第5話 「見て見ぬふり」と「四面楚歌」

 家に帰ると航は書き初めをしていた。半紙にでっかく達筆な字で「見て見ぬふり」と書かれていたので、何やってんのよ、と聞いた。

 航は、今年の宿題は座右の銘なんだ、と答えてからカルピスソーダを飲み干した。


「見て見ぬふり」


 この言葉が、ガラスの破片のように胸を突き刺す。同調してくれる人はいる。同じ噂に加われる人もいる。でも、誠実さなんてどこにもない。


 本当の両親が打ち解けたのは職場でビリー・ジョエルというアメリカの歌手の話で盛り上がったからだという。


 ビリーの歌で『オネスティ』という歌がある。オネスティ。直訳すれば「誠実」。


Honesty is such a lonely word.


Everyone is so untrue.


 母が私に貸してくれた訳詩集には確か、こう訳されていた。


「誠実って、なんて寂しい言葉だろう」


「誰もが心無い世の中で」


 今にして思えば、かなり意訳だったんだと気づく。でも、正確な言葉に加えて、母の面影もだんだんと薄れていく。もう10年近く会っていないのだ。当たり前だ、当たり前だけれど……。


 その先を言っても何にもならない。そう知っているから、シャワーを浴びた。


 一日の疲れを流していると、ふいに母親の言葉が浮かぶ。


「ビリーのベスト盤で『オネスティ』が収録されているのは日本向けだけなのよ」


 そう嬉しそうに話す顔が急にはっきりと浮かんで、なんだか切ない。


 その訳詩集をお母さんが肌身離さないまま実家に持ち帰ったこと。それは今でも忘れられない。



 頭を乾かしていると、航が部屋をノックした。


「入っていい?」


「うん」


 つるんとした卵顔にスベスベの肌。くりっとした目は同級生の女子からきっと構われるだろう。


「やっぱ、「見て見ぬふり」はやめるわ。なんかあてつけがましいし」


 そう言って新しく書いた半紙を見せてきた。


「四面楚歌」


 画数の多い四文字熟語だけれど、書道のお手本そのものの書体だった。私はため息をついた。


「直にあんたがそうなるよ」

「俺、結構人気者だよ」

習字道具を片付けさっさと出て行った。


 うん、知ってる。そういうこと書いて許されるの、人気者だけだよね。今の私にこんなこと、書けない。昔だって書けなかった。

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