第15話

 

 ジャミングでもされているのか携帯が外と繋がらない。メールや電話、チャットも使えなくなっていた。病院には精密機器が多数存在しているので医療関係者はアナログ時計を愛用している人が大勢いた。もしこれが電波時計だったら、時刻さえ確認出来なかっただろう。

 約六十名が安全に森へ逃げ込むまで、およそ十五分。モニカと教授を含む五人はチームを組んで囮となる。なるべく大勢を釘付けにしなければならない。

 足の速さと病院の抜け道には、ちょっと自信があった。悪童どもを追いかけて、あちこち歩き回った甲斐があったというものだ。その時のことを思い出して、何とか心を落ち着かせる。それでも時折、全てを投げ出して逃げ出したい衝動に駆られた。

 腹を決めなさい。患者を守るのが私の役目。これは自分で引き受けたこと。落ち着け。決して逃げ出さないわ。

(大丈夫。言ったでしょう。私が貴方を守る。心配しないで。)

 頭から直接響く声に、心底ほっとする。例えこの声が極限状態に追い込まれた自分の妄想だとしても、励ましてくれただけで本当に嬉しい。貴方が居てくれて良かった。

 突然顔が真っ赤になった。勿論、これは私の感情ではない。

 今のどこに照れる要素があったのかしら。

 疑問に思っていると笛の音がした。作戦開始の合図だ。自身も首から下げている笛を吹いて応える。音を聞いて集まって来る兵士に姿を見せて、脱兎の如く施設内へ逃げ込む。拳銃は一人一丁所持していたが五発しか打てない。なるべく温存するよう心掛けた。

 敵に近づいては離れることを何度も繰り返し、脱出ルートから一番遠い中央病棟まで誘導した。そこが五人の合流場所だ。

 物陰に隠れて息を整えると、他の四人はもう既に着いていた。何名か負傷していたが、全員生きている。

 周りは敵だらけになっていた。この作戦は囮がどれだけ時間を稼げるかに掛かっている。もう逃げ出す道はほぼない。ここまでしたのだから、あの人たちは上手く逃げて出して欲しい。

 武装集団の中でいかにも階級が高そうな大男が隠れている五人に呼びかけた。

「マイケル教授。いや、マーク。君がそこにいるのは判っている。今すぐ出て来たまえ。」

 教授は片眉をあげたのが見えた。モニカはじっと敵の様子を伺って押し黙る。他の三人は困惑したように顔を合わせた。

「誰だか知らないが、病院を滅茶苦茶にした君達に愛称で呼ばれる筋合いなどない。」

「ほう。これを見ても、そんな大口を叩けるか?」

 脇にいた小柄な人間が乱暴に少年を引きずり出す。少年は暴力を振るわれたのか、あちこちに青痣が出来ている。

 教授は絶句した。その子供は巧だったからだ。

「こいつの命はない。今すぐ検体を全て引き渡して貰おうか。」

「検体を保有しているのは病院ではない。別の国際研究機関だ。我々は保存しているに過ぎない。欲しければ、きちんとした手順を踏めば良いだろう。何故こんな事をした!」

「何故?愚問だな。この病院は人類共通の敵であるムクロを飼いならし、あまつさえ外へ解放そうとしている。君達は生物兵器を作り上げ人類を脅かす敵だ。末端とはいえ誰がどんな思想に染まっているか判らないものでね。全ては不可逆的な侵略を阻むためだ。」

 怒りで目の前が真っ赤になる。

 難癖をつけるにしても、もっとやり方を学ぶべきだ。ムクロに家族を殺された人々は大勢いる。このご時世では決して珍しいことではない。そのような境遇の教授やモニカに対する挑戦だとしか思えなかった。

「妄想も大概にしてよ。そんな適当な理由で大勢を殺していいわけないでしょう!ムクロなんて、この病院にはいない!」

「ほう、疑っているようだ。これを見ても、まだそんなことが言えるのか。」

 巧の頭に銃口が突きつけられる。俯いていて、顔は見えないが肌の色が異様に白い。また体調を崩したのだろうか。

 さっきから教授に向かって話しかけている大男は腕を前に突き出した。すると掌を中心に空間が水打ったように歪み、鏡が現れる。吉田と同じで大男は異能の中でも、まだ不明な点が多い特殊能力者のようだ。

 鏡は巧の前で止まり、時間が経つにつれて少年の姿が変化していく。

 耳は尖り、口から長い歯が両脇に生える。焼けただれた肌、顔に無数の目玉が飛び出て、それぞれが瞬きしていた。

 幼い頃に見た大勢の人間を捕食した怪物の姿、そのものだった。

「こいつはムクロのオリジナル。人間に化けた怪物。病院が保存している三つの検体の内の一つだよ。君は知らなかったのか?」

 教授は何も言わなかった。重苦しい沈黙が辺りを支配している。誰も何も言えなかった。巧君がムクロだなんてあり得ない。そう教授に言って欲しい。でも、まさか。これは無言の肯定だとでも言うのだろうか。

