第10話
「いい加減にしてちょうだい!」
洗面所の鏡にタオルを投げつけ、思いのまま吠えた。この部屋は完全防音だから隣には聞こえない。そんな当たり前の事実ですら腹が立つ。
モニカはあれから何度も石井准教授に受診しようと話す機会を伺っていた。しかし接触を試みる度に意識を失い、次の日になっている。
自分の中に誰かがいることは明白だった。どんな異能を使ったか知らないが、自身の身体を勝手に操られるのは許せない。
相手は、もう隠す気がないらしく、鏡を覗くと悲し気な自身の姿が見えた。
「私はそんな負け犬の表情はしないわ。一体、何なの!?」
鏡の中にいる自分が重々しい口を開く。
(貴方に害は与えない。お願いだから、もう少しこのままでいさせて。)
「やっぱり話せたのね。私からの要求は一つよ。さっさと出て行って。」
彼女は無言で頭を振る。なるべく平静を保とうと頑張ったが、頭に血が上るのを感じた。元々、直情型の傾向があるとAIに注意されていたのだ。
怒りのまま、何か言い返そうとしたモニカを彼女は手を上げて止める。
(話を聞いて。)
おどおどしていた表情が急に引き締まる。彼女はきっぱりとこちらを見て話始めた。
(私は貴方のプライベートに踏み込まない。専門医になる夢も邪魔しない。でも研修医の期間が終わるまで、貴方の中に居させて。)
「それで私が頷くとでも?舐められたものね。」
もう既に誰かが自分の中に存在するだけで、プライベートなんてあったものではない。
きつく睨んで、吐き捨てると相手も負けじと言い返す。
(これはお願いじゃない。明確な脅迫です。こちらはいつでも自殺に見せかけて貴方を殺せる。分かるでしょう?)
「…何が目的よ。」
(特別病棟に入院中の少年は命を狙われている。…身内なの。退院が決まるまで、どうかこのまま見守らせて。)
数か月前の不審者侵入事件が頭を過ぎる。あのスーツの男も巧を狙っていた。
でも一体どういうことだろう。あの子はムクロの巣で見つかった唯一の生き残りだ。親族が生きていないから有志の出資者が難病に苦しむ少年を無償で入院させていると聞いている。それなのに今更、身内だなんて信じられるわけがない。
あの子の両親がいない苦しみは痛いほど理解できた。家族への思慕や憧憬は同じ立場の者ではないと判らない。こんなご時世だ。自分達と似た境遇の人間は吐いて捨てるほどいる。だからこそモニカは医者を目指した。微々たる力しかないかもしれないが、一人でも多くの命を救いたい。あの時のようにただ泣き喚くしかない自分は嫌だった。
「そんなこと信じられない。」
(信じていただかなくて結構。信頼される行いなんて、した覚えないから。)
「いい?私の身体を使って、あの子達や私の親しい人達に危害を加えるつもりなら、この場で死ぬわ。本気よ。」
彼女は虚を突かれた顔をした。そして今度は切なげな視線を寄越す。
胸にじんわりとした温かさが広がる。これは自分の感情ではない。目の前にいる人間のものだ。
(貴方が本気なのは痛いほど伝わる。だから、これだけは信じて。決して貴方の大切な人達に危害を加えない。)
むしろ一緒に守りたいの。そう彼女は言い残すと唐突に鏡が元に戻る。
その後、何回呼びかけても鏡に映るのは困惑した表情の自分だけだった。
臨海学校から帰って来た日を境に、巧はだんだん気落ちしていった。それと反比例して体調は以前とは比べものにならないほど安定した。周りの尽力によって歩行と走行は問題なく出来るようになり、外出許可も下りた。
吉田が見舞う回数も週三日に減った。このまま順調に行けば、その強大な能力を操る訓練が出来るともっぱらの噂だ。
一方、吉田の能力も発動条件や大まかな効果が判明した。強さに憧れる本人からしてみれば落胆する内容だったが、テストをした先生達は珍しい能力だと絶賛してくれた。不思議なもので、そう褒められると悪い気はしない。
また、こんなに判明するまで時間が掛かったのはまだ成長過程の身体のため能力の発現にムラがあったせいだろうと口々に言った。まだちゃんと能力が定まっていないのか、それとも観測できているのは力の一端だけなのか。研究する甲斐があるな、と異研の面々は色めき立っている。
