第3歩 トリック・オア・トリート

朝、「トリック・オア・トリート」

と、聞こえた方を見ると、エレベーターの前で朝日課長が総務のお局杉本さんに向かって右手を差し出していた。

新入社員のヒラタはどきりとする。

普段接点のない朝日課長だが、噂では聞いているし、なんとなく朝日課長のイメージはヒラタの中に固まっていた。話したことはないけど、まあこんなもんだろう、と。別に業務に差し支えないから、話しかける必要もないし、わかるし。

そしてこの局面である。

大体課長は緊張感がない!ハロウィンなんて浮かれたイベントを職場に持ち込むべきじゃない!その上あんな人にあんな態度!怒られる!

と、ヒラタは目をぎゅっと閉じた。

「ほう、いたずらねぇー」

と、いつもより低い、ドスのきいた口調の杉本さんの声が重低音のように胸に響く。

朝日課長、逃げて!と、祈るようにゆっくり目を開けると、もうそこには二人の姿がない。

ヒラタは両手に抱えた資料をぎゅっと抱きしめて早足でその場から逃げ去った。


昼休み、「トリック・オア・トリート」

と、食堂のアイスの自販機前でまたもや朝日課長が、今度はあろうことか経理のお局、大岩さんに右手を差し出している。

ほんとに、怒られるよ。と思いつつも、とっさに観葉植物の陰に隠れて様子をうかがうヒラタ。

大岩さんが少し首を傾げながら目を細めて朝日課長のつま先から顔に視線を動かす。

「すごいメンチ切るじゃん」

とうしろでささやき声がする。この状況にピリついたのはどうやらヒラタだけではなかったらしい。

沈黙の後、お局が口をひらく。「いたずらぁ?誰がぁ?誰にぃ?」

怖い。

なんでそんな言い方になるのか。

私がそんな言い方されたら気絶する、とヒラタの口から漏れ出る。

気付けば朝日課長の姿はない。

でも朝日課長が悪い。

そう思いながらランチを選びに行く。朝日課長、バカなのかな?


終業後、退社してビルから皆が出ていく波の中、ヒラタにまたあの声が届いた。

「トリック・オア・トリート」

右手を差し出している朝日課長、そして仏頂面の木下次長。木下次長が不機嫌なのを初めて目にしたヒラタは思わず近くにいた同期に話しかけた。

「朝日課長が朝からずっと無理めな相手にばかりハロウィンを仕掛けてるんだけど、心臓に悪いんだよー」

「昼のやつでしょ?怖いよね」

ヒソヒソと話していると、人影がヒラタの隣に現れた。

「怖かった?」

笑顔の木下次長がかぼちゃと黒猫のクッキーを差し出しながら話しかける。

「新人ちゃんたち、まだこの時期ならビビらせられそうだから、イタズラしてみた。ごめん!」

木下次長の後ろでニコニコする朝日課長。

そしてその後ろでニコニコするお局様ペア。

大岩さんが、「ほら、悪趣味すぎ」

杉本さんが、「ほら、嫌われろ」

と言って二人同時に「ごめんね」と、こちらへコンビニで買ったであろうエクレアとシュークリームを投げてよこす。

「でも、私たちの事は、今後もお局でいいから」「怖がってていいから」

と、くるりと身を翻して颯爽と去っていく。

木下次長が朝日課長と二人でペコリと頭を下げる。

「そんなに悪趣味?お詫びになんか奢るけど、な、朝日?」「え?ぼく?もーちろん、ごめんね」

ヒラタと同期は目を合わせて同時に頷くと、変な会社に入ったもんだと言う気持ちの代わりにため息を吐き出した。

この日ヒラタは入社以来初めて、朝日課長に話しかけた。

「課長、私、お寿司が食べたいです。」

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