第10話 私の知らなかった航
夜中、喉が渇いて部屋を出る。リビングに入ろうとすると、お父さんがやってきて私を制した。
「何?」
不機嫌を隠し切れない私を見て、お父さんは人差し指を唇にかざした。
「僕とお母さんの部屋で少し話そう」
不満はあったけれど、リビングに小さな明かりが灯っていることもあってしぶしぶ黙ってついていった。でも、こんな時間に誰だろう。
スマホを見るとAM2:00だ。航かな。深夜アニメを見ているのかな。でももう、あの子スマホあるよね。
両親の寝室に行くと、美和さんが笑顔でベッドに座っていた。寝室に来たことは、なんだか生々しくて気が進まなかった。私は美和さんの隣を勧められた。私はお父さんのベッドに座った。
「実はね。この時間は航がリビングを使っているの」
真意が掴めず曖昧に頷くと、お父さんが補足した。
「航君、深夜の2時から3時まで、いつも書道の練習しているんだ」
「書道……」
「航君は書道で毎年、金賞取ってるんだ。それで、こっそり練習しているんだよ」
思いもがけぬ真相に私が口を半開きにしていると、美和さんが苦笑する。
「何かね、航が1年生の頃にたまたまちょっとした偶然で、硬筆で銅賞を取ったの。まだ勇樹さんと瞳ちゃんに会う前のことね。私はその頃、離婚して2年経っていて、航のことが心配だったから大袈裟に喜んだの。『ママ、嬉しい!航ちゃんすごい』って。そうしたらそれ以来『友達と遊んでくる』って私には言ってたけれど、公民館で練習してたのよ。あの子、本当はそんなに器用じゃないのに、一生懸命練習してるんだ」
「器用じゃない?航が?」
私がそう言うと、お父さんがこちらを見る。
「僕もそのことを知らなくてね、リビングで鉢合わせしたことがあるんだ」
その時、航はお父さんにこう言ったという。
「母や姉貴には内緒にしてくれませんか?」
なぜ?そう問うた父に航は、笑顔で話した。
「頑張らないと上手に書けないってこと、本当は誰にも知られたくないんです」
胸がギュッと切なくなった。いつまでも美和さんに意味もなくイライラして、黙ってご飯を食べる私の横で、軽薄なくらい明るい冗談で父と笑い、私に構って話を振り、おかわりをする航が本当は食が細いことくらいは知っている。
ずっと一緒にいるんだから。
私は、自分だけが不器用で、不幸で、生きづらいと思っていた。
「だからさ、このことは……」
そう話す父を右手で制して、私は言った。
「お父さんの言うとおりだった」
私はようやく、この部屋に入って笑顔になれた。
「航のいいところ、いっぱい見習っていきたいな」
お父さんと美和さんは笑顔で顔を見合わせた。お父さんが見ている人が、昔のお母さんじゃないことはやっぱり悲しい。悲しい、でも。
「教えてくれてありがとう、お父さん……」
二の句を告げずにいる私に美和さんは微笑んだ。
「大丈夫。心の中から出た声をこの家では大切にして」
この人は強い人だ。本当の意味で。そのことに私は気づこうともしなかった。
すると一階から勢いよく階段を駆け上がる音がした。
「ママ!どうした?何かあった?」
航の表情は、真剣そのものだった。
「ママと瞳が仲良くなれたのがうれしかったんだってさ」
そう笑う父を見て、ホッとした表情を見せる小学6年生の男の子らしい横顔を私はずっと忘れないだろうと思った。
そうだ、王子にも私から想いを伝えよう。本のタイトルじゃなくて、心から出た想いを。ママ、疲れてない?本当に大丈夫?心配そうに聞く少年の声を頭に響かせながら、そう思った。
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