ひょっとしたら研究所の先生達は噂に聞くマッドサイエンティストなるものかもしれない。ちょっぴり目が怖かった。
数日間、巧とはすれ違いの日が続いた。吉田も最終学年なので来年の学校を探さなければ行けない。異能者と判明しているため通える学校の候補が絞られてしまう。親に負担を掛けず通学するには奨学金制度のある学校を選ぶしかない。一応、行きたい学校はあった。しかしそこは自宅から遠いため親元を離れて寮生活を強いられる。かなり悩ましい問題だ。
様々なことを考えながら、西病棟から特別病棟の渡り廊下を歩く。
最近、主治医や看護師が巧の病室に訪れても誰も居ないことが多くなった。今日もお見舞いに行ったが、もぬけの空だ。
きっと外に居るのだろうと当たりをつけて裏庭へ出る。
以前、病室に侵入した木の下で先生と巧は何かを話していた。何故か巧の後ろに小さな段ボール箱が置いてある。
「本日の予定では私は此処にいない。だからその箱の中身は見なかったことにするよ。」
「ありがとうございます。」
少し俯いて巧は礼を言った。先生はしゃがんで子供と目線を合わせる。
「どうしたんだい。最近、ずっと塞ぎ込んでばかりで。君のそんな顔は見たくないな。良ければ相談に乗るよ。」
「本当に?」
重々しく頷く。目尻に笑い皺が刻まれる。柔和な人の良い笑顔だ。首から下がっているネームプレートに教授と記載があった。
「先生、来年から出向に行くんでしょう。今から行けないの?」
「おや、ひどいな。私は何か君に嫌われるようなことをしたのかい。」
居なくなってくれと遠回しに言われたと思ったのだろう。悲し気に首を振った。
「違うよ。好きだよ。だから出向に行って欲しい。ねえ、駄目ですか?」
必死に言い募る少年の姿に何を思ったか、しゃがみこんで目線を合わせる。
「発作があった時、何か見えたのだね。」
無言で頷く。今にも泣きそうな顔を両手で包み込んで、先生は顔を上げさせた。
「それはただの悪夢だ。気にしてはいけない。君が何を見たのか判らない。だが決して、その内容を話しては駄目だ。悪い大人が君の力を悪用してしまう。…私のことは心配するな。見てくれはこんなだが強い男なんだぞ。」
「…知っている。知っているよ。でも、もし何かあったら逃げて。先生一人だけなら逃げられるから。」
話している内に耐え切れず両目から雫が零れる。
先生は親指で少年の涙を拭い、額にキスをした。そして安心させるために、もう一度笑顔を見せた。
「わかった。約束しよう。一目散に逃げるよ。実は足も速いんだ。これで安心出来たかな。」
そう言って、ゆっくり抱きしめる。巧もぎゅっと肩に抱き着く。
こうして見ると二人は親子みたいやな。
込み入った話になりそうだと咄嗟に近くの茂みから、様子を伺っていた吉田はそんな事を考えた。
先生は目の前の子供の頭を撫で、一言、二言ほど小声で何かを話した後で建物の中に戻っていった。途中、こちらにウインクするのを忘れない。あらら、折角隠れていたのにバレバレだったみたいだ。
それにしても衝撃のカミングアウトだ。巧の異能はもしかして未来予知かも知れない。
時間に関する異能所持者は圧倒的に少ない。何故なら虚言癖と疑われて、自らの命を絶つ者や犯罪に巻き込まれ死んでしまう者が殆どだからだ。それ故、能力の実態を把握出来ていない。研究所に匿われている理由はこれだったわけだ。
ようやく腑に落ちた。だから危ない大人に巧は狙われていたのか。
「お兄ちゃん。帽子が隠れていないよ。」
「えっ!うそーん。」
目元が赤く腫れぼったい巧の前でわざとはっちゃける。お通夜みたいな辛気臭い空気はあまり好きではなかった。
おどけた様子に少し笑ってくれる。ただそれだけでホッとした。
「聞いていた?」
「うん。まあ多少は。…なあ、発作の時に何が見えてたん?」
「良い言葉が見つからないのだけど。何ていうか…無数に広がる光の濁流が見えるんだ。」
