第2話 『小さな忘れ物』
「どお? 美味しい?」
テーブルの向かい側から聞こえてきた華奢な声に、俺は口元からお椀を離す。
視界の先で、やんわりと微笑む青い瞳にどきりとしながらも、俺は小さく息を吐いた。
「……うまい」
「そっかぁー。よかったよかった♪」
夏海は嬉しそうに頷くと、「それじゃ私もいただきまぁーす」と、味噌汁の入った黒いお椀に口をつける。
鰹出汁の湯気の向こう。彼女がお椀から口を離すと、小首を傾げて小さく言う。
「もしかして私って、天才かも?」
「いや、自分で言うなよ」
「あはは。いいじゃん、だってお兄さんも「美味しい、毎日作ってくれ」って言ってくれたし、今の所、美味しい派の方が多数じゃん」
「おい待て、今の俺の声真似か? 似てないし、てか、セリフは明らかに着色だ。控訴を申し立てる」
「んー? 身に覚えがありませーん……いっしし♪」
そうやって、子供っぽい笑みを見せた彼女は、卵焼きを箸で持ち上げると、桜色の薄い唇へと運んでいく。
一つ一つの動作がどうも魔性的に見えて、思わずふわりと揺れる前髪を見ていると。
「んっ……ふふっ♪ 」
モゴモゴと可愛らしい咀嚼をしている夏海と目が合って、彼女は小さく鼻を鳴らす。
俺はハッと視線を逸らしたが、やはり彼女には勘付かれてしまっているようで、
「どーしたのお兄さん? あ、もしかして……そんなに私が美味しそうに見えたの?」
「違う、誤解を生むようなこと言うな」
「えー。即答じゃん。ちょっとぐらい考えてくれた方が嬉しいのになぁ〜。あ、それはそうと、はい、あ〜ん♡」
一瞬、しゅんとしたかと思えば、すぐに明るい表情を浮かべる。
その感情の急ターンだけでもなかなか、振り回されているのに、急な『アーン』はかなり情緒がかき混ぜられる。
「お兄さん、お口、あ〜んっ♡」
テーブルに手をついて、前のめりの体制になった夏海。
こちらに近づく箸に挟まれた卵焼き。その向こう側、ふと目に入ってきたのは、第二ボタンまで開けられたシャツから覗く、豊満な胸によって作られた谷間だった。
「——っ!!」
その瞬間、まるで一瞬で沸騰したお湯のように、下半身に血が集まりだして。
俺は誤魔化すように、お皿の方の卵焼きを箸で摘んで、口の中に押し込む。
口の中に広がる、ゴワゴワとフワフワのちょうど間ぐらいの食感と、醤油の香りをモゴモゴと雑に咀嚼しながら、視線はずっと味噌汁へと落としていた。
「え〜。釣れないなぁーお兄さん……はむっ」
そう、不安げに息を吐きながらも、自分で摘んでいた卵焼きを口へと運んだ彼女。
ふと、持ち上げた視線の先、ちょっとだけ残念そうな表情を浮かべる夏海は、少しだけ、麻冬と同じ表情をしているような気がした。
今思えば、香坂夏海とは、俺のカノジョ……いや、元カノであった香坂麻冬よりも、ほんのちょっとだけ付き合いが長かった。
あれは今から1年前。まだ俺が真冬と付き合う1ヶ月前のこと。
塾で、アルバイトをしていた時。日本史担当の俺の元に来たのは、当時受験生であった香坂夏海だった。
当時は背中まで届くほど長い髪の毛をしており、また、性格も今よりもだいぶおとなしめだった。
でも、当時からものすごく美人だなぁ。とは思っていた。
でも、俺もそこまで本腰を入れてバイトをするつもりがなかったため、正直夏海のことは、金髪ロングでクールな清楚な子、程度の印象しか持っていなかった。
しかし、その後麻冬と付き合うことになった俺は、さらにバイト代を稼ぐべく、シフトをいっぱい入れた。
そしてそれは、絶対に志望校に合格したい受験生であった夏海とは、必然と顔を合わせる回数が増える要因になったわけで。
それに併せて、意外にもラノベを読んでいることを知り、好きなラノベで話が盛り上がったことをきっかけに、事務的な関係で終わってしまうことの多い塾で、お互いに名前で呼び合うような仲になった。
