第16歩 安心毛布

木下次長は最近よく出会う一階のカフェの店員のことが気になっている。

彼女は通勤時いつも自転車のかごに大きなクッションを入れており、それを抱きしめながら店の裏口に歩いていく。

クッションに鼻を寄せて、あるいは顔を埋めて、それでも姿勢良く歩く姿を見かけると目で追わずには居られない。

なぜそんなものを持ち歩いているのか推測してみる。

仕事中に休むため?

休憩時間に寝るため?

自転車のエアバッグがわり?

考えても仕方がないので、いっそ本人に聞いてみたいが、どう見ても20代前半の女性にこんなおじさんが話かけるのは憚られる。

店員に客が気軽に話しかけるという行為は、そこがよほど家庭的な雰囲気でない限り難しいと木下次長は考えている。

そして自分はあの店の常連ではない。行く度に何とも残念な気分になる店だからだ。

そもそも、自分の様な見た目の:スマートでもハンサムでも長身でもイケオジでもない、冴えない中年…があんな若くて綺麗な子に話しかけてもいいものか。許されるのか。

最近の若い子は皆綺麗だ、男も女も、なんだか自分の頃と様子が違う。

そのせいか木下次長は若い人に遠慮をするようになったし、なんだか恐れてもいる。

職場の若い部下たちでさえ、例えば休日に偶然出会って話しかけようものなら「キモい」「ウザい」と感じるに違いないと思っている。


世間には愛着のある毛布やおもちゃを手放せない人というのが結構いるというが、彼女もそうだろうか…。

だからといってあんなものを持ち歩くものか?

一階のカフェの店員を見かけると、話しかけたい気持ちとそんな事はできないという気持ち、2つの気持ちが心をぐるぐると駆け巡る。

そんなこんなで木下次長がクッションの謎を抱えてもう4ヶ月経つ。

子供の運動会、秋の遠足、友人の誕生日、イベントを消化するうちにあっという間に今日を迎えた。


今日は、なんと木下次長が一階のカフェ(ここで説明すると、木下次長の働くビルの一階にあるカフェの店舗名は「一階のカフェ」である)の店長に売上について相談を受ける日なのだ。

チャンスかも知れない、とソワソワする木下次長。だが見渡してみても今日は件の店員は居ないようだ。

気が抜ける。

店は既にオープンしていて客もいるせいでガヤガヤしていたが、パーテーションで即席の個室にしたソファ席に通されると不思議と静かだった。


「あー、名刺、交換まだでしたね」

「あー、すみません、これが元帳で」

「あー、コーヒー、ホットですか?アイスですか?」と、やたら「あー」という比較的整った顔でその上人の良さそうな店長は、近くで見るとエプロンにシミが点々とある。寝癖もあるし、全体にヨレヨレしている。

「店長さん、申し上げにくいんですが」木下次長は接客については少しうるさい。

この店が変わってくれれば自分も常連になるかもしれない。

「売上も大事ですが、まずは清潔感です。」と、店長のエプロンの汚れ(洗っていないのが分かること、名札の歪み、結び目がほどけた背中)についてや、香水をつけたスタッフ・髪を触る癖のあるスタッフへの教育不足、テーブルの拭き方が雑なことなどを挙げ連ねていく。

店長は、最初こそ「ふんふん、なるほど」と返事をしていたが、そのうちに黙ってしまう。

やっと絞り出すように

「あー、うちの店って、あのー、不潔ですか?」

と聞かれて、「生ゴミを都度指定のゴミ置き場に持っていかずに、ルールを破って裏口に置いてるでしょう?」少し強く答える木下次長。

不潔です。

とは言わないが、これで伝わったはず。

店長はそこまで把握されていたことに驚きながらも、感心した様子で顔をまっすぐに上げる。

「木下さん、頼んます、うちの店、どうにかしてください!」

お金にならない厄介な世話、と切り捨てることもできるが、次長は店長と向き合って頷く。

「任せてください」


今日は2つの収穫があった。

新規顧客と謎の解明だ。

店長と話している途中で木下次長は閃きを得た。

そうだ、従業員が出入りするあの裏口、臭いんだ。カラスもいる。

彼女はきっと、クッションで臭い、汚い光景から自分を守っていたんだろう。

違うかもしれないが、これから店が変わっていけば、正解かどうか判断できる…。


木下次長は久しぶりに身も心も軽くなった気分で一階のカフェを後にした。

エレベーターのボタンを押す。

なかなか来ないエレベーターを待つ間、通りを眺めていると、あの店員が今日も自転車にクッションを積んでビルに向かってくる。


木下次長その姿が消えたあとも見えない彼女を眺めていたが、やっと来たエレベーターに颯爽と乗り込んだ。


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