第6歩 電車の木下次長

木下次長が電車に揺られている。のんびりと座った向かいの車窓が額縁のように夕景を切り取っていて、流れる絵画のようだと感じていた。

隣に座った今年7歳になる娘の紀子は、遊び疲れたのか船を漕いでいる。

「のりちゃん、だっこする?」と聞くと、目も開けずにこちらに手を伸ばしてくるので、脇をぎゅっと抱き上げて膝に乗せた。

「今日、楽しかったやろ?」普段は標準語の木下次長だが、家では関西弁を話す。

紀子は歳の割に小柄で、体も細く、いつまでもこうしていられる気がする。

「帰ったら晩御飯、なんやろな?なんか買って帰る?」寝ている子供が可愛くて、返事がないとわかっていても、嫌がられると知っていても、話しかけずにいられない。

まだらに日焼けしたような頬は触るとすべすべしているし、細い髪は絹のようで、次長はこの宝物が自分の腕の中にある幸せを感じずにはいられない。

「のりちゃん、大人になったらパパちゃんと結婚するんやもんね?」

そんな約束をしたのはもう3年前で、紀子の目下のお婿さん候補はクラスメイトの奇抜な名前ツートップ、キラリくんとじゅきあくんなのだが、賢明な妻は木下次長の耳にいれずにいる。

子供の高い体温のせいか、次長はいつの間にか眠りについた。


起きてください

と、肩を叩かれる。

はっとして目を開ける木下次長は、今日が大学の卒業式なことを思い出して慌てて駆け出した。

電車内は走らないでください

と後ろの方で声がするが構っていられない。

卒業生総代の挨拶があるのだ。

校門が見える。

スピーチ原稿が入っているはずのポッケを探りながら更にスピードを上げる。

そうだ、スケートボードに乗っているんだから速いに決まっている。

と、足元を見たら、裸足だった。

親指に指毛が生えている。

木下くん、それ抜いていい?

と、手に毛抜を持った友人が聞いてきた。

この人、誰だっけ

と考えるまもなく指毛を抜かれる。

あまりの痛さに目から鼻までがつーんとして、涙が出た。

とっさにハンカチで目元を押さえる。

ハンカチからはいい匂いがした。

アイロンがきいてパリッとしていた。

これは今朝妻が持たせてくれたハンカチだ。

いつもありがとう

と口に出してみると、隣で親友の朝日が照れ笑いをする。

そんな事いいってば。それより入社式なんだから電車で寝てちゃだめだよ。

あと少し、寝ていたい。

5分だけ

と再び目を閉じる木下次長。


胸元でスマホがブヮンブヮンと揺れる。

どうやらうたた寝をしていたらしい。

右手にそっと添えられた妻の手は冷たく、妊婦なのだから冷えちゃまずいと上着を脱いで妻に羽織らせる。

電話、なってたよ

うん、電車やし、ええんや

と通知を見ることさえない木下青年。

新婚の美しい妻は自分だけをみてくれる夫を心の底から愛おしそうに見つめた。

小さな声で、

おとこのこかな?おんなのこかな?

とありふれたフレーズを口にする。

木下青年に、小さな女の子が電車のなかで足をブラブラさせて、自分にもたれているイメージが浮かんだ。その女の子はどことなく妻ににている。


おんなのこ


そう口にした途端に、木下青年は「あ、おれいま父親になった」と感じた。

妻のお腹に手を伸ばす。

まだぺたんこのそのお腹に本当にいのちが宿っているのか、さっきまで実感が沸かなかったのに、何だかいまからこの子に会える瞬間が待ち切れない。

夕日が眩しいほど顔に当たっている。

電車の揺れが心地よく、静かで、美しい瞬間が目の前の車窓の中で絵画のように続いている。

二人は自分たちが祝福されているように感じていた。

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