の建物へ行き、そこにある非常通路を使うしかない。
エレベーターのボタンを押しに行こうと数歩進んだ時だった。小気味よい音が鳴り、自動扉が開いた。
暗く冷たい通路が少年を呼んでいた。迷いつつ、カメラの前を通るリスクを考え、音を立てぬように扉を潜る。
誰かがデスクに置き忘れた端末の通信音が突然、鳴り響いた。今、流行りの黒電話のコール音だ。
静かに、だが確実に入ってすぐのトイレ脇にある倉庫に身を隠す。
音の出ている場所は扉のすぐ近くにある事務員室だ。そういえば、事務員はデスクの充電コードに端末を繋げて退勤をしているのを何回も見た。
電源は切って帰宅して欲しい。お願いだから。心臓に悪い。
そう思いつつ口を押え、蹲った。タイミングが良すぎるからだ。誰かに見張られている可能性がある。自分の姿は監視カメラには映されていないと思っていたが、そもそも全ての設置場所を知っているわけではない。
引き返すべきか迷った。だが鍵は棟の四階だ。ここは三階なので目と鼻の先にある。足の速さには自信があった。ここまで来たら、取って来るしかない。
コール音が止むと、吉田は静かに動き出す。懐中電灯は切ってリュックに仕舞った。大分、暗闇に目が慣れてきたのと、明るい方が見なくても良いものを見てしまう気がしたからだ。早速、眼の端に黒い文字で壁に恐怖の館へようこそ!と書かれているのが見える。
遺体は一切無いが特別病棟はベッドやデスクが散乱し、台風が通った後のように散らかっていた。
床には何かを引きずった黒い跡が残っている。それをなるべく踏まないよう端を歩く。途中でレッドカーペットと書かれているのを発見した。それ以上は考えるのを止める。精神衛生上よろしくない。
三階の奥にある階段を上り、四階へ到着した。動く本棚の間に入り、棚を登る。
缶は、いつもの位置より上に置いてあったが、すぐに見つかった。すぐさま鍵を探す。しかし目当てのものは見つからない。中身は空だった。
「そこの鍵は、さっき人間が持って行っちゃった。残念だったね。」
下から声が聞こえる。声の正体を確認できないまま、子供は口を何かに塞がれ、下に引きずり降ろされた。
肩と背中、足が物にぶつかり息が詰まった。荒縄みたいなものに引きずられ研究室に放り投げられる。
防音が行き届いた室内に誰かの断末魔が響き渡った。恐怖で目を開くことができない。瞑っている瞼の裏がチカチカする。
「この子供は痩せていて食べる部分が少ないじゃん。もっと良い獲物はなかったの?」
「違う。この子はヘンゼルだよ。」
恐る恐る目を開く。用途不明の鋭利な椅子や棺桶を運んでいた変異体を背の高い白衣の若い男性が蹴っていた。部屋の奥に沢山の椅子と遺体が設置されていた。手前には椅子に拘束された患者が全身血だらけのまま、呻いている。
また喉から酸っぱい物が込み上げるが口が塞がれ、声も出せない。そんな少年を尻目に引きずり込んだ格好いい男性と美人な女性が喜々として話し合う。
「3の招待客?じゃあもっと駄目だ。こいつを食べたら俺達が殺されかねない。」
「だからさ。食べないで玩具にしよう。あたし良いこと思いついちゃった!」
華やいだ声が頭上からする。子供は逃げ出そうと暴れた。しかし、動いた途端に腹部を蹴られ、呻き声が口から洩れる。
二人の大きな影が少年に重く圧し掛かった。
モニカは口を塞いだ。蹲り、気配を消す。
(酷い…。同じ人間なのに。)
頭の中で悲し気な声が木霊する。そう。あの人達はヒトガタではない。仲間とはぐれ、この病院を彷徨っている最中、私の中にいる誰かはずっと人間と怪物を見分け回避するよう助言をくれた。今回もそうだ。先程、何者かから逃げ回っている本物の老人達に声を掛けようと近寄ったら、老人の一人が能力者の女性に背後から青い水滴に撃たれた。悲鳴と罵倒が交差して、暗闇の中で全員が逃げ惑う。
現在、その女から身を隠している。
これは虐殺だ。あの異能者の女は一体、何者だろう。どうしてこんな酷い事ができるのだろうか。最初は老人達に笑顔で近づき、油断させてから異能で殺し、所持品を奪っているようだ。殺した後に老人たちがヒトガタの姿にならないのを見ても、眉一つ動かさない。
奪った所持品を持ち、病室の一室に入った。間を置かずに新たな武器を担いで現れる。
彼女の人影が廊下の角を曲がった。そこからきっかり三秒間数えて、さっき彼女が入った部屋へ動き出す。
室内に入ると強奪品が几帳面に陳列されていた。そこから使えそうな銃をいくつか選ぶ。そして予備の弾丸を白衣のポケットに突っ込み、室内を出た。
(大丈夫。周りには誰も居ない。)
「それなら安心できるわ。」
目的地はすぐそこだ。慎重に慎重を重ねて進んで行く。緊張するほど注意力が散漫になってしまう。不眠不休のまま、もうそろそろ夜が明ける時間だ。仮眠も少ししか取れていない。身体が大分疲弊している。
散り散りになって逃げた多くの患者や教授、同僚。今も行方が知れない巧君は大丈夫だろうか。最悪の事態に陥っていないことを祈るばかりだ。
そういえば以前、私の中にいる能力者は巧君を身内だと言っていた。その時は嘘だと激怒していたが、このような非常事態に直面して、もしかしたら本当かもしれないという疑念が消えない。
でももし本当だったら自分の中に両親を殺した怪物が巣食っていることになる。それはかなり嫌かもしれない。
何というか、感情の処理が追いつかない。過去と現在の思いが絡み合い、この複雑な感情に名前を付けられない。
