第3話 『白瀬彩芽 上』

「どうしたんだよ、随分ぼぉっとしてるじゃんか」

「あァ、うん・・・」


 コンビニの駐車場でホットスナックを齧りながら隣の少年に相槌をうつ。日に焼けた背の高い少年で、確かサッカー部、の幽霊部員だった筈だ。


(確か、小野塚だったか)


 下の名前を思い出そうとして、上手く行かなかった。


 何せ、十七年も前の記憶だ。


 駅までの帰り道を並んで歩く。一つ一つ思い出す様に、通りかかる家屋やさして美味しくない中華料理屋、埃を被ったスナックを視界に収めていく。


「おい、マジで具合悪いんか?」

「イ、いや、そうじゃないんダ」

「なんか喋り方もおかしいしよ。本当に具合でも悪いんじゃないか?」


 連合軍の公用語は英語だったから、入隊して真っ先に仕込まれたのは簡単な英語の聞き取りと『Yes,sir』の返事だった。お陰で咄嗟に日本語が出てこないし、気をつけていないと発音もおかしくなる。


 もしかして、今までの全てが夢だったのだろうかとも思ったが、英語の授業は普通に聞き取れたし、教師がおかした表現上の間違いにも直ぐに気づく事が出来た。学生時代は英語なんて吐き気がするほど嫌いで授業なんて碌に聞いていなかったと言うのに。


「じゃあ俺、塾寄って帰るから」

「ウん、分かっタ。また明日」

「おうっ、お前が風邪ひいて休んでなかったらなっ!」


 駅前の繁華街で小野塚と別れる。雑踏に消えていく。


 信じられない思いだった。目の前にはアーマロイドに焼かれ、瓦礫と化していた街並みが平和な頃の姿のままそこにあった。


 恐る恐る電車に乗る。乗り方と路線は辛うじて覚えていたが、むしろ最寄駅に降りてからの方が迷った。思い違いをしていたのか、記憶の中で簡略化されていた実家への道筋は、実際に歩いてみると倍近くあった。


 家の前に着く。二時間近く経ってしまったから日は既に落ちていて、街灯に明かりがついている。母も妹も既に帰宅しているだろう。もしかしたら父も帰っているかもしれない。少し怖かった。写真も持ち出せなかったから、家族の顔も碌に覚えていないのだ。知らない顔が、家で自分の帰りを待っている。


「・・・ただいま」


 リビングの方で「お帰り」と声がした。妹の靴がある。ああ、父の革靴も。暗い廊下の向こう、開きっぱなしのリビングの扉から明かりがこぼれていた。


「遅かったわね。あんた、夕飯は?」

「・・・いヤ、まだだけド」


 妹の詩織は折りたたみ式の携帯に向き合って何かしていた。メールだろうか。


「おう、今日はご馳走だぞ」


 スーツのままの父がソファでふんぞり返りながら手を挙げた。


(ああ、こんな顔してたっけ)


「何か、良い事、あっタの?」

「何って、そりゃお前の誕生日だろうが」


 父は飽きれた様子で言った。指さしたリビングのカレンダーには、四月十六日に『お兄ちゃん誕生日!』と赤く丸で囲われていた。


「今日は”HIROSHI”予約してあるから」


 ”HIROSHI”とは父のお気に入りの洋食屋でミシュランでも紹介されている。何か祝い事がある度にその店に食べに行くのが櫻井家の習慣だった。


(そうか、今日が俺の)


 十七歳の誕生日だった。




 さほど広くない洋食屋のテーブル席で食後のデザートを口に運びながら考える。自分が好きだったクラスメイトはどんな娘だっただろうか。同じ教室に居た筈ではあるが、どうにも確信が持てなかった。


 十七年も経てば好きだった女の子の記憶すら薄れる。そういう事なのだろう。


 母がパート先の同僚の悪口を言っている。妹が付き合っている彼氏について聞かれると、不機嫌そうに口を尖らせる。そう言えば中学の頃から付き合っている同級生がいた事を思い出す。


 当時は恋愛経験皆無の兄が妹に先を越されたと言う状況に複雑な思いを抱いていたのだが、穏やかな気持ちで話を聞いていられた。


 いや、今となっても碌な経験はないのだが。


「そろそろ帰るか」


 ジョッキを空けた父が財布から札を取り出すと伝票と一緒に妹に渡す。


「よろしく」

「なんであたしが」

「お釣りはお小遣い」


 すくっと立ち上がって小走りにレジに向かう。


「ちょっと、あんまりあげないでよ?」

「良いじゃんか。女の子なんだから色々入り用だろ」


 両親の会話を聞きながら食後の珈琲を啜る。


 しかし、しばらく経っても妹は戻って来なかった。父が顎でしゃくり見てくる様に指示する。


「俺にモ、後でお小遣いネ」


 父が目を丸めた後に苦笑する。恐らく本当に十代半ばだった頃のソーヤであればもう少し反抗的な態度をとっていただろうし、こんな気の利いた台詞も吐けなかっただろう。 


 小さなレジに向かうと妹がと言うよりも、その前の客がトラブっている様だった。大柄な黒人男性でパーカーにジーンズと言うラフな格好だったが、洋服越しでも恐ろしく鍛え上げられた身体つきをしているのが分かった。


