第27歩 きっかけ

男に生まれたからには、一国一城の主として

そんなフレーズが聞こえてきたので佐々川青年はぎょっとして、こっそり声の主を探した。

ここは通勤ラッシュの電車の中、すし詰めでどこに誰がいるのか判別はできないが、確かに右前方から前時代的なフレーズが次々と聞こえてくる。

女が家庭を守ってさえいれば、子供は自ずといい子に育つだの、最近の親は考えが甘いから子供になめられるだの、女が社会に出たらろくなことがおきないだのと続くので、佐々川青年は気分が悪くなってきた。

仕事に100%と打ち込めないのは怠けているから、会社のお荷物は社会のお荷物、一度競争に負けたらもう二度と勝てない。

自分に向けられたのでないと分かっていても、動悸がする。

結婚をして、家を建てて、子供を育てて、出世する。

そういう普通の中にいる人たちはきっとこんなことで苦しくはならないんだろうと思うと、弱い自分を責めたくなる。

男なんだから泣いちゃいけない、と自分にかけられた呪いを思い出しながら堪えたが、涙はすぐそこまで込み上がってきていた。


その時、目の前におじさん2人が佐々川青年の前に現れた。

「大丈夫?気分悪いの?」と長細いほうが声をかけてきた。

「これ、使い」と丸いほうがハンカチを差し出してきて、どうやら我慢していたつもりの涙が溢れていたことに気付く。

2人は周囲から隠すように佐々川青年に近づき、細長い方がお茶を差し出してきた。

「これ、まだ飲んでないから」

「あ、すみません」

ここは甘えよう、とキャップを開けかけて、手が震えていることに気付く。そのまま手が固まってしまう。

細長いほうが黙って佐々川青年の手からお茶を取り出し、ふたを開け、また手に持たせてくれた。

一口飲むと、口の中が乾いていたのがよくわかる。

しかし緊張でのどを通らない。

それでも二口、三口と進めると、手の震えが少しおさまった。

「おれらここで降りるけど、君の目的地はどこ?少しなら付き添えるで」丸いほうがそんなふうに言ったのは、おそらく自分がそれほど具合が悪そうだからなんだろう。

佐々川青年は涙を拭いたハンカチを丁寧にたたみ直しながら答える。

「ぼくも、ここで降ります。少しリフレッシュしたいんで。」

本当は今から面接だったが、もうそんな気分でもない。どうせ行きたくもないし、受からないし。

電車がホームにゆっくりと止まる。

丸いほうが先陣を切って空間をあけてくれたので、佐々川青年は難なくすし詰めの車両から抜け出せた。

「ありがとうございました。ほんとは気分が悪かったのですが、なんだかうまく動けなくて。」

情けない気分でお礼を言いながら、自分の腕が細長い方に支えられていたことに気付く。

「あ!触ってごめんね」

「いえ、ありがとうございます。」

「なんかねー、あの車両にパワハラっぽい人がいたから怖くて、つい」

「あのひとらー、いややわー。あれ絶対家族に嫌われてるわ。」

「あ、あの人達、僕も嫌でした。」

思わぬところで意気投合し、佐々川青年はいくぶんか気分が良くなった。

「あ、なんかもう元気だね、じゃあぼくたちは会社に行ってくるけど、君はひとりで平気かい?よかったらうちの休憩室使いなよ。」

「いえ、もう平気です。本当にありがとうございました。」

「まあなんもしてないけど」

このおじさん二人組がいなかったら、と、佐々川青年は考えた。

今もまだあの電車の中で、あの話を聞きながら、暗い気分でいたことだろう。

なんにもしてない?おじさんたちはぼくのヒーローじゃないか。

佐々川青年はハンカチを差し出した。

「これ、洗ってお返ししたいのでお二人のお名前と連絡先を教えてください。」

「いいって、持っとき、それおれが昔就活のときに迷子になって、そん時に知らんおっさんからもらってん。お守りーって。そしたら第一志望に受かったからほんまにお守り。お兄さんにあげるわ。いいことあるよ。」

「ほんと、それ僕も借りたことあるけど、そん時は卵が双子だったよ!」

いいことの度合いが違うエピソードに戸惑ううちに、2人は歩き出していた。

「あ、」

もう一度お礼が言いたくて声をかけようとしたが、人波の中で大きな声を出す勇気はない。

いつの間にかおじさん2人の周りには同僚らしき人たちが集まっている。

人気者らしい。

佐々川青年は病気を理由に前職を離れたところだった。

失業手当をもらうための就活にもうんざりしていたし、希望の職種も業種もこれと言ってない。

長い人生を灰色に塗り込めるための努力をしているようで、佐々川青年は何もかも投げ出してしまいたかった。

でも、あのおじさん2人がいる職場なら、もしかしたら。

佐々川青年は少し大きくなった集団のうしろをついていく。

おじさんを囲んだ人の群れは駅のほど近くのビルに入って行った。

会社名を確かめたくて、佐々川青年は丹念にビルを見る。

9階建てのビルの2階から6階、そして9階が同じ会社、1階はテナントと駐車場、裏に公園がある。

7階と8階にも数社の会社が入っているので一応それも控えておく。

もしまた会えたら、あの2人は自分を覚えているだろうか?きっと忘れているだろう。

特に細長いほう。

お守りのハンカチを胸ポケットにしまい、佐々川青年はビルに背を向けた。

一刻も早くエントリーシートを出したい。

今、この瞬間から、人生がうまく回る気がする。

佐々川青年は希望に満ちた顔で、満員電車に向かって歩き始めた。


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