第11話
衝撃を受けると人間は何も話せなくなるって本当だったのね。
モニカは途方に暮れていた。彼と久しぶりの休日を満喫するため待ち合わせ場所に急いでいたら、綺麗で優美な女性と彼のキスシーンに出くわしてしまった。
その場で掴みかかって怒れば良かったのに。これが仕事なら、絶対にそうしている。頭ではそう思っていたにも関わらず、現実では回れ右をして近くの公園のベンチに座って俯いていた。
私は捨てられるのだろうか。仕事と夢を追い過ぎたのが悪かったのかも。それともお金目的だと勘違いされたかしら。いや、この関係自体が元々遊びで、本気になった私が全面的に悪い可能性すらある。
考えれば考えるほど、ドツボにハマった。こんなに自信の無い自分は久しぶりだ。こういう時、なんて言えば良い。私も貴方とは遊びだったわと良い思い出ありがとうと言って微笑むべき?
駄目だ。そんな事を口に出そうものなら声が震えて泣きだしてしまう。
愛していたのに。愛してくれていると思っていたのに。何でそんな女が良いのよ。
深呼吸をして冷静になろうと試みる。みっともなく泣き叫ぶヒステリーな女になりたくなかった。いいじゃない。人生は何事も経験よ。私なら失恋だって糧にして強く逞しく生きるでしょう?
震える手で腕時計に触れる。さっきから時計の針が待ち合わせ時間の超過を告げていた。
(何をやっているの?さっさと行って、彼に問い正しなさい。)
頭の中で声がする。無駄だと知っていても思わず耳を塞いだ。今は構っている余裕なんてない。
胸の内から怒りが沸きあがる。違う、これは自分の感情ではない。誰かが不甲斐ない自分を見て怒っていた。
「私のプライベートに口を出さないって言っていたじゃない。ほっといてよ。」
すると耳を塞いでいた両手が意思に反して降ろされる。身体は勝手に立ち上がり、来た道を引き返す。
やめて!と口に出したつもりが、声すら出せなかった。今度は意識があるままで操られている。逃げようと必死に頑張るが、どうすることも出来ない。あっという間に待ち合わせ場所に着いた。
彼は依然として彼女と抱き合っていた。到着したモニカを見て、にこりと笑いかける。
「やあ、遅かったね。道路が混んでいたのか?」
よくもまあ、他の女と抱き合いながら笑いかけることが出来たものだ。悪びれない態度に物悲しい気持ちになる。
「その人は誰?」
いつの間にか主導権が戻っていた。そうか。勝手に失恋しろという趣旨なのね。上等じゃない。当たって砕け散ってやろうじゃないの。
怒りか悲しみか区別のつかない思いが溢れて視界が歪む。
お願いだから、やめて。冗談じゃない。落ち着きなさい。泣きたくないのよ。泣いても、いつだって現実は変わらないじゃない。
自分にそう言い聞かせて、ぐっと堪える。
彼はこちらの顔を見て、隣の女性を見た。そしてさっきまで抱き合っていた女性を突き飛ばす。突然の粗雑な扱いに彼女は目を白黒させた。
「もしかして勘違いしてない?この人、俺の姉さんだけど。」
数秒間、彼の言葉が上手く呑み込めなかった。確かに二人の顔と髪の色が似通っている。それに建物の影に隠れて気が付かなかったが彼女の背後には夫らしき男性と子供がいた。どうやら嘘ではないようだ。
「…ちょ、ちょっと待って。恥ずかしい勘違いをしたみたいだわ。落ち着くから少し時間をちょうだい。」
彼に背を向けた。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
どうしよう。私の早とちりだったのね。これ以上、取り乱さなくて本当に良かった。
すると背後に温かな体温を感じた。彼が後ろから抱きしめてくれている。
「不安にさせたみたいだね。実は姉さんの家族を君に紹介したくて呼んだんだ。隣街に引っ越してくるそうだから。」
耳元で優しく囁かれた。その言葉で体の向きを変えて正面から彼に抱き着く。
「なら今度から早めに言ってよ。貴方の家族に会うなら色々と準備が必要なのに。」
肩越しに先程の女性と目が合った。口パクで初めまして、馬鹿弟をよろしくねと言ってウインクしてくれる。
(本当に良かった。あまりにふざけた男なら、ぶっ飛ばしてやろうと思っちゃった。)
物騒な発言が脳内から聞こえた。
彼の肩に額をつけて、モニカは笑う。
