第9話

「わたくしはクッキー用のドライフルーツを作らなくてはっ!」


 フィゾルド侯爵夫人はパタパタと音がしそうなほど急いで廊下へ出た。大変素晴らしい淑女の彼女は足音などさせないが。

 オリビアの思い出のクッキーはどうやら夫人の手作りだったようだ。


「三日もすれば用意ができるだろう」


「ありがとうございます。でも……」


「どうしたね?」


「ここまでしていただいたのに、オリビアさんに会えなかったら……すみません」


「それならまた違う方法を探そう。シズがワシらのためにやってくれているというのは理解しとる。遠慮せず言っておくれ」


「わかりました」


 お祖父様の優しい言葉に、私も穏やかに微笑むことができた。


 夢でオリビアを見て三日後の昼下り。侯爵邸から少し離れた小高い丘に真っ白なベンチとテーブルと日傘が用意され、近くの二本の大木の間に紫のハンモックが張られた場所でピクニックをすることになった。

 そこから見える湖はキラキラと輝いてまるで絵画を見ているような幻想的な世界が広がっていた。


 私はバレルの手を借りてハンモックに横たわる。メイドがゆっくりと揺らしてくれるとすぐに眠気がやってきた。深く深く意識が沈んでいく。


 意識の中で目を覚ますと私はすぐに目的の人を見つけた。


 十歳ほどのオリビアは湖をジッと見ていた。ハンモックから降りた私はドレスは着ているが坂木静流の姿のようでサイドに垂らした髪は漆黒だ。おそらく瞳も黒であろう。


「オリビア」


 オリビアがゆっくりと振り返る。目をキョトキョトとさせて小首を傾げた。私は努めて優しく話しかけた。


「オリビアでしょう?」


「はい。わたくしはノイデル伯爵家が長女オリビアです。はじめまして。お姉様はどなた様ですか?」


 お祖母様に教育されたオリビアは十歳ほどでも立派な淑女であった。頭を下げるだけでも優雅だし言葉は丁寧だ。穏やかな人柄であるのも端々に見受けられる。父親や兄、そして使用人にも何も言えない性格であることが窺えた。


「私は『シズ』よ。貴女のお祖父様お祖母様の知り合いなの。お二人に頼まれてここへきたのよ。


「お祖父様とお祖母様に……ですか?」


「ええそうよ。私、貴女のお友達になりたいと思っているわ」


「お友達?」


「ええ」


「わたくしとお友達になっても楽しくありませんわよ。わたくしは何も存じ上げませんもの」


 十二歳ほどか。さっきより少しだけ大きくなったオリビアは淋しげに瞳を伏せた。社交デビューする前は顔も殴られ、外へは全く出してもらえていなかったのだ。情報もなければ友達もいない。


「何も知らなくてもいいじゃない。これから一緒に知っていきましょう。お庭に咲くお花の名前も、美味しいケーキのお店も、香りの高いお紅茶の産地も、面白そうな本のタイトルも。全部これから知ればいいのよ」


「一緒に……?」


「ええ。楽しいことは誰かと一緒だともっと楽しくなるのよ」


 可愛らしい目を見開いて信じられないとばかりに手を口に当てている。


「ほら。お祖父様もお祖母様も二人でご一緒だから楽しそうでしょう?」


 二人で白いベンチの方へと振り向くとお祖父様とお祖母様、バレルとメイドたちが楽しそうに笑っておしゃべりしている。


 私はハンモックに横たわる前にお祖父様たちに『とにかく楽しそうに幸せそうに笑っていてほしい。できれば声をたてるぐらいに』とお願いをしていた。

 日本の言い伝えに『天之岩戸神話』がある。無理に扉を叩くより、楽しげな声の方が興味を持たれると思ったのだ。


「お二人はオリビアも一緒ならもっと楽しそうだって仰っていたわよ」


「わたくしも……一緒に……?」


「ほら見て! 白いテーブルセット。素敵でしょう? バレルが用意してくれたのよ」


 白いベンチに座るお祖父様とお祖母様。その傍らにはいつもバレルがいる。


「バレルは厳しくて優しいのです。わたくしが小さい頃からあるベンチですのよ。バレルの手作りだと言っていました」


 オリビアがにっこりとして教えてくれる。


「紫のハンモックはお祖父様が布を選んだのよ」


 紫色はお祖母様とお母様とオリビアの瞳の色だ。


「うふふ。お祖父様はお祖母様が大好きだからいつも紫色をお選びになるのですよ」


「違うわ。ほらよく見て。濃い紫色でしょう。あれはオリビアの瞳の色よ。オリビアの好きな色なのでしょう?

お祖父様はオリビアのことも大好きなのよ」


「お祖父様はわたくしの好きな色を覚えていてくださっているの?」


 落ち着いた声色になったオリビアは十五歳くらいになっていた。幼い頃のオリビアは紫色の違いに拘っていた時があったそうだ。『オリビアは儚くなった母親と自分は違う人間なのだと、心のどこかで表現したかったのだろう』とお祖父様は言っていた。


「ほら、オリビアはあのクッキーが好きでしょう? お祖母様が貴女のために作ってくれたのよ。私もいただいたわ。とってもおいしかった」


「お祖母様はわたくしの好きな物をまた作ってくださるの?」


 泣き声のオリビアは十八歳の姿に戻っていた。私は泣いているオリビアの手を取る。


「わたくしは、あの穏やかで優しさの溢れる中に入っていいのかしら……」


 恋しさと不安が交差した視線は楽しそうにしているお祖父様たちから離れることはない。


「オリビア。初めは怖いよね。だから私の後ろにいていいよ。オリビアがお祖父様やお祖母様とお話したいなって思うまでゆっくりとしていいの。

私とお友達になりましょう」


 私はオリビアを抱き締めた。オリビアは私の肩にコクリと頷いた。

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