(言っておくけど、貴方に嘘をついたこと一度だってない。)
「勝手に人の思考を読まないでよ。ねえ。…ここらで一度はっきりさせて。あんたはムクロなの?」
(ええ、そう。人類にはそう言われている。)
冗談じゃなく酷い頭痛がした。落ち着くために近くの壁に手をついて、息を吸い込む。
ダメだ。これ以上、深く考えるのはやめよう。この切迫した状況で仲間割れを起こしかねない。今は、そこに時間を割く余裕もなかった。
「よっし。それは後回しにする。ただ一つ教えて。貴方は私にとって敵なの?味方なの?」
(味方。)
たった一言が重い。だから不思議と信頼できる。
「分かった。この話題はお終い!脱出するまでは、お互いに蒸し返さないで。もうすぐ監視室が見えて来る。敵は何体いるかしら。」
(それが近くに一、二体いるけど監視室の中には誰もいない。)
「今の内ってことね。」
左右を確認して室内に滑り込んだ。暗がりの中、無数の画面が青白い光を放つ。二人は端から順に画像を確認する。膨大な量のカメラ映像が流れ、目が眩んだ。
巧らしき異形の子供を見つける。その子は部屋の隅にバリケードを作り、暗闇に蹲っている。中身は九歳の子供だ。きっと不安と恐怖で動けないに違いない。部屋の雰囲気から察するに場所は学務教育棟、通称南棟の情報システム課だ。位置的には異能研究棟の方がここより断然近い。どうやら危険を冒した甲斐があったようだ。早急に吉田と合流しよう
「君の偽善者ぶりには反吐が出る。№6。」
振り向きざまに拳銃を全弾発砲した。ついでに肩に担いでいたアサトルライフルでヘッドッショットを決める。
しかし見えない壁に阻まれてムクロの身体に傷一つ与えられない。モニカは舌打ちした。もしムクロにあったら頭を撃ち抜いてやると思っていたのに。こんな時、能力者でない自分が恨めしい。
ムクロの頭部がいきなり変形した。食虫植物の形になり、細かい牙のついた巨大な花弁はモニカを丸のみにしようと被りつく。
グロテスクな光景を見たせいで動けなかった彼女は、成す術もなく殺されるはずだった。だがさっきと同じ見えない壁が今度は彼女を守った。
ムクロはそんな彼女をせせら笑う。
「そんなに獲物と仲良くなって…。君は、あの出来そこないの親と同じく人間になりたいのかい?まったく理解できないな。頭がおかしいよ。」
モニカの口が本人の意思に関係無く言葉を発する。その声音には冷たい怒りが混ざっている。
「逆にこっちが聞きたい。答えを望んでいないのに一方的に問いかける意味がある?」
「分かっていないな!人間とは矮小で卑屈なのさ。どんなに表面を繕っても中身は僕たちより醜い。噂話で互いを憎み、殺し合う。いつでも自分さえ良ければ他はどうでもいい。奴らの歴史は規模の程度は異なっても同族殺しで成り立っているのを知らないのか?僕はそこに美を見出した。恐怖、愛憎、悲しみ、怒り。素晴らしい!特に死ぬ間際の人間は芸術作品だよ!瞳の光が強烈に瞬き、消えていく瞬間を見たことある?流石だ。死んだ後は蛆虫が肉を食い荒らすわけだ。蛆虫の気持ちが判るよ。性根が腐っている方が美味しいね。」
絶望的に会話が成立していなかった。彼女の中のムクロは舌打ちをした。だが相手は何も感じていないようだ。悦に入った様子で画面の一つを指さす。
「ヘンゼルがようやく舞台に上がってくれたんだ。」
その動画では吉田が若い男女に取り押さえられ、背中をナイフで切り刻まれている。加害者二人は顔の皮半分が破れて、腕と肩に傷を負っていた。服や皮の下から変異体などの化け物に特有の緑色の皮膚が見える。
モニカは愕然とした。やはり子供に単独行動なんてさせるべきではなかった。人手が足りないから、今の巧と会わせたくないからなどと余計な事を考えてしまったが、一人にさせずに一緒に行動すれば良かった。このままでは巧君と再会させるどころか死んでしまう。
「人間の子供にしては頭が良くて、最初は抵抗していたけどね。僕の分身が、大人しくしないと、捕らえていた人間を拷問で殺すと脅しをかけたら態度を変えたよ。もうあの人間は死んでいるのにね。自分だって怖くてしょうがないだろうに。今時の子供はあんなに人道主義者なのか?」
何だろうか。あの子には無限の可能性を感じるよ。こんな気持ちになったのは初めてだ。ヘンゼルは一体、何者なんだろう。
そんな独り言をぶつぶつと呟き、ムクロは他の画面を見た。すると喜色満面な声音で歓声をあげる。
その画面では正に先程遭遇した女が生き残りの人間に近づき射殺しているところだった。
「わお!こっちも面白そうなことをしているじゃないか。こうしちゃいられない。また後で会おう趣味の悪い兄弟。」
こちらに一切視線を合わせず、スキップをしながら退出していった。モニカは銃を構えて後を追った。
廊下に出ると、その姿は跡形も無く消えていた。数秒間、周囲を警戒した後で来た道を引き返す。焦燥感が募り、音を立てて走り出してしまった。
案の定、前方から人影が現れる。
「動くな!」
前方にいたのは、置いてきたはずのスティーブだった。重く引きずったような足取りでこちらに向かってくる。
「すまない。敵に追われている。力を貸してくれないか?」
モニカは迷わず、前方の人物の眉間に目がけて銃弾を撃ち込んだ。
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