第13話 岩瀬さんの告白

「いやー、いつ見てもさびれた漁港だよね」


 片岡君の声は呑気なようで、この場を和ませている。本当はいつも、こうやって気を使っているのかもしれない。考えたこともなかった。


「寒くない?ごめんね、いきなり連れ出しちゃってさ」


「大丈夫だよ、ありがとう」


 大泣きしてる声、流石に聴こえてないよね……この期に及んで私はまだ、自分の心配をしている。岩瀬さんが自販機から無糖の缶コーヒーを三つ抱えて戻ってきた。


「ん」


 無言で手渡された缶コーヒーを受け取った。息が白くなるこの夜空の下、とても温かい。


「お金は……」

「いいの」

「え?」

「いいの」


 岩瀬さんはむすっとした顔で言い切った。


「私のコーヒーを買ったついでだから。別に気にしなくていいよ」


「岩瀬さん、もう少し素直になれよ」


「うるせえ、片岡」


 岩瀬さんはそのまま座り込んでコーヒーのプルトップを開けた。


 しばらく三人で黙って缶コーヒーを飲んでいた。


 私もお礼を言わなきゃ。まずは謝らなきゃだ……そう迷っていると、岩瀬さんがぽつりと呟いた。


「私のお兄ちゃんね、高校で駅伝チームに入ってたんだ」


 私は黙ってうなずいた。片岡君はデニムのチャックが開いていたらしく、慌てて閉めている。


「地元では強くてさ、お兄ちゃんは地域選抜でアンカーの一つ前だった」


 岩瀬さんは、他県から単身でここに来たと言っていた。心なしか声が震えているのは、寒さのせいだけではないはずだ。


「そしたらさ、ちょうど3.11の大震災になって。その直後の大会の時は町じゃ大騒ぎだった。『町民の皆の分まで絆を込めて』とか『故郷の明日は彼らに懸かっている』みたいな見出しを地元紙がじゃんじゃんつけたんだよ。『東北の走れないライバルの無念を晴らせ!』って。確かに北関東だから近いけどさ。言い方難しいけど関係ないじゃん。走ってもない人の明日が、何で一地域の学生駅伝チームに懸かってるわけ?自分で走れよ!私ね、『サポーターは十何番目の戦士』って言葉大嫌いなんだ。自分は何もしないくせに、戦っている人に勝手に自分を重ね合わせて熱くなるなんて馬鹿みたい」


 返事をしようとして、思わず驚いてしまった。あの岩瀬さんの目が潤んでいる。


「他のメンバーからしたらそりゃプレッシャーだよね。復興は大切だけど、本来は関係ないことを被せられてさ。お兄ちゃん、ちょっと真面目過ぎるところがあったから大会が近くなったら夜中に吐いたりしてた。毎日じゃないから余計辛かった。苦しそうにげいげい吐く声が聴こえると、ああ、今、苦しいんだなって。私は毛布にくるまって聴こえないようにしているだけだった。何もしてあげられなかった」


 缶コーヒーを飲み干すと、岩瀬さんは息を吸い込んで、もう一度声を出した。


「大会本番はさ、もうボロボロだよ。皆動きが硬かったから、自分で挽回しようとして、お兄ちゃん、途中で倒れちゃった」


 岩瀬さんの頬には、涙が少し頬を伝っていた。


「そしたら皆、うちの家族は村八分だよ。やる気がなかったんじゃないかとか、あの子は繁華街を歩いてたとか、あることないこと言いたい放題」


「うん」


 私はそういうのが精いっぱいだった。


「お兄ちゃんは学校に通えなくなって、退学した。高認試験通って、今ようやく大学通ってるんだ。もちろん、あんな町から遠く離れた東京のだよ。それで、母校の校長に報告したらなんて言ったと思う?」


 首を横に振ると、岩瀬さんは下を向いた。


「君も随分遠回りしたねえ。駅伝で逃げる人は人生向いてないよ」

「酷い……」

「酷いとも思わなくなった。今はもう何も感じない」


 岩瀬さんはふっと苦笑いした。


「強くならなきゃいけない人っているんだよ。っていうか、だれにも頼れない人が殆どなんだ。人はすぐ、自分に都合のいい物語を作り始める。それも皆で口裏を合わせて。だけどね、大多数の人が気持ち良くなれるおとぎ話に全員が出演しなきゃいけないなんて、そんな規則はどこにも存在しないんだよ」


 岩瀬さんはボロボロ泣いていた。


「だから私は、気を強く持って生きる。『難あり』だと思ったものには、躊躇なくシールを貼る。だって甘えだもん。難があったってそれを表に出して許してもらおうなんてズルいよ」


 岩瀬さんが何度も深呼吸をしたから、私は何度も背中をさすった。


「私のやっていることが感じの悪いことも、人を傷つけているのも知ってる。職場の皆に腫れ物みたいに扱われていることも」


 でもね、と岩瀬さんは言った。


「でもね、そうしないと生きていけない。私は自然体でいられなかった。過去も引きずってる。それが全部言い訳だっていうこともわかってる。だからって背中を丸めてうずくまってぶるぶる震えていても誰も助けてなんてくれなかった」


 片岡君も、岩瀬さんがここまで気持ちを出すとは思わなかったらしい。何と声をかけていいかわからないらしく、飲み干して冷たくなったであろうコーヒーの缶と、私たちを交互に見ていた。


「丸山君に事情があるのも分かる。綾瀬さんが何か辛いこと抱えてるのかなあって、それも感じる。私とおんなじ影が見えたから。でもさ……でも……」


「大丈夫」


 私はそう言った。


「もうこれ以上話さなくて大丈夫。ごめんね。私は、自分の傷を見せびらかせて気を使わせていたね。でも、この話を言葉にしてしまうと、大切なものが消えてしまう気がする。だから、今は岩瀬さんの気持ちが十分嬉しいよ。ありがとう……ごめんね」


 岩瀬さんは身体を折りたたんで、うーっ!と叫んだ後、顔を上げた。髪は乱れて、目も晴れて、顔は涙と鼻水だらけだった。でも、いつもの何もかもを胸の奥に押し込めたような表情をしていた。


「ごめん」


 岩瀬さんはいつもに近い声で言った。


「この話すると、今でもこうなっちゃうんだ。でも、きちんと話しておきたかったから」


「魂の叫びだね」


 片岡君が言うと、岩瀬さんが吹き出した。


「悪うございましたね」

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