序 離縁は認めない。君が泣いて許しを乞おうとも
『間違っても、二階堂家の令嬢が呼ばれてもいい蔑称じゃないわ。そのせいでお父様はカンカンよ? お前の取り柄はその異能しかないのに、たった一度でさえ、あやかしを誑かすこともできないなんて、なんのための異能なのか! って……。たいそう嘆かれていたわ』
姉は額に手を当て、『はあ〜っ』とあからさまにため息をつく。
そして困ったように眉を下げ、まるで出来損ないの妹へ仕方なく手を差し伸べるかのように、渋々のていで言ったのだ。
『あなたの代わりに、わたくしが公爵夫人になるわ。旦那様が戻ったら、あなたから離縁を申し出しなさい。可愛い妹の尻拭いは、しっかり者の姉がしなくちゃね』
背筋に冷たいものがつたう。
(――ああ。わたしが役立たずだから、また見捨てられたのだ)
そう思った瞬間、ぷつんと、三年間ずっと張り詰めていた決意の糸が切れた音がした。
あの日から随分と考えた。
だが、辿り着く答えはいつも同じだった。
(政略結婚で自分がここへ来た意味すらもうないのだとしたら、役立たずの〝捨てられた花嫁〟がこの屋敷にいたって、仕方ないもの)
公爵である旦那様の隣には、彼が式典や社交界に連れ出したくなるような立派な妻が立つのが相応しいだろう。
(わたしなんかより、もっと良い人がいるはず。そう、先ほどまでこの屋敷にいたお姉様のような……)
危険な異能を持つ自分は女学校にも通えなかったが、姉は帝都でも有名な女学校を出ている。
誰が見ても美人で、貴族の令嬢としてのマナーも完璧、そして公爵夫人にふさわしい学歴もあるあの姉を前にして、自分が離縁しない理由を見つける方が難しかった。
だから寧々は、夫である青年を――長年続いていた隣国との戦が終戦し、突如として帰還することになった
「…………それは自分の意思か?」
広間に染み入るように響いたのは、思わず背筋が凍りついてしまうほど冷たく、無感情な声だった。
はっと、寧々は弾かれたように思わず顔を上げる。
すると、美しい青年の冷たい眼差しと、視線がかちあった。
黒檀の執務机を挟んで上座に座っていたこの屋敷の主人は、華やかな徽章や勲章が掲げられた詰襟の軍服姿で、寧々を見下ろしている。
艶やかに整えられた墨を溢したような黒髪に、吸い込まれそうなほど透き通った真紅の瞳。
魔性の瞳とはまさに彼の双眸のことを言うのだろう。
寧々が見たことのない色をした真紅の瞳は、彼があやかしであると如実に表している。
最たるはその絶世の美貌だろう。
長いまつげに縁取られた二重瞼の目元は鋭く、すっと通った高い鼻梁に形のいい唇という端麗な美貌は、威圧的ながらも、老若男女を惑わせる色気を放っていた。
「四凶と呼ばれる俺に怖気づいたか?」
氷のごとき無表情だった彼の唇がわずかに弧を描く。
「………い、いいえ……………」
「取り繕わなくていい。震えているのはわかっている。……だが」
そう前置きを口にすると……――彼は睦言でも紡ぐかのように、至極甘やかに目を細めて、寧々を見下ろす。
そして告げた。
「離縁は認めない。君が泣いて許しを乞おうとも」
結婚してから初めて顔を合わせた、三年目の春――。
冷酷無慈悲な旦那様は、寧々の申し出に頑なに頷こうとはしなかった。
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