おせんしてぶみっどないと

猫煮

インターミッションのこと

 学生寮の一室。暗い部屋の中で、月明かり以外の全てが一糸まとわぬ二人を覆い隠す。


 目を覚ませば、逢瀬の余韻を身体に残したまま、朦朧とした私の意識がどちらのものとも判らぬ熱い息を拾っている。


 絡み合った互いの手からは片割れの熱が交換され、その喜びを吐息で返答し合うようだ。


 枕元に置いた時計を見れば、時は子の一つを回った頃。日付の変わる前に、組み敷いた少女を部屋に帰してやらねばと体を起こす。


 名残惜しく思いながら手を解くと、未練がましく薬指が最後まで絡まる。それを滑稽に思いながら、蛹のように眠る彼女を起こさぬよう、ゆっくりと指を抜く。最後に肌が離れた瞬間、彼女の体が軽く痙攣すると、そのガーネットの色を透かした茶色い瞳がまぶたの下から覗いた。


「起こしてしまったかしら」


 そう問いかけると、彼女は夢現にも私を認めたのか、相好を崩す。


「ああ、先輩。ごめんなさい、眠ってしまって」


 へにゃり、と申し訳無さそうに笑う彼女。いいのよ、と言って癖の付いたその栗色の髪を右手の甲で撫でると、子猫が親猫に甘えるように頬を擦り寄せる。


「エミちゃん、見えちゃうわよ」


 彼女の白い肌を滑った毛布が、低い背丈相応の小ぶりな双丘の頂点へと向かうのを慌てて引き寄せる彼女、エミ。


 エミと出会ったのは、私も生徒として籍を置く全寮制のミッション系女子校に、彼女が入学してから半月ほどのことだったろうか。教会堂を清める道具の種々を探して迷っているところに通りがかり、助けたのが始まりである。


 打算があってしたわけでもなし、良いこととも悪いこととも思わずにおこなったことだったが、名も知らぬ女を人伝に突き止めたのか、二日後に心遣いの品を携えて現れたのには驚いた。もっとも、その品が購買に売られる少し上等な焼き菓子一つというのは可愛らしかったが。


 それから、この子犬のような後輩は私になついてしまったのか、私が副部長を務める手芸部に入部し、寮の食事も時間を合わせるようになった。


 そんなエミにいつしか私もほだされ、構うようになる。そのうちに彼女の目には情欲の色が映るようになっていたのを私は気が付かずにいた。


 過去を思い返しながらエミの顔を見つめていると、視線に浮かされたのか、彼女は小首をかしげる。その動作が言外に、何をしているのかと問うているようで、苦笑しながら頭を撫でた。


「あなたに告白された時のことまでを思い出していたの」


 それを聞いたエミは頬を赤らめると、小さくなって目をそらす。子犬になったり、子猫になったりと思えば、次は天竺鼠のようである。コロコロと変わるその愛嬌に自分が失ってしまった純真さを見るような気がして、彼女がなんとも眩しく見えた。


「それは、その、お見苦しいところをお見せしまして」


「あら、可愛かったじゃないの」


 思わず嗜虐心をくすぐられて、からかいながら隣に座る彼女の肩を抱き寄せた。


 急なことに、肩を一度震わせたエミだったが、すぐに力を抜いて、私の胸元に頭をあずける。乳房にかかる彼女の吐息の熱にこそばゆさを感じながら、茶色の髪から漂う夏みかんの香りと、それに混じった彼女の汗の香りを吸い込んだ。


 そのまま、しばらくの沈黙が訪れる。不躾な月明かりが照らす部屋の中には、ひそめるような二つの吐息と、わずかに身じろいで生まれる衣擦れの音だけが響いていた。この静寂に否が応でも胸元の熱を意識して、鼓動が高鳴る。右耳を私の胸に押し当てるこの子猫には、この緊張が見抜かれているだろうか。その答えは、更に頬をうずめようとする彼女の姿から明らかに見えた。


 気恥ずかしさで頬が熱を帯びるのを自覚しながら、彼女の上体を抱えると、その額に口づけをする。蕩けた眼尻で視線を交わした羞恥からか、熱から遠ざかって感じた寒さを嫌ってか、エミは少し身を捩ると、自ら私の胸元に飛び込んだ。


