第9話 『時々、ほころび、しすたーず』
「ただいまー」
時刻は17時30分。
ホームルームが終わってから、門のところで待ってみたけど、今日はお兄さんに会えなかった。
今思えば、連絡すればよかったなって思ったけど、なんだかお兄さんに悪い気がして、結局連絡することができなかった私の落ち度なのだろう。
少し落胆の気持ちを抱えたまま、開けた玄関のドア。
見慣れたローファーの隣に、自分の脱いだ靴を並べると、ほのかに香ってきた味噌汁の匂いに、リビングへと顔を出した。
「お姉ちゃん、ただいまー」
すると、キッチンの向こう側で、味噌汁の味見をしていたお姉ちゃんが、口からお椀を離し、こちらに視線を向ける。
「おかえり、夏海。今日はちょっと遅かったね」
それに私は、「うん。まぁね」と返すと、リビングのソファーへと腰を落とす。
リモコンでテレビをつけると、お姉ちゃんはまた、フライパンを熱し始めた。
別にお姉ちゃんとは、特段仲が悪いわけでも、良いわけでもない。
強いて言うのなら、まだ好きの方へと天秤が傾いている程度であって、正直ふとした瞬間に嫌いの方へと傾く可能性は大いにある。
……。
いや、そんな事を言うと、なんか私が性格悪いみたいに聞こえそうだから、ちょっとだけ補足を入れる。
昔は大好きだった。
明るくて、どんな事にも挑戦しようとして、でも時々大失敗して傷を作って。
それでも、自分なりの信念を貫き通そうとするその姿勢は、私の1人の姉として、すごく誇らしかった。
……それなのに。
ぼーっとテレビを眺めていると、キッチンの方から聞こえてくる包丁の音に混じって、ポコロンというスマホの着信音が鳴った。
同時にお姉ちゃんが動かしていた包丁の音が止まる。
「……お母さん、今日はちょっと遅れるって」
「……ん。じゃあ私先にお風呂」
しかし、その瞬間。
「もしあれだったら……先私達で食べちゃおっか」
そんな、お姉ちゃんの言葉に、私は「え?」とそちらへと顔を向ける。
だって、意外だったから。
何事にも、お母さんの言いなりみたいになっていたお姉ちゃんの、その言葉が。
「どうかした? 夏海」
「……ううん。なんでもない。先食べよ」
ゆっくりとソファーを立ち上がり、キッチンに設置されたテーブルへと腰掛ける。
すると、コース料理のレストランのように、お姉ちゃんは着々と白く光を反射するご飯や、ぼんやりと湯気の立ち上る味噌汁を運んできた。
その後に運ばれてきた、心地よい色のオムレツや、綺麗な長方形の卵焼きに、なんでこんな上手に作れるのだろうか。
なんて、少しだけ嫉妬したのは内緒にしておこう。
しばらくして、短くなってしまった髪を揺らしながら、ゆっくりと向かい側に腰をかけたお姉ちゃん。
「それじゃ、食べよっか」
「うん。いただきます」
「いただきます」
部屋に響いた、2人分のいただきます。
箸の先端が小さくぶつかる音や、味噌汁のお椀をテーブルに戻すときの音。
そのどれもが、些細で小さな音なのに、どうして今日はこんなにも耳に届くのだろう。
テレビの芸能人の声は、舌の上に広がった卵焼きの、出汁の香りにそっと溶けていった。
「……ふふっ。美味しい?」
「……うん」
「そっか。よかった」
そう向かい側で微笑んだお姉ちゃんは、小さく切った卵焼きを口へと運ぶ。
その可愛らしい唇がもぐもぐと動いているが、なんだかその端っこがいつもよりも持ち上がっているような気がして。
「ね、お姉ちゃん」
「……ん?」
口の中のものを飲み込んだお姉ちゃんは、こくりと小首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……ホントになんとなくなんだけど、今日、何か良いことあった?」
すると、お姉ちゃんは一瞬目を見開き、箸を箸置きに戻すと、右手をテーブルの下に潜り込ませる。
その行動に私は一瞬、ん? と思ったけど、
「……ふふっ♪ ちょっとだけ、ね?」
そんな、久々に見たお姉ちゃんの笑顔は、私のそんな疑問すら一瞬で掻き消すほど、衝撃的で。
でも、その笑顔は昔私が大好きな顔だったからこそ、
「……そっか。ね、良いことって何があったの?」
「えへへ。秘密ぅ〜♪」
「え〜良いじゃん〜。教えてよ〜」
私も久々に、綻んでしまったような気がした。
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