第30歩 キミエさん
ビルの屋上は風が強く、顔にあたる風が冷たくて頬や鼻がピリピリと痛むほどだった。
ここの畑では春菊と水菜、それに白菜、大根、長ねぎやらと、いろいろな野菜すくすくと育っているが、今週末が仕事納めということで一旦全て収穫されることになった。
業務時間内ではあるものの、手に新聞紙やビニール袋を持った社員たちが列を作っている。
食堂では秋にとれたさつま芋やジャガイモを焼き、それを朝日課長がビル内の他の会社に配って歩いていた。
木下次長とその部下たちはおそろいのヤッケを着、軍手をはめている。
今日のためにあつらえたらしい。
「朝日ー、これも配ってきてー。」と言って花束のように小分けした水菜と菊菜を段ボールごと朝日課長に手渡すと、返事もなくひょいと受け取ってタタタとかけていく朝日課長。
コンビネーションを発揮しているのは2人だけではない。
今日は皆フットワークが軽く、あちこちで阿吽の呼吸の社員たちがくるくるとよく働いている。
隅の方ではそんな従業員たちを自慢に思いつつ、社長自らが一本一本大根を抜き、冷たい水に手を入れて丁寧に洗っている。
ビルの屋上に建てられた社長のもう一つの自慢の東屋は、屋根が青緑色で壁は白い。
何となく優しい女の人を思わせる佇まいで、いつの頃からか社員たちはキミエさん、と呼びはじめた。
今年も1年、楽しかった?
働いていると嫌なことや辛いことも多いでしょう。
友達でもない、好きでもない人たちと毎日毎日。
あなたたち本当に偉いわ。
キミエさんはそんな風に話しかけているのだけれど、誰の耳にも届かない。
それでも東家のベンチに座ってお喋りをするとき、中でこっそり昼寝をするとき、何だか妙に安心すると皆が感じている。
あ、キミエさん、ここ剥げてる。
と誰かが言った。
確かに自慢の白い壁の一部が剥げている。
やだわ、恥ずかしいわ。
皆が代わる代わる剥げを触りに来る。
見ないでほしいわ。
野菜が一通りさばけたのか、人の姿がまばらになり、気温も一層下がって来た。
これからしばらく、屋上もさみしくなるわね。
とうとう社長も寒さに負けて、ドロだらけの長靴をサーッと洗うとビルの中へと戻っていった。
誰もいない。
小さかった畑が、今年は少し広くなった。
プランターも増えて、人の出入りが多かった。
何より東屋を気に入ってずっと入り浸っている子がいた。
それが何より、キミエさんには嬉しかった。
「おー、さむさむ」
という声がして、キミエさんは自分の側に朝日課長が立っているのに気付く。
まあ、またあなた仕事をサボりに来たの?
朝日課長はペンキを床に置くと、慣れない手つきでパテと格闘しはじめた。
あらやだ、くすぐったいわ。
「キミエさんって名前、誰がつけたのかね。僕ならもっとおしゃれな名前にするけど。」
私は好きよ
「あ、色がちょっと違う!」
もう!あなたそういうとこあるわね
「乾いた?」
まだよ、さわらないで、あ!あ!ほらー
「乾いてないじゃん!」
キミエさんはクスクスわらった。
夕方に一人で東屋の修繕をしていた朝日課長は、DIYには自信があったのになかなかに苦戦してしまった。
壁の剥げたところを直そうとしたが、パテがなかなかうまく伸びずへこんでしまい、塗ったペンキの色が周囲と違っていたせいもあって、東屋の白い壁にエクボが出来たようになっている。
どうにもうまくいかなかったが落胆するほどではない。
朝日課長は仕事を終えた満足感とは裏腹に冷え切った体を温めるため、急いでビルの中へ戻った。
バタン、と扉を閉める。
二、三歩進んだところでこれで年明けまでここへ来ることはないな、と思って向き直り、閉めた扉を開け、屋上を眺めた。
澄んだ空気の中、少し薄暗い。夕日に照らされた東屋の壁が明るく光って見える。
その時、朝日課長の耳に笑い声が聞こえた。
お母さんみたいな、おばあちゃんみたいな、嬉しそうな控えめな笑い声だった。
朝日課長は屋上をじっと見つめたが、「気のせいかな」と言ってまた扉を閉めた。
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