第17歩 朝日課長のデート

お父さん、今日は絶対早く帰ってきてね

と、娘の未来が生意気な口ぶりで言い、朝日課長の手をぎゅっと握る。

ここは朝日家の玄関。

大きめに作られた下駄箱には扉はなく、上の方にずらりと朝日課長の靴が並んでいる。

少し広めの玄関で2人がグズグズしている横を妻がゴミ袋を持って出ていく。

娘に手を取られるともう仕事には行きたくなくなるが、なんとか我慢する。

「絶対早く帰ってくるよ。」

ブンブンと手を降って、それでも離す気になれずにまだ繋いだまま娘の疑うような視線を受け止める。

「昨日は、遅かったもん!みーちゃん寝ちゃったもん!」

「ごめんごめんー、昨日はお仕事だったんだよ。今日は絶対、早く帰ってくるから」

かつてこんなに求められたことがあっただろうか、こんなに愛されたことがあっただろうか。朝日課長はデレデレになりながら幸せを噛みしめる。

その横をゴミを捨て終わった妻が冷たい視線を投げながら通り過ぎる。

「絶対絶対だよ。」

いつの間にか離された手をつかみ直そうと伸ばしたが、それを再び握られ、今度は指切りになる。

「お父さん」と、ここで小声になる「みーちゃんね、お父さんのこと大好きなの」

パッと手を離し、室内へ駆け戻る。

雷に打たれたように朝日課長は目を見開いて動かない。今日はやっぱり休もう。

そこへ妻、「だめ、仕事」


昼休み、朝からずっとニヤニヤしていた朝日課長を上司であり友人でもある木下次長が呼び止めた。

「朝日、顔、気持ち悪い」

「へーん、わかってないねー、この顔は、幸せを表現しているんだよ」

自慢げに朝の顛末を話す。

「それは、オレでも休む」

「でしょー?」

「娘はホンマ、なんであんなかわいいんや?」

「天使だからね」

お互いに子供の写真を見せ合ってはニヤニヤしているうちに昼休みは終わろうとしていた。


夕方、今日は定時丁度に上がると決めている朝日課長は、さながらスプリンターのように駆け出す準備に余念がない。

「課長、お時間いいですか?」「急ぎ?」「いえ、急ぎでは」「ごめん、じゃあ来週聞く!今日は今からデートだから!娘と!」

最後のフレーズにかけてどんどん大声になる。

あと10秒、9秒、8秒…カウントダウンしながらももどかしい。


今日は娘の手作りハンバーグを食べ、そのあとはアニメのDVDを観る約束をしている。

娘によると、「お母さんと観るよりお父さんと一緒のほうがおーもしろいんだもん」だそうだ。

駅まで走り、コンビニでお菓子を買い、自宅までは空を飛ぶようにして帰った。

息が切れて顔も真っ赤になる。

「た、ただいまー」

声がかすれる。


「おかえりなさい」出迎えてくれたのは妻と息子だった。

「みーちゃんは?」キョロキョロと娘を探す。

「おとーたん」と駆け寄る息子を抱き上げて、お腹に顔を埋め、ブーッと息を吐く。

「おとーたん、あちゅーい」くすぐったそうに身を捩る息子を抱きしめながら、「みーちゃーん」と家の中に呼びかけるも返事はない。

「あのね、みーちゃん、急に誘われてお友達の家にお泊り、パジャマパーティーなの。」申し訳無さそうな声の妻の目はイタズラっぽく笑っている。「だから今日は、たっくんとデートだよ。」

「たっくんおとーたんとデートだよ」

と、無邪気に笑う息子。可愛いやつめ。

「たっくんのことだーいすきだからおとーたんうれしいなー」

この言葉に嘘はない。

食卓には焼きそばと餃子が並んでいる。

いつもなら大好きなメニューだ。


朝日課長はわんわんと泣き出したい寂しさが胃のあたりから体を支配するのを感じていた。

「今日は部屋でタバコ、吸ってもいいよ。ビールも飲んじゃおう」優しい。凄く幸せ。結婚してからずっと幸せだった。でも…。なんて贅沢すぎるのだろうか?

「おとーたん、おててあらお?」とたっくんに促されて洗面所へ行く。「じゃぶじゃぶー」保育園で手洗いを習って以来、たっくんは朝日家の手洗い大臣だ。

「おとーたん、みーちゃんね、たっくんにでぃーぶいでぃーみちゃだめ、みーちゃんとおとーたんがみるまでだめっていうの」

じゃっぶじゃっぶーと歌う合間の息子の口からそんな言葉が届く。


たっくん!みーちゃん!

なんてかわいいの!



うちのこ、ほんと天使だよ。


朝日課長は食卓にお茶を運びながら、妻に早速その報告をする。

うん、うん、と優しく頷くこの人から受けてきた愛情の深さも強さも当たり前になっていたけれど。

そりゃあうちのこは天使なはずだ。

朝日課長は久しぶりにこの可愛らしい妻を、長年の恋人を、じっくりと見つめた。






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