第6話

 先日裏庭まで巧を連れ出しただけで、かなり怒られた。そこで吉田は考えた。双眼鏡機能が付いている眼鏡の端末を二つ持って来れば外出しなくても景色を見られる。しかも外に面白いものがたくさんあると判れば巧のモチベーションもアップするに違いない。一石二鳥や。俺ってやっぱり頭が良い。

 最初から、その案を採用していれば親も含め、多くの大人達に怒られる必要が無かったとは一切考えなかった。この少年は例え嫌な事があっても一晩経てば気持ちを切り替えるようにしている。

 反省はしても後悔はしない。起こしてしまったことで悩むのは時間の無駄だ。

 早速、家から持ち出して検査が終わったら、すぐに病室へ顔を出した。

 相変わらず、真っ白い中央のベッドで美味しくなさそうにお粥を口に運んでいる巧を目にする。

 会った時より筋肉は付いてきたが、まだ普通の七歳と比べたら細すぎた。背負って階段を駆け下りた時も、すごく軽かった。

 そんな巧を見ていると出会った時の痛々しい様子を思い出してしまう。あの時は本当に死にそうになっていたのだと後から聞いた。誰も居ない病室で一人苦しんで、ひっそりと息を引き取るなんて、そんなの切な過ぎる。もし自分だったらと考えただけで、ぞっとした。だから俺の異能で巧を救えるかもしれないと聞いて自分でも熱心なくらい毎日通って手を握っていた。

 手を握ると、目に見えて調子が良くなっていった。未だに自身の異能が解明出来ていないが、人の役に立っていると気分が良い。

 昨日、別室で先生に怒られた内容が脳裏に蘇る。

 巧の為にと張り切って空回る度に先生は、君が救った命を君の不注意で失ってしまったら、どうするんだ。責任は取れるのかい?と注意を促された。

 いつも先生の言葉に反論出来ない。ぐうの音もでないとはこのことだ。大分、反省している。でも言う事を聞くのはなんだか癪だ。複雑な子供心を理解して欲しい。

 とにかく、こうなったら一刻も早く元気になって貰わなくては。ちょっとぐらい無理しても、誰も咎めないくらいに。

「巧!今日はおもろいもん持って来たで。」

 吉田の姿を見て花が咲く様に笑いかける少年に双眼鏡の使い方を教える。

早速、ベッドをパネルで窓際まで操作して、窓枠に肘をつき外の景色を見た。他愛もない話をしながら電線に群がる鳥や、遠くに広がる街の景色を眺める。

 この病院は敷地内が広く、正面には川、背後は山と森に囲まれている。最近、仲良くなった入院患者曰く、地上の孤島と化している。街への道は舗装された大きな橋一つだけ。その橋も警備員が常駐しており病院へ予約した人や入院患者、その家族しか入れない。

 時折、吉田のように森から塀を超える奴もいるが大体セキュリティに引っかかって、警備員につまみ出されてしまうらしい。

 日頃の行いがものを言う。明るく真正直生きていると良いことあるんやねと、自画自賛をした。お調子者もので名高い吉田には、このぐらい朝飯前だ。

 でも最近は頻繁にセキュリティシステムに悪戯する人が多いらしい。こんな辺鄙なところに悪戯するなら、もっと有意義なことすればいいのに。例えばスポーツとか。そう、モニカに伝えたことがある。すると彼女は額に手を置いて、自分が大人になったってこういう時に気が付くのよ。どうか、そのままで居てね、と笑っていた。よく分からない。

 話は変わるが敷地内の端に位置する異研の特別病棟には巧しか入院患者がいなかった。

 それも変な話だ。ここは広い施設で最新の医療機器が揃っている。両親がいないのに誰が入院費を払っているのだろう。

 妙に納得出来ない思いを抱えて、ちらりと隣にいる少年の顔を見た。

「あれ?モニカさんだ。」

 物思いにふけっていると、巧が研究所の正門へと駆けていく女性の姿を指さした。

 モニカは正門で佇む、遠目から見ても精悍で男前な男性の胸に飛び込んだ。

「うわっ!あの人、絶対彼氏や!」

「彼氏?」

「今、お付き合いしている人。」

「…お付き合い?」

 見ている先で男女は情熱的に抱き合いながら、何か話している。女性は少し背伸びをして相手の首と頭に腕を回し、男性は両腕を腰に回して見つめ合う。

 ひゃあー!これはキスの予感!と騒ぎ立てた。隣で巧は更に首を傾げる。

「キス?」

「好きな人同士が愛しているって伝える行為や。説明させんな、こっちが照れるやろ。」

「モニカさん、キスするの?」

「しっ!良いから黙って見とれ。」

 固唾をのんで見守る中、男女は中々キスをしない。焦れた吉田がキスを連呼すると、調子に乗った巧も復唱し始めた。

 やがて二つの影が重なる。

「うおおおお!ぶちゅっとキッスした。姉やん、やるう!」

「あれがキスなんだ。」

「はあ…ええな~。俺もいつか結婚したい。笑顔の可愛いお嫁さんが欲しい。俺だけの嫁さん、どこにおるんやろ。」

「よく分からないや。僕、お兄ちゃん以外の子供に会ったことないし。」

「はあああ?そんなん絶対に人生の半分以上損してるわ。よし、俺に任せろ。元気になったら街に行こう。ナンパの仕方を教えたる。」

 きっとその頃には日常茶飯事に可愛い女の子を引っかけている。そんな希望的観測の元、軽々しく胸を叩いて請け負った。

 話を聞いているのか、いないのか巧は話を逸らす。

「…キスして笑顔になっていたね。美味しいのかな。」

「甘酸っぱい味がするらしいで。」

 真顔になって吉田は答えた。すかさず巧も神妙な顔で応じる。

「酸味も糖分も無いのに、どうして、そんな味がするの?」

 お付き合いやキスは知らない癖に酸味は知っているのか。病院の情操教育は一体どうなっている。子供が心配する必要ないが、もうちょっと方向性に誤りがないか考るべきだと思う。

 でも巧の言う通りだった。もしかして女性はキスする前に飴でも舐めているのかもしれない。何故かすごい匂いに敏感だし。綺麗であることにプライドを持っているから。

「もしかして頭から変なものがわーってなって、勘違いしているとか?」

 確かに。その説もある。拙い説明だったが何となく判った。キスしている最中に脳内から何かの物質が分泌されているのかもしれない。もしくはフェロモンが関係していて味を錯覚していても可笑しくない。

「判らーん。今度会ったら本人に聞いてみよう。」

「絶対に答えないわよ。マセガキ。」

 振り向くと怒り心頭のモニカが仁王立ちで病室の入り口に立っていた。

「姉やん、もしかして異能持ち?ちょっと来るの速すぎひん?」

「私は一般人よ。そしてアンタの姉さんになった覚えはない!あんた達が囃し立てるから彼ったら照れて、すぐに仕事へ行っちゃったじゃない!」

 ああ、なるほど。聞こえていたのか。だからあんなに勿体付けていたわけだ。あれだけ見せびらかすようにベタベタしていた癖に、見ていた子供に文句をつけるなんて。大人って本当汚いわあ、と思った。とりあえず文句には正論で返してみる。

「そら、姉やんがおかしいわ。お仕事中なのに彼氏とイチャイチャする方が悪い。」

「さっきまで休憩中だったのよ!折角久しぶりに会えたのに!ほんと、あんたら余計な事しかしないわね!」

「いやあ、それほどでも~」

「褒めてない!」

 息の合った会話を隣で聞き、巧は兄を盗られたような感じがして、むっとした。何かを言おうと口を開けた途端、顔が強張る。そのまま何も言わずに、じっとモニカの背後を凝視した。

「すみません。迷ってしまったのですが、中央病棟へ行くにはどうすれば良いですか?」

 振り返ると病室の扉に品の良いスーツを着た男性が立っていた。右手には薄手のコートを持っている。手首までが丁度隠れるように。

 ここは吉田が侵入してから、更にセキュリティが厳しくなった。例え製薬会社の営業や顧問弁護士、保険会社の社員であっても立ち入ることは出来ない。一般外来ならまだしも、この場に三人の顔見知り以外の人間が来ることは、まずあり得なかった。

 しかも顔に微笑みを浮かべているが目は笑っていない。話しかけているモニカではなく、子供達を観察している。

 巧が吉田の右手をぎゅっと握った。驚いて隣を見るとガタガタ震えて怖がっている。

 何も言わず身体の位置を変え、巧を背後に庇った。

「…一回、この建物から出て下さい。右へ進めば橋が見えてきます。橋の前の建物が中央病棟です。」

「そうですか。気が付かなかった。ありがとうございます。」

 朗らかに笑って、男性はコートの下から拳銃を出した。愛おしそうに三人を眺め、両手を頭に付けろと言う。

 三人は黙って従った。

「おい、研究所に入院している検体はどっちだ?」

「ここは職員専用の託児所よ。入院患者はいないわ。勿論、検体もね。他を探せば?」

 白々しい嘘をついた研修医に狙いを定め、引き金を弾こうとした。

 撃たれる前にモニカは、すぐさま懐に飛び込み拳銃を叩き落とした。床に落ちた拳銃を近くに居た吉田が掴んで、窓の外へ投げ捨てる。

 武器が使えなくなったと判るや否や、男は上着に隠したナイフを取り出し斬りかかった。突然のことに対応出来ずモニカの右上腕二頭筋の辺りを切り裂かれ、白衣の下から鮮血が飛び散る。怯んだ隙に頭部へナイフを突き立てようと振りかぶった。

 それを見た巧はさっきまで震えていたにも関わらず、ベッドの上に置いてある冷めたお粥を男性の顔面にぶつけた。

 視界を一時的に奪われて男はよろめく。その腹にモニカが間髪入れず蹴りを入れ、病室の外へ叩き出した。

「姉やん!」

 子供用の不審者撃退スタンガン(自主的に改造済)を投げて寄越す。受け取ったモニカは体勢を立て直す前に男の身体へ押し付ける。

 ばちっと痛そうな音が聞こえた。数秒間、沈黙した後にもう大丈夫よ、と扉の外から声がする。

 無事を確認するためベッドの上を見ると、巧はいつの間にか人を呼ぶためナースコールを押し続けていた。

 すごい。何や、このコンビネーション。三人とも息ぴったり。

 気が抜けて、床に女の子座りをしていた子供の耳に大勢の靴音が聞こえた。

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