第12話
少年野球の送り出し会が終わった。まだ寒い日が続いているのに、人々は春に向けて準備を始めている。
来年はサッカーでもしようか。ラグビーでも良いかもしれない。近くに少年野球チームしかなかったからAIの勧めで始めたが、別にこだわっているわけではない。
本当は野球が嫌いなのかもしれない。野球をやっていると訳知り顔の心無い人々から罵倒を受ける回数が多い。もしかしたら今のチームだからだろうか。きっとこういう悪口はスポーツだけに限らないとは、なんとなく思っている。不満があっても、その場で言わずにネットに書き込む人がかなりの数いた。しかも全員ネットで顔と名前を隠して、幼気な少年を苛める。相手だって同い年かもしれないが、全員匿名だ。大人だっているかもしれない。三、四年、野球を続けたが、そういう無駄な争いに好い加減ウンザリしていた。こうなれば新しい自分を開拓する時が来たのかもしれない。
どんな競技でも良いからスポーツマンになって大金を稼ぎ、親に楽をさせたい。吉田が考えているのは、ただそれだけだ。
部屋の片づけを終えて、押し入れにチームのユニフォームと道具を仕舞った。そのままベッドに横になる。
明日は病院へ行く日だ。色々と行事が立て込んでしまい、約一週間ぶりに研究所の人々と会う。中学校受験は無事に合格したから報告に行くつもりだ。そこで巧の学校の話も聞いてみよう。
夕飯前だから、もう階下へ行って席に座らないと行けなかった。しかし瞼が重くなり、眠気が襲ってくる。負けるのが大嫌いなのに、こいつにはまだ勝てた試しが無い。
ウトウトしていると、誰かが暗闇の中で泣いている声が聞こえる。何だか聞き覚えがあった。
(誰か、お願い。助けて。もう嫌だ。外へ出たい。お兄ちゃんと学校に行きたいよ。)
小さい子供の手が窓に縋りつく。すると大きな黒い影が現れて幼い身体を引き剥がし、殴り飛ばした。
がつんと頭を殴られたような衝撃が起きる。慌てて飛び起き、周囲を確認した。やっと片付いた薄暗い自分の部屋が瞳に映る。
心臓の鼓動がうるさい。とても嫌な予感がした。早く行かないと間に合わない。そんな根拠もない焦りを感じる。居ても立ってもいられず押し入れからリュックを取り出し、いつも病院へ持っていく道具とお菓子を手早く詰め込んだ。
勢いよく部屋を飛び出して、運動靴を履く。
「こんな時間にどこ行くん?」
「病院に忘れ物したから取りに行く。すぐ戻るから!」
母が背後から声を掛けて来た。それを適当に返事して、真っ暗な住宅街を自転車に乗り病院へと向かった。
橋を渡った先にある門の前では警備員二名が何やら真剣な表情で話し込んでいた。よそ行きの顔で二人に笑いかける。
「何かありましたか?」
奥にいた警備員の一人はこちらを見て、ニタリと笑った。この人とは顔馴染みの筈なのに、どうも違和感がある。
「ああ!いつも研究所に通っている子ね。異常を感知したからセキュリティの点検に来たんだ。でも俺達のID権限じゃ何故か中に入れなくて。電波障害も起きているから中と連絡が取れない。」
「また精神患者の病棟だろう。入院患者の中に異常にプログラムに強い人がいるみたいで、隙あらば他人のID権限を書き換えようとしてくるんだから。」
仕事にならないため本部に指示を仰いだら、時間外労働になるから翌日に持ち越して欲しいと言われ、明日の昼に出直そうかと話していたそうだ。警備員さんの一人に君は何をしに来たのかと聞かれたので、忘れ物を取りに来ましたと大嘘をつく。
試しに自分の端末を翳すが門は開かない。完全に病院は孤立している。先程の夢の内容も相まって背筋が寒くなる。
「ほどほどにして帰れよ。」
大人達は何とかして中へ入ろうとする子供に頓着せず、踵を返した。