 レジで伝票を握り締めた女子大生と思しきアルバイトが泣きそうになっていた。だが、男の方も困り果てた様子でオロオロと周囲に視線をはしらせる。


「…Can you speak English?」


 妹は勢いよく首を左右に振った。続けて視線を向けられたソーヤは溜息を吐いて聞いた。


「Anything wrong with you?」

(何か問題でもあったのか?)


 男はホッとした様子で息を吐いて言った。


「あぁ、日本ではチップはどの様に支払ったら良いのか分からなくて」

「日本ではチップの文化はないよ」

「それは分かっているが、良くしてくれたので渡したいなと思って」


 オーダーくらいは身振り手振りでどうにかなったのだろう。会計も伝票を渡すだけだ。慣れない異国の地で腹を満たされた男が気を良くして、チップを渡そうとしたところでアルバイトの女子大生の英語力が限界を迎えたのだろう。


「おい、あんタ」

「はっ、はいっ」

「彼はチップを渡したいそうダ。丁寧に接客してくれたかラ、その礼」


 そう言って男に頷くと男は恐る恐るピカピカの五百円を差し出して、アルバイトもそれを恐る恐る受け取った。


「セ、センキュー」


 男は胸を撫で下ろした様子で早口に言った。


「ありがとう、本当に助かったよ。変に格好をつけるべきではないな。やはり郷に入れば郷に従えだ」

「良いんじゃないか?渡されて嫌なもんでもないだろうし」

「それもそうだな。とにかく助かった。”ありがとう”」


 最後のありがとうは日本語だった。辿々しい、きっとそれしか覚えていないだろう単語を残して男は店を去った。


 背で妹がボソリと言った。


「お兄ちゃんカッケー」





 一週間が経った。


 朝のホームルームの時間、教卓の前に立った担任の平井が「もうすぐゴールデンウイークに入るわけだが」と切り出す。


「休みを明けたらすぐに中間テストが始まるからな。遊んでばっかいないでちゃんと勉強をしておく様に」


 真面目に聞いている生徒なんて碌にいなかった。ソーヤの通っている都立浅浦高校はそこそこ偏差値の高い学校だったが、自主性を重んじるという名目で生徒の生活指導はあまり熱心ではなかった。


 勉強をする者は勝手にするだろうし、しない者は言ってもやらないからだそうだ。


 ソーヤも勉強は全く身に入らなかった。きっと今の自分は夢を見ていて、走馬灯の様なものが見せている幻覚がいつ崩れるのかを身構えて待っていたからだ。しかし、一週間たってもその時は訪れず、寝て起きてを繰り返しても変わらず自室のベッドで目を覚ます日々を繰り返していた。


 いよいよ信じざる得ないのかもしれない。目の前の光景が夢なんかではない事を。


「それと、うちのクラスに転校生が入る事になった」


 クラスのざわめきが大きくなる。知っている者もいたのだろう。そう言えば今日は朝から随分と騒がしかった。しかし、ソーヤは別の意味で驚いていた。高校時代の記憶の中には転校生なんてこれっぽっちも存在しなかったからだ。


(どういう事だ?俺が忘れているだけか?)


「入ってきて」


 横開きのドアが開き、浅浦高校の制服であるセーラー服に身を包んだ女子生徒が入ってくる。黒く艶やかな髪が腰のあたりまで伸びて、緩く赤いリボンで結ばれている。白磁の様な細面には整っているものの溌溂とした、どこか少年じみた明るさがあった。


「白瀬彩芽って言います。中学の途中まで浅浦西に通ってたので知っている人もいると思うけど、今日からよろしくお願いいたしますっ!」

「白瀬はお父さんの都合でアメリカに住んでいたそうだが、英語はペラペラだろうからみんな勉強は教えてもらうと良いぞ」

「ちょ、ちょっと、先生」


 和んだ空気が流れる中で、ソーヤは背筋を凍らせていた。


(な、何がっ、何で奴がこんなところに)


 白瀬彩芽と名乗る少女は、十八年後の最後の戦いで裏切った仲間と共に自身を追い詰めた指揮官ユニット、アーマロイドのそれと酷似していた。

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