最初は無口で無愛想なのかと思ったら、意外にもたい焼き一つで物凄い笑顔になったり。
時には、寝不足で疲れ切っている俺のために缶コーヒーを買ってくれたり。
本当に美人で良い子だな。と、いうのが夏海の印象だった。
しかし、今となっては……。
「それじゃ、私委員会あるから、先行くね」
ばいばーい♪ と、金髪のボブを揺らし、不敵な笑みで玄関を閉めると、少しだけ残った甘いリンゴのような匂いに、そっとため息を吐く。
やっと帰った……。
ほんと、朝から心拍数を上げるのは良くない……。
学校の準備をするため、俺は踵を返し、一歩二歩と足を進めた時。
背後でガチャっと言う音が聞こえて、咄嗟に振り返る。
そこには、さっき家を出て行ったばかりの夏海が、ヒョイっと顔を出しており、
「忘れ物か?」
俺がそういうと、彼女は「半分ぐらい忘れ物」という、いまいちよく分からないワードで返事をした。
「なんだよ、半分忘れ物って」
「えへへ。まぁ、そんなことは置いといて……昨日お姉ちゃんにフラれたってほんと?」
「ごふっ!」
突然の言葉に、思わず唾が変なところに入って、盛大にむせる。
きっとそれは、突如飛んできた槍が、胸に刺さった感覚によく似てるだろう。
呼吸的な苦しみと、傷を抉られたような胸の痛みに、咳をゴホゴホと出していると、彼女はクスクスと笑いながら、靴を脱いで廊下へと上がる。
「えー、お兄さんかわいそ〜♪」
視界の先で、黒色のニーハイソックスが足を止めると、そんな小馬鹿にしたようなテンションで俺の背中をポンポンと叩いた。
「ほら落ち着いてー。ひっひっふー」
それは別の呼吸法だ。
そんなツッコミも、コホコホと止まらない咳にかき消されて行った。
数分後、俺はやっと落ち着いた呼吸で、丸まっていた背中を真っ直ぐにすると、彼女の方へと向き直る。
「お前……からかいやがって……つーか、まだそんなこと、一言も言ってないだろ」
「そんなわかりやすく反応して、今更誤魔化せないでしょ。でも……ふふっ。そっかぁ〜。別れちゃったんだぁ〜、ふふっ♪」
「なんで嬉しそうなんだよ……てか、忘れ物だろ? さっさと取って帰れ」
「えー、お兄さん冷たぁーい。でも、忘れ物は、ものじゃなくてね……」
そう言って、夏海が目を細めた瞬間。
「……んっ」
そんな妖艶な息遣いと共に頬に感じたのは、柔らかくて生暖かい感触と、夏海の頬香り。
一瞬、何が起きたのか。理解が及ばず固まっているうちに、彼女は俺から一歩距離を取る。
俺の視界の先で彼女は、桜色の薄い唇の上を華奢な人差し指でさらりと撫でると。
「これから毎日、お姉ちゃんの代わりに私が慰めてあげるね。おにぃーさん♡」
そう、夏海は魔性的な笑みでこちらを覗き込んだ。
ただ、呆然と綺麗な顔を眺めるだけの俺を前に、彼女は舌なめずりを見せて、くるりと背中をむける。
少し遅れて、ふわりと首の後ろに舞った金色の髪の毛と、リンゴのような甘い匂い。
ふと、自分の頬に手をやり、一部だけしっとりとした場所に触れた瞬間。先ほどの彼女の行動をハッと脳が理解した。
瞬間。どくどくと、一気に火を強めたみたいに早くなる心臓。
さっき夏海は……俺に……。
「ね、おにぃーさん♪」
「っ!?」
ふと聞こえてきた彼女の声に、肩をピクリと動かし、視線をそちらへと向ける。
すでに靴を履き終えていた夏海は、玄関の外に立っており、こちらをニコニコとしながら見ていた。
そして、彼女はふふっと鼻を鳴らすと。
「行ってきます♪」
そう、小さく手を振って、彼女はドアをゆっくり閉めて行った。
そしてドアが閉まる刹那。隙間から、一瞬恥ずかしそうに顔を手で覆っている夏海が見えて。
またさらに心臓を速くする俺であった。
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