そういえば以前、本当に忘れ物をして病院に取りに来たことがある。あの時は門の脇にある設備室兼倉庫の小窓から中へ侵入した。
設備室に入り、小窓を見上げる。あの時より体が大きくなったから通れるかは正直、判らなかった。
数分間、悪戦苦闘して何とか室内へ侵入する。室外機の上の窓の鍵が壊れていたのが幸いした。まったく何でこんな苦労してまで、病院に入ろうとしているのか。ちょっと悪夢を見ただけなのに。
自分でも判然としない不安が心の中で渦巻き、居ても立っても居られなかった。今でも心臓が不自然に波打っている。
苦しい思いをして、ようやく小窓を抜けた。
立ち上がり顔を上げた矢先、腕を引っ張り上げられる。
「えっ?何?」
迷彩服を着て、銃を背負った大きな男性が無言で腕を引っ張った。助け起こしてくれたのかと思い、お礼を言おうとする。しかし骨を折られる勢いで腕を握られ、病院の入り口まで引きずられた。
「おっさん、痛いって!何や、離せ!」
砂鉄の匂いが鼻につく。暗くて判り辛いが引きずられている最中の道に様々な人が倒れていた。迷彩服を着ている人や看護師、運転手までいる。彼らの下に広がる黒い水溜りを見て確信した。
やばい。早く逃げないと。
腕を振りほどこうと滅茶苦茶に暴れるが、子供の力では勝てない。無駄に体力を使っている内に、病院の外来へ行く自動ドアが開いた。吉田は無造作に室内へ放り投げられ、男の正面に尻餅をつく形になった。
見上げると男も米神から血を流していた。右半分の歯が粉々になっており、ぐちゃぐちゃになった口内から胸元にかけて血が黒くなって固まっている。
完全に事切れていた。
悲鳴をあげそうになって必死に口を閉じた。すぐに男の脇を通って、一目散に逃げようとする。しかしさっきまでは開いていた自動ドアが動かない。
室内に雑巾を絞って何日も放置したような匂いが充満している。あと蝿や虫の音が煩い。
ここでどんな事があったか大体の察しはついた。
一体誰が操作したのか、見計らったように自動ドアの向こう側で無情にもシャッターが下りる。生まれて初めて眩暈がするほどの身の危険を感じた。
『おや、グレーテルはどうしたんだい?お菓子の家に君だけ来るなんて無謀だね。ママにこんな夜遅くに出歩いてはいけないと教わらなかったのか。』
院内放送が唐突に鳴り響く。すぐ前にある外来の案内所に何者かのホログラムが浮かび上がる。
それは奇妙な顔をしていた。頭皮の右半分は長く茶色の髪をしている。しかし肌は隙間なく沢山の人間の目に覆われていた。口は耳まで裂けて両端に長く尖った歯が生えている。
左はもっと異様だ。青い肌に鋭利に尖った腕、胴体の表面は至る所が膨れ上がっている。無理矢理来ている人間の服と、肩まで伸びている長い歯は血に濡れて黒く染まっていた。
『初めましてヘンゼル。僕は№3だ。人間がムクロと呼んでいる食人生物だよ。お菓子の家へようこそ!歓迎するよ。早速だけど僕の収集品を見てくれないか。きっと君も気に入ると思うんだ!』
舞台に照明が落ちるように、今まで暗かった外来のロビーに電気が付いた。
壁と天井は血にまみれ、ソファーや観葉植物が散乱している。中央の案内サービスの前に老若男女問わず人の腕で三角錐が作られていた。またエレベーターまで続く道に仮面を被った人の頭部が規則正しく並んでいる。手前は仮面が足りなかったのか人々の顔が素面のまま自動扉に向けられていた。
また左奥の自動精算機の傍には頭と腕のない死体が山積みになっていた。その中の幾つかは首からIDカードを下げている。
悲鳴は出てこなかった。代わりに酸っぱいものが込み上げて口を押える。胃酸が逆流し、黄色い液体が床を濡らした。