そういうの要らないわよ。でも私の為に怒ってくれてありがとう。
今日はきっと最良の日になるだろう。理由もなく、そう思えた。
「お兄ちゃん!」
橋を渡って中央病棟の前へ来た時、腹に衝撃を受けた。別にお腹を下したわけではない。巧が何も考えずに抱き着いてきたせいだ。
「ぐっ、やりおるな。俺が油断しているのを狙ってくるなんて。」
他の子供ならド突きまわしているところだ。近所でガキ大将をしている吉田にしては珍しく怒らない。相手に他意が無いと知っているから許していた。
でも果物が好きだと言っていたから、こっそり蜜柑を持って来ていたのに。後でわざとらしく目の前で食ってやろう。ちなみにまだ柑橘類の食事制限は解けてない。
そんな些細な復讐を胸に誓った。大人げない子供の心情を知ってか知らずか、明るい声で話しかけてくる。
「お兄ちゃん。聞いて、聞いて!先生がお兄ちゃんと同じ学校に行けるかも知れないって!」
「何やて!?ホンマ?」
数か月間、親と相談して異能者の受け入れが整っている全寮制の学校へ行くことになっていた。そこなら試験さえ受ければ、あまりお金を掛けずに学ぶことが出来たからだ。
勿論、不安が全く無いわけではなかった。夏休みとお正月は帰れても親元を六年間も離れる。その間、人も街もどんどん変わって行ってしまうだろう。しかも少年野球の友達は地元の学校に上がると聞いた。実はひっそり疎外感を感じていたところだ。
「うん。そこの学校で難しい力を持った子供も受け入れているみたい。発作の回数も少なくなって来たから大丈夫だよって。僕ね、初めて施設の外へ行けるんだ!」
「おう。そうか。そんなら学校へ行ったら街の歩き方を教えよか。巧は危なっかしいから、すぐに悪い人に騙されるやろ。」
「そ、そうなの?」
「せや。バク転と買い食いが出来んとな。警察が怒って追いかけてくる。知らんのか?」
どんな世界にも作法があるんや、と尤もらしいことを話す。純情な巧は真に受けて、どうしよう。僕はそんなことできないよ、と青ざめた。
「何を下らない嘘ついているのよ。そこに突っ立っていると通行の邪魔よ。早く移動しなさい。」
紙のカルテを挟んだバインダーで頭を軽く叩かれた。回診を終えたモニカがいつの間にか隣に居て、二人の背中を押す。
この人はちょっと巧を揶揄おうとすると、どこにでも現れるな。
へそを曲げていると、モニカから嘘だと聞いた巧もむすっとした顔をした。
「お兄ちゃんは、すぐ僕に嘘つく。」
「半分は希望が混ざっているから嘘やない。街に出かけたら、まずは買い食いしよ!」
あと前に話したようにナンパしに行こうと明るく提案する。少年野球チームの先輩は、男が女好きを隠したら人類の終わりだと言っていた。多分、そういうものなんだろう。
ナンパして巧より早く彼女を作って、兄の面目躍如だ。勝負事には負けられない。
「うん!」
話題がすり替えられているのに気が付きもせず、相手の気持ちを和ませる笑い方をした。
やっぱり、こいつは騙されやすい。俺が何とかしないと。
照れ隠しで、わしゃわしゃと頭をかき撫でる。また何か文句が出る前に、吉田は異研に向かって走り出した。
「弟よ。俺を超えてみい。競争するぞ!建物に着くのは俺が一番や!」
人は自分より幼い者に全幅の信頼を寄せられると応えたくなってしまう生き物らしい。この病院に通い始め、どうして巧に対してこんなに優しい対応をしてしまうのか悩んでいたが、ようやく答えが出た。きっと巧の人徳に違いない。本当に素直で努力家だ。隔絶された生活をしているから純粋培養と言ってもいい。ただ無心に目標に向かってリハビリをしていた姿を知っている者は無碍に扱うわけがなかった。
素直な反応が面白いから、ほんの少し揶揄いはするけど。
「まったくアイツは、いつでも元気一杯ね。巧君、追いかけてあげて。後ろから付いて来てないと拗ねるから。」
「うん!あの…僕、頑張るね。お兄ちゃんと学校に行くために。」
モニカは眉を寄せた。言われた意味が分からない。手続きを頑張るのは巧ではなくて周囲の大人達ではないか。今更、何を頑張るのだろう。
そう尋ねる前に巧は真っ直ぐに先を走る少年の背中へ駆けだした。
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