好奇心に負けて質問する。さっき折角、他人に話してはいけないと忠告されたばかりなのに巧は正直に話出す。そういうとこやぞ、巧。
「僕には決して動かすことが出来ない光が四方に広がって、その一つ一つに映像があるの。似ているけど全く違うストーリーを幾通り見させられる。そんな感じだよ。」
でもね、ただ見ていることしか出来ないと悲し気に呟いた。
冷たい光は束になって押し寄せ、幼い少年を飲み込む。そしてどんな酷い内容だろうが容赦なく沢山の物語を追体験させるのだ。やがて全てに疲弊し自分が判らなくなる。すると呼吸の仕方を忘れ、光に溶けて消えていく。
そう吐き出すと陰鬱な顔を隠そうともせず、俯いてしまう。
話を聞いている内に胸が詰まった。そんな酷い体験を発作の度に毎回していたなんて。
「なあ、物語を変えようと思ったことは無いんか?」
「駄目なんだ。変えたら分岐が網目みたいに広がって、無限に増えちゃう。それに、せっかく分岐しても終わりは一緒。意味ないんだよ。しかも変えた分だけ僕が溶けて消えるスピードが速くなる。」
ただ一つの収束点に向かって、光よりももっと早く流されてしまう。そういう時は嵐が過ぎ去るのを待つしかない。それでも最後には自分という概念が薄れ、膨大な知識に埋もれて押しつぶされそうになる。
怖いんだ。僕が僕で無くなる感覚が。ここで生きている実感が沸かなくて。僕の身体と心が現実なのか夢なのか、確かめる方法がない。
地面の石ころを蹴って、そんな難しい事を言う。
巧の境遇では勉強なんて出来ない筈なのに知識量が異常だなとは思っていた。本人はちっとも望んでいないのに異能で得たものだったのか。
「だから俺と会うた時、大人達がすぐ来ること知っていたんやな。」
「うん。お兄ちゃんと出会う確率って本当に少なくて。あの時、僕は光の呑まれて消える筈だったんだ。」
話には聞いていたが、やはり酷い状態だったのか。
巧は棒立ちになっている此方の手をそっと掴む。
「お兄ちゃんが手を握ってくれると僕は僕が判るの。それにね、光の中で押し寄せた物語以外にも全く知らない世界があるんだなって教えてくれる。手から温かさが広がって景色がキラキラ輝くんだよ。研究所の人達は僕がこの能力に殺されない方法を探している。僕はね、皆が紡いだ奇跡で生かされているんだ。」
「なんや達観しとるな。」
現状を嘆き、周囲の不甲斐なさと己の運命を呪ってもおかしくない。三年ほど年下だが、こういう所は大人だなと感心する。先輩風を吹かして普段は巧よりも大人ぶっていても素直に凄いと思う。
二人が話込んでいると、巧の背後の段ボール箱から猫の鳴き声がした。
しゃがみ込んで中を覗くと三毛猫が前脚を箱の淵に掛けて、顔を覗かせている。
「猫?」
「実験棟の中をうろうろしていたから、連れて来ちゃった。」
「あのなあ…。」
実験棟とは異研の後方の通りを挟んで斜め左にある建物だ。新薬の開発や遺伝子の研究をする施設だと聞いている。そこで保護したのなら十中八九なにかの実験に使うモルモットだろう。こいつはどう見ても猫だけど。
「あのね、お兄ちゃんのお父さんに里親探して貰えないかな。そうすれば、この仔はここから無事に逃げ出せるから。」
「別に構わんよ。犬がいるから家では飼えないけど、預かれると思う。」
だから先生は箱を見て見ない振りをしたのか。
今の話を聞いた後で断るはずがない。きっと巧は何回目かの発作の時に、この猫に出会った。だからどうすれば良いかを知ったのだろう。
片手で段ボール箱を抱えて、空いた手を差し出した。
巧は差し出された手に首を傾げる。
「とりあえず猫を橋の監視員さんに預けよ。そんで今日は木登りを教えたる。夕陽が綺麗な場所でお菓子食って、写真撮ろう!」
内緒でまた持ち込んで来たと胸を張る。
うんと笑って手を掴み、二人は橋まで競争した。競争なのに手を離さず、笑い合い、ふざけ合いながら。
猫はそれから三日後に、里親が見つかり遠くへ引き取られていった。
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