死体の中に病院で知り合った老人がいた。その人は足の間接が痛いと車椅子に乗って移動していたのを覚えている。走り回る吉田を見ては叱り飛ばしたが、いつだって優しい眼差しをしていた。
子供は風の子、元気の子。少々やんちゃなぐらいが丁度良い。お前さんはやり過ぎだが。ここは病院なんだから、これからは気を付けなさい。
廊下で滑ってこけた時に頭を撫でて飴玉をくれた。その老人が無残にも殺され、似合わない仮面の下で恐怖に顔を引き攣らせている。
それを認識した途端、呼吸が浅くなる。知らない内に右目から一筋涙が流れた。
『ああ、ああ!気に入ったよ、ヘンゼル!ああっ!この恍惚感!僕は人間の恐怖に染まった顔が大好きなんだ。勿論、涙も大好物さ。なんて透き通った涙を流すのだろう。…お前をすぐに殺すのはやめにしよう。今、僕はゲームをしているんだ。君を特別に二十七番目の招待客にしてあげる。』
気色の悪い声を上げて、更に言い募った。
『ルールは簡単さ。日が昇るまでの間に脱出方法を見つけて、この病院から逃げればいい。他に生存している人間が二十六名いるから彼らと協力も出来る。ただし…』
吉田を外来に連れて来た男が痙攣を始める。不自然な歩き方で外来の待合室にある車椅子を放り投げた。
車椅子は音を立てて第一病棟を繋ぐ自動扉を吹っ飛ばす。
『見ての通り、生存者の中には僕のお人形さん達が混じっている。その子はまだ出来立てで動きがぎこちないけどね。だけど安心してほしい。君達が変異体と言っている子達は僕らと似ているから、すぐに見分けがつくかもしれないけど、他の子達は生きている人間と見た目は何にも変わらない。ただ、頭は良いけど腹ペコなんだ。お前達を騙して頭蓋骨を噛み砕くかも。うふふ。ね、可愛いだろう?その子みたいに人間に化けられる子達を僕はヒトガタと呼んでいるよ。』
男が比較的遠くにいる内に真逆の外来内科の診察室へ走り出す。そこの角には郵便センターがあり、搬送用の小さなエレベーターがついていた。
背後で狼のような唸り声が聞こえる。逃げたのが、ばれたようだ。
『ふふふ。察しの良い子は大好きだよ。少しは抵抗してくれないと面白くない。僕はとても優しいから人間達に一番すぐ見つかる脱出方法を教えてあげよう。君らの持っているID権限を再設定すれば良い。再設定の操作ができる端末機は僕のいる第二病棟の管理課事務室に置いてある。ところが、このドアは仕掛けがあって、入り口の扉を開けた途端に室内で縛られている子供の頭と、その背後にある端末機を機関銃が撃ち抜いちゃう。うーん、冴えているだろ?』
後ろから追って来る気配がある。上に向かうボタンを押すが、なかなか下まで降りてこない。すぐに見切りをつけて近くの段ボールの影に隠れる。
『罠だよ!僕はそこには閉じ込められていない。外へ逃げるには…』
『お前は黙って居ろ!!』
聞きなれた声が耳朶を掠める。巧の声だった。何かがぶつかる音と悲鳴が聞こえた。という事は囚われている子供は巧なのか。夢で見たとおりだ。
怒りで視界が真っ赤になる。無力な者をいたぶって、喜ぶ大人は大嫌いだ。それは人間もムクロも関係ない。
『さあ、人間達が疑心暗鬼の末に殺し合う様を見せてくれ。希望が絶望に変わる、その一瞬は人類が生み出す最高の芸術品だよ!』
ポーンとエレベーターのランプが点滅する。すこし屈んで中に入り、閉じるボタンを押した。扉が閉まるギリギリで男が開けようと指をねじ込むが僅かに遅かった。
独特の浮遊感を感じる。
一気に緊張が解け、その場に座り込む少年の耳に死んでいる男の怒りの咆哮が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます