第28歩 形
久々に出した手袋は、少し変な匂いがした。
出勤途中の白田さんは、何度も手を鼻に持っていく。
変な匂いなんだけど、なんか嗅いじゃうなー、なんて思いながら匂いを確かめていたら、口と鼻の間に当たる手袋の感触も気になりだしてしまう。
いつもなら出勤後すぐに仕事に取りかかる白田さんだが、今日は皆と手袋の話で盛り上がる。
「俺は断然軍手!」「これは手編みなんです。」「ママとお揃いの」
めいめい手袋の話をしていると、いつもならこういう話に一番乗りたがる朝日課長の声がしないことに気付いた。
「朝日課長、今日休み?」
「え?駅で見かけましたよ。」
どこへ行ったのか、まあいつも自由にどこかへ行くもんな、と白田さんは納得する。
しかしその日、いつの間にかデスクに戻ってきていた朝日課長は「おつかれさまでしたー」と10時に帰っていく。
体調不良かな?
とさほど気にしなかったが、翌日、そしてさらに次の日にも朝日課長は姿を見せなかった。
朝日課長がいないと、いつもと変わらぬ仕事があまり楽しくない。
それは同僚たちも同じだったようで、たまにチラチラと空席を見ている。
木下次長もいつもほど親しげに感じられず、なんだかフロア全体が仕事モードで堅苦しい。
「木下次長、朝日課長はお風邪ですか?」と聞いたが、「まあ、ちょっと」としか答えてもらえない。
いつもは言うべきでないことまで朝日課長のことならなんでも教えてくれる木下次長が、口を濁すなんて。
きっと深刻なことがあったんだろう。
あまり聞かないでおこう。
そう暗黙で了解しあっていると、週明けに朝日課長が戻ってきていた。
いつもの少し左右にからだが揺れる意外と大股な歩き方、夢見るようなぼんやりとした目、少しへの字に開いた口。
朝日課長がいない間に、白田さんの手袋はすっかり馴染んでいたし、秋なのか冬なのか迷っているような気候はしっかりと冬になっていた。
その日の昼休み、朝日課長は仲良したちに囲まれている。
白田さん好みのおじさん観察チャンスだったので、迷わず近くへと座る。
何を話しているんだろう、と耳をそばだてる。
途端に白田さんは青ざめ、赤くなり、また青ざめて席を立った。
私は何て最低なんだろう、興味本意でこんなこと。
しかし今席を動くと他のひとが座るかもしれない。
それはだめだ。
他のひとには知られてはいけない。
朝日課長は泣いているのだから。
白田さんは座り直し、極力食事に集中した。
しかし漏れ聞こえてくるものはどうにもならない。
ごめんなさい。そう心の中で唱えながら白田さんは昼を過ごした。
朝日課長が休んだ理由は、実家の老犬と最後の別れをするためだったらしい。
食事がとれなくなって、散歩にもいかず、そんな犬が朝日課長の顔を見ると何日かぶりに自力で起き上がったこと。
朝日課長の手を一生懸命になめてくれたこと。
最後の瞬間は家族全員で見送れたこと。
抱き締めるといつまでも暖かくて、何かの間違いなんじゃないかと心の中で期待していたこと。
そんなことを話している朝日課長も、聞いている木下次長やその他の仲良したちも、目の前の食事に箸もつけずにただただ泣いていた。
白田さんも泣いていた。20歳の時に別れた猫を思い出していた。
ポケットから手袋をだす。
そうだ、これなんか、あのこの匂いがするみたいで、それでいつも嗅いじゃうんだった。
よりによってラーメンを選んでいた白田さんは、目の前ののびきった麺を見つめて、そっと手袋を鼻に寄せる。
西田専務がポツリと言った。「こういう時、心に穴が空いたみたいって言うけど」
「多分、みんなペットをなくすと、そのかたちに穴が空くんやな」
杉本さんが鼻をすすりながら、「男と別れたときはすぐ塞がるのに」
朝日課長も「この形は埋めようがないね」
と応じ、どうやら昼休みの終わりに合わせてこの会もお開きのようだ。
白田さんは崩れきったメイクを直すためあわててラーメンを一気に流し込むと化粧室へと駆け込む。
鏡をみると、アイメイクが溶けた自分がはなしかけてくるようだ。
心にペットの形の穴が、今もあいてるね。埋まらないね。
埋める気もないね。
そう、白田さんはいつまでも悲しくて寂しくて辛い方が、忘れてしまうよりずっと幸せ、という選択をしてきた。
きっと多くの人が何かと、誰かと、別れたときにするのと同じ選択を。
いっそ悲しみで胸が張り裂けてくれれば、忘れずに済む。
また手袋を取り出して、匂いを嗅ぐ。手のひらで撫でる。
朝日課長に謝りたいけど、何と言っていいのかわからない。
秘密を知られたと知らせてはいけないのかもしれない。
昼休みはもう終わりそうだ。
白田さんは、とりあえず洗面台でジャブジャブと顔を洗うことにした。
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