第29歩 強い女

勝手な噂を流されても、田中は気にしない。

私みたいな美人には噂はつきものだ、と思っている。

子供の頃から目立つ方だった田中は、その美貌ゆえ損をしてきた。

成績が良くても、スポーツができても、友達に優しくしても、評価はいつも同じ。

きれいだね、大人になったら美人になるね、幸せな結婚が待っているね。

そして、思春期に入れば当然のように勝手に崇拝され、勝手に妬まれた。

田中は自分の心を守るために勝ち気な性格を獲得するしかなかった。

女で、美人で、賢くて、何が悪いんだ。

勝ち気すぎたのか、全て順調な人生の中で恋愛方面はあまりうまくいかなかった。

自称映画好きの先輩がB級映画に詳しいだけでありきたりな感想しか言わないのにがっかりした。

ただの飾りみたいな小さいかばんを「持ってあげよう」と言われるとイライラした。

ハイヒールを履いて歩くと、「痛くないの?女の子は大変だね」と言われて恋が冷めた。

付き合う男を毎回好きになれず、田中は自分の事を恋愛経験がない女だと思っているが、口に出せば批判されると分かっているので相手がコロコロ変わる恋多き女という評価を甘んじて受けた。

そんな田中が、なんと社会人になってすぐに職場で出会った男と婚約した。

なぜかはわからないが、凄く惹かれた。

なんにも求めなくていい相手に出会えた事が嬉しかった。

やっとこれで、恋愛市場から抜け出せるという安堵もあった。

友達みたいな夫婦になろう。

気負わず、自分らしく生きよう。


そして結婚式前日に逃げ出した。


その日は結婚の前祝いと称して友人が集まっていた。

みんなでエステに行った。

翌日のために塩分とお酒は控えた。

新婚旅行の予定を話した。

将来の空想をした。


将来、私はきっと自由なおばあさんになっていて、仕事をして、旅行へ行って、たくさんの冒険を経験している。


しているかしら?


結婚して、子供を産んで、当たり前の苦労はしても、きっと幸せな人生。


人のうらやむ人生を送れる。


でもそれは私のうらやむ人生ではない。



そう気づいた時、田中は絶望と希望の入り混じった気分になった。


あとたった1日待つこともできない、今決めないと。

震える手で電話をかける。

友達の目が自分に集中している。

今から彼女たちは驚いて、そして、どうなるだろう。

電話口の婚約者は、どう反応するのだろう。


呼び出し音が鳴る。

早く出て。

でも出ないで。

汗がじんわりと体中から浮かぶと、田中の身体からはエステでまとったオイルの香りが湧き立つように広がった。



一週間後、田中は予定していた有給を終えて出社した。

今日から朝日として働く予定だったが、依然田中のままである。

昨日までに手は打ったのでそのあたりの行き違いはないし、これからお詫び行脚が待っているとは言え田中の心に後悔は微塵もない。


甘えたことは言わない、お互いのためじゃなく、自分だけのために勝手に決めたことだったと、顔を上げて言える。

視線をそらさず、謝って、それでも晴れ晴れと、そして堂々としていられる。


今回のことで田中は同期入社の親友たちを失った。

それは仕方のないことだと田中も思っている。

それだけのことをした。


私を失わせて悪かった、とも思った。

私みたいな輝かしい存在が親友じゃなくなるなんて、かわいそう。ごめんね。


そしてそれ以来、田中は社内で山田と呼ばれるようになった。

元の田中とはもう友達では居られない、じゃあ彼女を無視するのか?新しく関係を作っていけないのか。

苦肉の策として田中は山田になった。


山田は以前より少し、親しみやすい。誰かを傷つけることに正当な理由なんてないと身を持って知った分優しくなった。

また恋愛市場を放棄したからか、以前のピカピカと輝くような攻撃的な美しさを捨て、もっと人を受け入れた美しさを手に入れた。


新生田中、もとい山田はさらに強く、美しく生まれ変わったのだ。


山田は営業にいたが、婚約破棄騒動で総務に異動になり、その後は社長室で秘書をしている。

冷血漢だの社長の愛人だの不自然な若作りだの言われても気にしない。

自然なままでいたら美しすぎて人の目を、気を引いてしまうのだ。仕方がない。


食堂のカウンターでサンドイッチを食べていると、今や課長となった元婚約者が食券を買うのが見えた。

彼は優しく、一度も自分を責めなかった。

そしてなんの運命のいたずらなのか、彼が結婚した女性の旧姓は山田だった。

山田はハンカチにサンドイッチの残りをつつむと、さっと食器を片付け、元婚約者の目に触れないように食堂を出た。


恋愛ではないけれど、山田は山田なりに彼を思っている。

真に強い女ならこんな時平然と食事を続けるのかもしれないが、山田の中の慈しみがそんな事を許さない。

これ以上彼を傷つけるなんてことがあってはならない。

それが山田なりの強さだった。


朝日課長と木下次長が並んで笑いながらカツとじ定食を運んでいる。

カウンターの椅子を引いた時、朝日課長は仄かにその席からいい香りがして手を止めた。

木下次長は気付かなかった様子で、どかっと座るとお茶を一口飲む。

朝日課長は窓の外を眺め、窓に映る隣の親友の、年の割に旺盛な食欲を微笑ましく感じて笑った。

そして今一度さっきの香りを探す。控えめで、優しい、春の夜みたいな匂い。

しかし鼻には関西風の出汁の香りが広がるばかりで、朝日課長は直ぐにその香りを忘れてしまった。










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