第4話


 冬はあっという間に過ぎて行った。

 その間に巧は順調に元気になっていった。ようやく点滴の回数が減り、普通の食事をとるべく、ふにゃふにゃになったお粥から挑戦していた。

 最初、体調は良い時と悪い時が交互にあった。また時折、呼吸さえ困難な激しい発作に見舞われたが、吉田に手を握って貰うと徐々に回数が減っていった。順調に回復している様子を見て、もしかしたら異能の特定難病で快癒した初めての患者になるかもしれないと研究所の人々は浮足立っている。

 最近では身体の筋肉をつけるため、まずは立ちあがる練習から始めることになった。生まれてから一回も立ったことがなかったため、地面に足を付けることさえ一苦労だ。

 それもこれも全て吉田のように走り回ってみたいから頑張っている。

「えっ、そうなの?」

「うん。お兄ちゃんみたいに外行って走りたい。流れる景色を見てみたいんだ。」

 正直に胸の内を吐露する。吉田は手をもう一度、ぎゅっと握った。

「なんや、先に言ってくれれば協力したのに。」

 吉田はわざとらしく左右を確認して、病室の扉から廊下を覗く。そしてにやりと笑った。

 何だか変なことを思いついたようだ。

「なあ。今日は晴れているし、外に行ってみんか?」

「良いの?」

「今日は点滴終わってるし、大丈夫やろ。知らんけど。」

 そう言って、背中を向けてしゃがみ込む。巧は首を傾げた。吉田が何をやりたいのか。全く分からなかったからだ。

 焦れたのか、すぐに顎はここ、足はこっちと指示が出る。数秒後には吉田に背負われて、階段を駆け下りた。

 巧は生まれて初めて、大きな声を出した。顔に風が当たり、心臓がドキドキした。目に見えている景色がどんどん後ろへ流れていく。

 裏口から外へ出た時、視界に光が溢れた。眩しくて思わず目を瞑る。今日は快晴やでという声が聞こえて、そっと目を開けた。吉田は巧を裏庭のベンチに降ろす。

 木々の間から光が降り注ぎ、柔らかな風にのって甘い花の匂いがする。昨日雨が降った名残か茶色の土から、植物の葉っぱから雫がポトリと落ちた。空を見上げれば透き通る青空があり、西に傾きつつある太陽が元気に輝いていた。

 巧の人生で外へ出たことは一回も無い。調子の良い時に読む本でなんとなく知ったつもりになっていた。だが屋外とは、こんなに光に溢れて綺麗なものだったとは。太陽に照らされて研究所の建物から伸びている影でさえ新鮮だ。

「お兄ちゃん!あれ何?」

 指さす先には緑色の足が鋭角に曲がった緑の生物がいた。虫も見たことないの?と驚きながらも、その一つ一つに応えてくれる。

 あれはバッタ。これはコオロギ。こちらは毛虫。大きな銀杏の木や冬に咲く花の名前。鶏が好んで食べると言う雑草の種類まで教えてくれた。

 初めて触った土は湿っていた。ただ日差しがある場所だと色が変わって表面がボロボロとこぼれる。

 空気も新鮮だ。深呼吸をすると、光を吸い込んだような清々しい気分になった。

 太陽の光に当たっていると何だか気持ちまで暖かくなる。巧は瞳を輝かせて、それらを眺めていた。

「なあ、何で俺の事を兄ちゃんって言うんや?」

 脈絡もなく相手は切り出した。

 突然の質問に巧は困ってしまった。伝えたい言葉はあるけど、伝えて良いか判らない。同情されたいわけではない。しかし、そう解釈されてしまったら、どうしよう。今まで見たことのない新しい世界をくれる人間に嫌われたくなかった。

 じっと急かすようにこちらを見る吉田に折れて、必死に言葉を紡ぐ。

「あの…あのね。僕、家族いないでしょう?だから家族とか兄弟が欲しくて。えっと、もし嫌じゃなければ、その。変な言い方かもしれないけど本当の僕のお兄ちゃんになって!」

 絶対に言い回しが変だ。嘘でも本当のお兄ちゃんみたいに感じているとか言えば良かったのに。途中から思いきりおかしなことになっていた。駄目だ。全然上手く話せない。気持ち悪いって言われたら、どうしよう。

 言った後で、俯いてしまった。人とそんなに話さないから、これで伝わるのか判らない。

 不安で縮こまっている巧の頭上から、あっけらかんとした声がする。

「別に、ええよ。」

「えっ、本当に?」

「弟分は何人居ても構わんし。」

 弟分って何だろうと疑問に思った。だが絶対にこちらの気持ちが全然伝わっていないのは確かだ。

 ぶんぶんと首を振り回して、違うよと声を上げる。

「違う!本物の弟になりたい!」

「ええっ?無理やろ。だって俺、もう妹おる。そもそも血が繋がってないやん。」

「でも、お兄ちゃんの弟になりたい!」

 視界が涙で歪んだ。言うんじゃなかったと後悔した。一人では何にも出来ない自分があろうことか家族が欲しいなんて、おこがましかったに違いない。

「あ~もう。この程度で泣くな。ええよ。名づけ親で巧の兄貴な。しゃあないな。そうと決まったら特訓や。」

「特訓?」

「俺のおとんはな。せっかく人間に生まれたなら強い身体と心を持てって、いつも言ってる。」

 吉田は腕に力を入れて、力瘤を出した。日頃、野球で鍛えた自慢の身体だ。大人になったら、誰よりも強いアスリートになると決めているそうだ。

「俺の弟になりたいなら、まずは身体を鍛えるんや!ええか?」

 きらきらした笑顔を向けて、事もなげに彼は言った。

「うん。僕、強くなる!」

 お兄ちゃんに追いつきたい。一緒に走り回りたい。最近はずっとそんな事ばかり考えていた。自分の願いがより明確になった瞬間だった。身体を鍛え、今よりもずっと強くなる。そして生きることを諦めかけていた自分をどん底から救いあげてくれた、この人の役に立つ。

 だって初めてだったんだ。手を握って笑いかけてくれて、痛みと苦しさをとってくれるなんて。

 まずはちゃんと食べて、誰の補助も無く歩けるようにしなければいけない。涙を拭きながら巧は強く心に誓った。

「よっし。目指せ、ムキムキ!」

「ムキムキ!」

 単語の意味を、よく分からずに片腕を上げて復唱した。その様子がおかしかったのか、隣で笑い声が弾ける。巧もつられて笑った。

 幸せだ。数か月前の自分が見たら、泣いて羨ましがるだろう。暖かい日差しの中で兄と笑い合えるなんて。

 しかし楽しい時間は長く続かなかった。

「こら、早く戻りなさい!」

 室内から怒号が飛んだ。見つかってしまったようだ。すぐに鬼の形相になった大人達に囲まれてしまう。

「外は雑菌だらけなんだ。まだ抵抗力のない身体で土に触るなんて。何を考えているんだ!」

「えっ~。だって巧が外に行きたいって言ったから。俺、全然悪くない。」

 あれ?そうだったっけと思った。走ってみたいとは言ったけど、外へ出たいなんて一言も言っていない。

混乱している内に、どんどん話は進んで行く。吉田は何とか責任をこちらに押し付けようとするが巧の代わりに滅茶苦茶怒られている。

 先生達の中に精神感応者の異能がいたようだ。動く嘘発見器は一番偉い先生にヒソヒソと耳打ちをしている。何だか感じが悪い。

 胸の辺りがムカムカした。折角の楽しい時間が無遠慮に踏みにじられた。頭がクラクラする。足をふらつかせながら、怒りに任せて立ち上がった。

「お兄ちゃんをいじめるな!僕がお願いしたんだ。いつも部屋に居て気が滅入っている僕を連れ出してくれた。お兄ちゃんは悪くない!」

「おう。言ったれ、言ったれ!流石、俺の弟や!」

 無責任に囃し立ててはいるが、ふらつく巧の背中をそっと支えた。それだけで、どんどん体調が良くなってくる。更に弟と認められたことで、巧は舞い上がった。

 そんな二人の様子に困惑した大人達は、とりあえず中へ戻るように言った。立ち続けるのが困難だったので渋々室内へ戻ることになった。

 二人はそれぞれ別室に連れて行かれる。巧は除菌の上、すぐさまベッドへ逆戻りだ。意外と疲れていたのか、身体を横たえると、いつも以上に重力を感じた。一方、吉田はモニカさんがやってきて、二時間懇々と説教したらしい。

 そうこうしている内に夕方になり吉田の母親が迎えに来た。今日はもう会えないと落ち込んでいると大人たちの目を盗み、病室に吉田が姿を現す。

「ちゃんと病気治ったら、また外行こうな。」

 懲りずに耳打ちした。うんと、笑って互いの拳と拳を合わせた。

 この人と一緒にいると世界が広がる。本人は自覚がないけれど予想も出来ない未来と勇気をくれる。

 今日の外の景色を瞼の裏に思い浮かべて、巧は掛け布団を肩まで引っ張った。


 今は思うように動かない身体だが今日より明日。明日より明後日、必ず前に進むことを信じている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る