第3話
目が覚めると、学校へ行く予定の時間から大きく過ぎていた。慌てて飛び起きて身支度を済ませ、箱庭をランドセルに詰め込むと、リビングへと急いだ。
「ママぁ、なんで起こしてくれなかったの?」
「あ、ごめんね、モーちゃん。気持ちよさそうに寝てたから」
「コイツ朝苦手だからな、しつこいくらい起こしてやらないとダメなんだよ」
エプロンをつけた女の人が、パパに朝食を出しながらわたしに謝ってきた。パパは読んでいた新聞を畳みながら笑っている。
「ね、パパ……この人、誰?」
「何言ってるんだ、寝ぼけてるのか? オマエはママの顔を忘れたのかよ」
ママ……この人が?
どういうことだろう。わたしのママはまだ箱庭にいる、その人だ。それ以外にいないはずだ。
「どうしたの? お顔が真っ青よ。学校休む?」
「だ、大丈夫、です。いってき、ます」
朝ごはん食べないのー? という知らないママの質問には答えず、家を飛び出して走り出した。
どういうことなのだろう。パパは昔からあのママだったかのように話していた。箱庭に入ったことで、ママの存在が消え、別人のママに置き換わったということだろうか。ママが箱庭から戻ってきたらどうなるのだろう。元に戻るのだろうか。
そもそも、箱庭に入ったものの戻し方はあるのだろうか。それを試してみなくてはならない。
学校に行く前に誰もいない公園に寄って、ランドセルから箱庭を取り出し、箱庭のわたしの家で相変わらず吞気に掃除をしているママをつまみ出した。
「こちらにおいで! 元に戻れ! 帰ってきて!」
わたしの指先でなんの抵抗もせずだらりとしたママは、箱庭の見えない天井にぶつかっているかのように、頭が何度もガツンガツンとぶつかっている。
何を言っても、何をしても、帰ってこなかった。
今は何か、悪い夢でも見ているのだろうか。頬をつまんでみたが、ジンと痛くなるだけだ。
ママがいなくなってしまった。胸に開いた大きな穴に冷たい風が吹き込み、冷たさに震え始める。現実をじわじわと実感し始めた。だけど、涙は流れなかった。
同時に思ったのだ。
ママに怒られない朝なんて初めてだ。わたしの知らないママは、あんなにわたしを気遣ってくれた。
そういえばクラスの中にも、途中で苗字が変わった子がいた。不思議に思って聞いてみると、お母さんと別々に暮らすことになり、この先ずっと会うことができないのだという。その子は決して悲しそうではなかった。むしろその逆のように思えた。
案外、そういうものなのかもしれない。ママは出て行って、新しいママが来たのだ。ただ、それだけの話だ。
つまんでいたママを箱庭に戻した。家の外に放り出されたママは、何事もなく買い物袋を持って出かけて行く。
その様子をぼんやりと眺めていると、学校のチャイムが聞こえてきた。わたしは急いで箱庭に蓋をしてランドセルに押し込むと、学校に向かった。
わたしが教室に着いたときには、既に算数の授業が始まっていた。
遅刻を怒られるかと思っていたが、わたしが席につくなり、体調悪いなら保健室行っていいんだからな、と先生が耳打ちしてきた。
恐らく、新ママが事前に学校に連絡を入れてくれたのだろう。前のママとは大違いだ。
それからちょっとして、後ろの席にいるちぃちゃんから手紙が回ってきた。
『遅刻なんてめずらしいね。寝ぼう?』
『ねぼうしちゃった』
『ママに起こしてもらえなかったんだ』
『気持ちよさそうにねてたからそのままにしちゃった、だってさ』
『面白いね。モーちゃんママって、不思議っ子って感じでうらやましい』
授業をほぼ聞き流して、ちぃちゃんと当たり障りない会話に没頭することにした。
『ねえ、モーちゃんに言っとかないといけないことあるんだけど』
くだらないやり取りを続けていたら、ちぃちゃんから急にこんな手紙が回ってきた。さっきまでの走り書きのような文字ではなく、どこか堅苦しい印象の文字に変わった。なんだか嫌な予感がする。
『なになに?』
『手紙よりも、後で口で伝えた方がいいかも』
それ以上突っ込まない方がいい気がして、分かった、と返事を送って、この会話は終わった。一体なんだろうか。
しかし、算数の授業が終わった後中休みが来て、昼休みが来て、遂には放課後になっても、ちぃちゃんから話が切り出されることはなかった。
今日は塾があったので、その休み時間には話があるだろうと思っていたが、結局ちぃちゃんから呼び出されたのは、塾が終わってからだった。
ちぃちゃんのパパが迎えに来る時間までに話してしまおうと言って、塾があるビルの裏に呼ばれた。
「話ってなに?」
ここまで来ても、ちぃちゃんがまだ話しにくそうにしていたので、わたしから切り出すことにした。
「……えっと、実は――」
もしかしてちぃちゃんも、箱庭について何か知っているのではないか。胸が早鐘を打って落ち着かなかった。
「イワタのこと、なんだけどさ」
思わぬ話題に、わたしは思わずホッと胸を撫で下ろした。
「イワタが、どうかしたの?」
「今、イワタが学校来てないの、マズいかもなって思い始めたんだよね。学校が心配してイワタに連絡したときにチクっちゃうんじゃないかって、毎日心配でさ」
「なんでそんなこと急に気になりだしたの? これまで一言も言ってなかったじゃん」
「だってイワタが――」
ちぃちゃんがそう言いかけて尻すぼみになり、何も言わなくなってしまった。
「イワタが、なに? イワタの言うこと、先生が信じるわけないじゃん。だいじょ――」
「でもさ」
普段のちぃちゃんにしては珍しく、声を荒げてわたしの声を遮った。
「もし……もしもイワタがチクって、先生にバレたらさ……ウチら終わりだよ?」
「終わりって何が?」
「受験だよ。頑張って合格しても、このこと伝わったらマズいでしょ。さすがにモーちゃんでも分かるよね?」
さすがに分かるよねって何だ。
ちぃちゃんはわたしのこと、バカにしていたのか。結局コイツは、わたしのことを下に見ていたのか。以前はそう感じなかった。
みんなでバカやって、ゲラゲラ笑ってたじゃないか――みんな? わたしたちは、二人だけじゃないか。
「とにかく、ウチらがしてきたこと、先生に言おうかと思ってる。前から違和感あったんだよ。やっぱり良くなかったかなって」
あんな楽しそうにしてたクセに。何を今更いい子ちゃんぶってるんだ? 自分だけ逃げるために、友達を売ろうとしてる。
こんなヤツなんて――
「アンタなんか、もう友だちじゃない」
わたしはカバンから取り出したものを、ちぃちゃんの前に突き付けた。
「ちぃちゃん、こちらにおいで!」
そう叫ぶと、ちぃちゃんは悲鳴を上げながら小さくなり、突きつけた箱庭へと吸い込まれていった。
それから近くに捨てられていたゴミ袋の数々やそれに群がるカラスたち向けて、箱庭を突きつけた。
「こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで、こちらにおいで……」
目に見えるもの全て吸い込み終わったとき、わたしの後頭部に鈍い痛みを感じ、アスファルトの上に倒れ込んだ。視界がぼやけていく中で、バットらしきものを持つ人影が見えた。
「あなたが持ってたんだ、わたしの箱庭。拾ってくれてありがとう。おかげで手間が省けたよ」
イワタの声がした。箱庭を拾い上げながらまだ何か喋っていたようだが、意識はどんどん遠ざかり、暗闇の中へと沈んでいった。
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