「どういうことなの…。」

 あまりのことにモニカは何も言えない。口火を切ったのは、巧だった。

「違う。僕はムクロじゃない。信じて、モニカさん。人を食べた覚えなんて一度もないよ。僕は人間だ。お願い、信じて!」

 顔を上げ、悲しそうな目でこちらを見ている。ますますよく分からなくなった。何かを言おうと口を開け、言葉にならず再び口を閉じた。

「ならば試してみよう。」

 武装集団の中から一人出てくる。巧を押さえつけ、銃で頭を撃ち抜いた。血が噴き出し細く小さな身体が崩れ落ちる。

 教授とモニカは驚愕と怒りによって、声を挙げて飛び出そうとした。しかし他の三人が静止する。

「何てことを!この子が何をしたというんだ!」

 押さえつけられたまま教授は叫んだ。一方のモニカは仲間の腕を振り切って、飛び出す。持っていた拳銃を構えた。

「殺してやる。お前ら全員殺す。子供を守れない大人なんて屑よ!この病院に一体どれくらいの家族と武器を持たない人々が居たと思っているの!無抵抗の子供を殺しておいて、人の心はないわけ!?」

(危ない!)

 頭の中で響く声が危険を知らせる。無数の凶弾がモニカに襲い掛かる。

一瞬が何倍もの長さに感じられた。いつも直情型の自分を抑えきれなくて損ばかりしてきたが、今度こそ死んでしまう。

 もっと彼と一緒に居たかった。私の夢を応援してくれる彼と家庭を築きたいと思っていたのに、もう叶わない。

 潔く目を閉じて神に召されようとした時だ。小柄な影が彼女を地面に引き寄せて、覆い被さる。先程、殺された巧が身を挺して代わりに銃弾を受けていた。

やがて銃が打ち尽くされる。巧は醜い姿のまま体中から緑色の血が噴き出していた。肌から目玉が何個もこぼれ落ちていく。

 間近で、それを見たモニカは思わず巧の身体を押しのけて後ずさった。

「見ただろう。人間なら既に死んでいるはずだ。ムクロは異能でしか倒せない。こいつは人間ではない。君達がさっき守ろうとしていた子供は君達の家族を殺した仇だ。」

 巧であったはずの異形の者は悲しい目をして、こちらを見ている。彼の肌に残る多くの目玉が鏡になり、彼女は自分が恐怖で顔を引き攣らせているのが分かった。

「皆、速く逃げて。これからもっと酷いことになってしまう。」

 紛れもない巧の声がする。彼は己が傷ついても他人の心配をしていた。例え死ななくても、こんな酷い怪我をして痛いはずだ。それなのに。唐突に後悔の念がモニカを襲う。一体、自分は助けてくれた相手に何をしてしまったのか。

「茶番はもうたくさんだ、マーク。森を通って施設から逃げ出そうとしている集団を捕捉した。必要なのは地下の扉を開ける君の生体情報だけだ。ここで全員死んでもらおう。」

 そんな、まさかと背後から声がする。私達は何の為に命を懸けて囮になったのか。作戦が全て筒抜けだったなんて。それじゃあ、あの人達はもう。そんな馬鹿な。

 大男はやれと一言指示を出した。銃口がもう一度、こちらに向けられる。

 五人は自身の最期を悟った。

「もう終わりかい?僕は物足りないよ。まだやり方次第で恐怖と怨嗟が見られると思う。すぐ殺してしまっては獲物に失礼だ。ここからは僕が演出してあげる。」

 唐突に場違いな明るい声が聞こえた。途端に規律正しく並んでいた武装集団の大半が銃を乱射し味方を殺し始める。

 その場は大混戦となった。地面に倒れた数人の身体が溶けて、透明なゲル状になる。それらは変異体に姿を変え、人間を頭から喰い始めた。

 モニカはその隙に教授達に助け出されて、物陰に隠れた。

 兵士の一人が大男に近づいて、にっこりと笑う。肩から腰にかけて、身体の線をなぞり熱っぽく話しかけた。

「お前が味方だと思っている部下の殆どが、もう僕のお人形さんだよ。こんな面白い場を用意してくれた人間に敬意を持って接することに決めたんだ。頭部は残しておいてあげる。他の部位は全て丁寧に食べよう。腕、首、胸、腹、局部、足。生きたまま切り刻むから、最高の悲鳴を僕のために聞かせて。さあ、早く。」

 兵士はいつの間にか、異形の姿に変わっていた。宣言通り、ムクロは逃げようとする男の腕をもぎ取り、嬉しそうに頬張っている。

 絶叫と怒号、銃声が飛び交う。

これは悪夢か。目の前で非現実的なことが立て続けに起きていた。普段は処置室でしか見ない鮮血を何度も目撃し、何人かが胸を詰まらせる。

 状況が読めず、動けない五人に向かって巧は叫んだ。

「逃げて!皆、殺されてしまう。早く逃げて!」

 死は彼らの目前まで迫っていた。


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