 その勢いのあまりの強さと、腰に力が戻っていなかったこともあって、もつれるように寝台へと倒れ込む。


「まあ、驚いた」


 誰と無しに呟くと、エミの肩が跳ねた。


「ごめんなさい、迷惑でしたよね」


「あら、何が?」


 絞り出すような彼女の小声に、意図をつかみかねて問い返す。


 いつしか月は雲に隠れ、部屋の中はわずかな星明かりのみが輪郭を与えていた。


「先輩にそのケがないのは解ってたんです」


 体を密着させているにもかかわらず、震える肩で呟くエミ。その言葉には懺悔や後悔の色はなく、ただ事実をそれと確認しているように聞こえる。


 先程までの余韻は消え、ただ、頭の冷えたことで気落ちしているように見えた。


「でも、我慢できなくて。それで、先輩に無理をさせたんじゃないかと」


 そんなことはない、と言ってしまうのは簡単である。しかし、現実に同性の趣味はなかったのであるし、何より、エミが求めているのは慰めではないように心のどこかで感じた。


「どうしてそう思ったの?」


 そこで問い直してみると、再びしばらくの沈黙が訪れる。先と変わらぬ熱を胸元に感じるにも関わらず、あるいはそのために、部屋の空気がより冷たさを増して思えた。


 彼女の答えを待つ間、目の端で置き時計の針を見ると、いつのまにか日付をまたいでいた。音もなく走り続ける時計の秒針をぼんやりと眺めながらエミの髪をゆっくりと撫でていると、彼女が鼻を啜る音に意識を引き戻される。


「驚いたって」


 語りだす声は震えていたが、どうやら泣いていたというわけではなく、肩の肌寒さによる物だったらしい。毛布を引き被せながら、黙って彼女の言葉を待つ。


「告白したときに、先輩が驚いたって言ったんです」


 そういえば、そんなことを言った気もする。昼休みに部室の片付けをしていたところで、いつものように手伝っていたエミが突然愛を告げたのだ。あのときの彼女の必死の形相は今でも思い出せる。後から初めての告白と聞いたことから、当人にとっては一世一代の決意だったのだろう。その様子と、唐突さ、そして内容に驚いたのは事実であった。


「いつも飄々として、どこか穏やかな先輩が目を丸くしているのを見て、何かいけないことをしたつもりになって。思わず、逃げ出しちゃいました」


 返事を待たずに駆け出していった彼女には、面食らわされたものである。その後、数日は顔を合わせても近寄る前に足早に去られて、寂しい気持ちになったものだ。


 友人にも、なにか妙なことをしたのではないかと言いがかりをつけられ、答えるに答えられなかったのは記憶に新しい。


「でもこうして、夜に抱きしめ合う仲になったじゃない」


 結局、副部長として部活の終わりに残るように告げるまでは二人で話すこともできず、返事をしたのは告白されてから実に一週間以上経ってのことである。実のところ、告白は断るつもりでいたのだが、いざ本人を目の前にしてみると小動物のように震える彼女に訳の分からない庇護欲を感じて、気付けばまずはお試しということで受け入れていた。


 そこから、ズブズブと沼にハマり、いつの間にやらこうして体を重ねるまでに至る。


「お試しなんて言われたときは驚きましたけど、たしかに嬉しかったです」


 エミはうずめていた顔を上げると、嬉しげな声で言った。しかし、その声にはどこかどこか陰りが見える。


「でも」


 そう言うと、彼女はまた私の谷間に顔をうずめた。


「最初はやっぱり、無理をして、でも優しいから、傷つけないために受け入れてくれたんじゃないかって、何度もそう思ってしまって」


 そのくぐもった声を聞いて、思わずため息が漏れる。同じようなことは時たま聞かされていた。


 曰く、慈悲にすがってだの。曰く、無償の愛でだの。この娘は私をマリア様か何かと勘違いしているんじゃなかろうか。はっきり言っておくが、私は自分をたいして優しい人間とは思っていない。失敗した友人をバカにして笑うこともあるし、お菓子の最後の一つを発端に罵りあいまでしたこともある。そんなことを度々話して聞かせるのだが、どうにも伝わり切ってはいないらしい。


 そもそも、決め手はおそらく嗜虐心であるから、これが優しい人間の所業ならば刑務官の仕事のなんと楽なことだろうか。


「もう、エミちゃんが顔を入れているのは、マリア様の胸元じゃないのよ」


「はい、石像の胸はこんなに暖かくも柔らかくもないですしね」


 そう言って笑う声からは、憂いが消えていた。この隠し事の上手さも、彼女を放っておけない理由の一つだろう。さりとて、踏み込む勇気も持てずに、結局彼女の体を強く抱き寄せるしかなかった。


 日付の変わったことを認め、エミを部屋に帰らせねばならないことを承知しつつも、腕の中から彼女を解き放てないことを鑑みるに、私もこの娘になかなかイカれているようである。


「なら、どうして、告白してくれたの?」


 私の胸を揉みしだくエミ。その手の甲を撫でつつ、名残惜しさもあって、場をつなぐためにそう問いかける。


 幾度となく問うてきたことだが、その度に、優しかったからだの、好みだったからだの、少しだけズレた答えが返ってきていた。


 しかし、互いの顔も輪郭しかわからないようなこの部屋ならば、なにか別のことが聞けるのではと僅かな期待もある。


「怖かったんです」


 しばし無言で私の胸を絞っていたエミだったが、ふと、呟いた。


 黙って続きを促すと、エミは言葉を探しながら心の内を吐露し始める。


「憧れて入ったんです、この学校に。みんなおしとやかで、きれいで。だけど、中に入ってみると、規則が厳しくて。でもそれは、覚悟の上で入ってきたんです」


「なら、何が怖かったの?」


 そう相槌を打つと、少し考え込むエミ。その手はいつの間にか止まっている。


 やがて、言葉がまとまったのか、彼女は話し出す。その様子はどこか迷子が探しに来た親に見つかった際の、気まずげな様を思わせた。


「自分らしさが無くなる気がして。芯にあるものだけは変わらずに持てると思ったのに、それが気が付かない内に揺らいでいて。いつの間にか定格の箱に押し込められている気がして、それが怖かったんです」


 そう話すエミの手は、震えていた。思春期によくある悩みと言えばそれまでだろう。しかし、本人にとっては重要な悩みでもある。願わくば、芯に持っていたものについて知ることができれば心の支えにも慣れただろうが、それを聞くには時期尚早に思えた。


「あら、安らげたら誰でも良かったの?」


 故に、努めて茶化すように彼女の背を撫でながら、おどけて見せる。


 いつの間にか、月は再び雲間から顔をのぞかせていた。月光が、頬を膨らましてこちらに抗議の目線を送るエミの顔を照らす。そのげっ歯類じみた仕草をまた可愛らしく思いつつ、胸元に抱き寄せる。


 なにかおどけてやる話はないかと考えたところで、箱詰めにされる恐怖に思い当たった。


 同じ感覚を二年前の自分も感じていたはずであったが、いつの間にか頭の片隅にも考えなくなっていた。これが、幻想の箱から抜け出たことなのか、お仕着せの箱にピッタリと適合してしまったことなのか、それはどちらとも判らない。


 しかし、だ。


「箱に入るのも悪いことばかりじゃないのよ」


「箱入り娘とかそういう話ですか?」


 胸の谷間に感じる、エミの尖った唇をくすぐったく感じながら、柔らかく否定する。


「それもあるかもしれないけれど、箱の形のことよ」


 その言葉に顔だけを上げてこちらを見るエミ。その目には戸惑いの光が宿っていた。思わずその唇に自らの口を落としたくなるが、しばしこらえて、抱く力を少し強める。


「箱って直方体でしょう。あの形は空間充填が可能な形、つまり、似たような形の中で隣の同じ形と重なる面積が最大の形」


 そう言って、小柄な彼女を顔が向き合う位置まで引き上げる。キャッ、と可愛らしい悲鳴が上がるが、視線が合うと、互いの瞳に吸い込まれていくような感覚に襲われ、それに身を委ねる。


 擦れ合う鼻翼にしばらくこそばゆさを覚えながら、待つこと数秒。やおら、銀糸を名残惜しげに垂らしながら二つの顔が離れる。


 林檎の実よりも赤く染まった頬に笑いかけながら、私は言葉を続けた。


「だから、こうして目一杯に触れ合える」


 もう、と言って、エミは毛布を巻き込んで横に転がった。夜の空気が押し寄せてきて思わず体が震えるが、心の暖かさがそれを気にさせない。


 エミの方を見てみれば、こちらに背中を向けているものの、赤く染まった耳は隠しきれていなかった。その様子が可笑しくて、思わず笑いが溢れる。すると、エミも甘えた唸り声でこたえたが、やがて肩を震わせて笑い出した。


 掘り起こしてしまった不安の種はこれで少しは埋め戻せたか。そう思っていると、エミが小声でつぶやく。


「でも、誰かと深く触れ合いたい。そんな不出来な箱になりたいと思ってはいけないんでしょうか」


「いいのよ、箱なんて、本来は必要な数だけ形があるんだもの」


 迷子の背中を撫でてやりながら、この壊れやすい生き物を愛おしく思う気持ちが湧き上がる。一度完全に壊してしまって、私の色に染め直したいという嗜虐心と、このまま飴細工のように、慈しみ愛でていたいという保護欲のせめぎあいに懊悩していると、エミが背中を向けたまま、呟いた。


「いつか、そんな形の箱が見つかるでしょうか」


 その声に込められた期待に、努めて気が付かないふりをしつつ、背中を撫でる手を止めて答える。


「いつか、見つかるわよ」


 そう言うと、小さい背中を更に丸めながら、バカ、と一言。


 その言葉になんと答えれば良いか解らず、苦い思いが胸の奥から湧き出てくる。それを飲み込もうと、近く訪れる朝日を頭から追い出して、エミへと覆いかぶさった。


 やがて、何かを求め、あるいは忘れるように紡がれるなまめかしい声。それを聞くのはただ月ばかりであった。

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