第15話『エピローグ』
──これまでの事を話しても、信じてくれる人はいるだろうか?
人生を大きく変えるのは、目に見えないほどの小さく細い棘、触れても何も感じない程の一滴の雫、耳に残らず流れてゆく鳥のさえずり、そんな些細なきっかけで十分なのかもしれない。
何に目を留め、何を見落とすのか。
何に耳を奪われ、何を聞き流すのか。
何に触れ、何を避けるのか。
何に感動し、何に幻滅するのか。
刺さった棘を気にしないのか、それとも不快な痛みを感じ、その小さな傷が周りをどんどん腐らせて拡がり、人の精神を壊していくのか。
一滴の雫を拭いて忘れてしまうのか、そのたった一滴の悪意が、白い生地をじわじわと染めていく様子に、
鳥のさえずりを聞き流す事が出来るのか、その声がいつまでまも脳に留まり、まともな思考を侵し続け、闇に抱かれてしまうのか。
物事をどう捉えるかで、どう判断するかで道は大きく別れる。辿っていけば、きっかけは凄く小さな『何か』。
人生を大きく左右する、ほんの小さな『何か』
もし、葉山悟志が夜の町に出なければ、暴力を受けてなければ、もし酔っ払いと会わなければ、あの時に自分が部屋の電気を点けなければ、祖母が怪我をしなければ……
あの火事のお陰で、責任を感じた両親との関係は少し気まずくなった。
変わらず接してくれた姉の支えが無ければ。
下山美香と出会えなければ、シャープペンシルの芯が無くならければ、美香が白紙のノートに気付かなければ、お礼の手紙を渡さなければ……
もしも美香のあの変顔がなければ……
事の起こりは些細な何か。そこから音もなく静かに広がる波紋のように、物事は大きく膨れ上がりうねりを起こす。
今回の件で、雫を落とし波紋を起こしたのは、あの酔っ払いだろうか?
ではなぜ雫を落としたのか? なぜそこに落とす必要があったのか?
例えばあの日、あの男の身に何かあったのか? 職場で、家庭で、酒に逃げなければならない何かが。
もしそこに葉山悟志の両親が関係しているとしたら、もしも自分の家族が関わっているとしたら……
そんな事はもう分からなくてもいい事だけど。
何が起こるかは、おそらく誰にも分からない。何が正解かも。
立場が変われば正義が悪に、視点を変えれば善意が悪意に。とらえ方は人によって違うのだろう。
高瀬泉が言っていたように、価値観はそれぞれだ。
同じ赤い月を見た大和、美香、悟志と泉。それぞれが感じた思い。
美香も泉も、大和と悟志の内面を見ようとしていた。
この二人の女性がいなければ、不幸を背負い、
肉体と精神が過去に戻ったのは、何だったのだろう。
生きたいと思ったからか? 姉から貰ったお守りのピアスの効力か? 下山美香の想いなのか? 高瀬泉が悟志を救いたいと願ったからか?
それとも笑顔も涙も無くした葉山悟志が「助けて」と心の中で叫んでいたからなのか……
過去を修正しても自分に執着し、襲い続けた葉山悟志を心から助けたいと思えたのは、下山美香との思い出や、高瀬泉の思いを知ったからだった。
──これで良かったのか?
最善とは?
自分を信じて愛することだろうか?
その為に何を信じ、何を愛するか。誰を信じ、誰を愛するか。家族、親友、恋人……
その愛もきっと、蝶が羽根を揺らすような…… そんな些細な、ほんの僅かな出来事で壊れていくのかも知れない。
それでも自分を信じ、愛することが出来れば…… きっと……
目の前のアイスコーヒーは氷が溶け、コーヒーと水が層になり、グラスの中に美しいグラデーションが現れている。
ストローをゆっくりと回し、グラデーションを調和させてゆく。手から離れたストローは、グラスの渦をくるくると回っている。
その何でもない光景を、身に起こった不思議な体験と重ねて、深くため息をついた。
わざとらしい咳払いが聞こえる。
どうも、ため息が大きかったらしい。気まずくなり眉尻を搔いてストローに口をつけた。
駅から少し距離のあるこの喫茶店は、いつも客はまばらだ。珈琲の薫りと、初老のマスターのいかにも紳士といった接客が心地良く、時々利用している。
若いお母さんに連れられベビーカーに包まれている赤ちゃんは、可愛らしい黄色い服を着ている。
男の子か女の子か分からないが、母親の顔を見つめ嬉しそうにしている。
この親子はこの先ずっとお互いを愛し続けることが出来るのだろうか……
蝶が羽根を揺らしても、波紋が静かに拡がっても……
──余計なお世話か……
カウンター席に座っているのは、以前パーカーのフードを被って俯いていた、あの中年の女性。
今はもうフードを被っていない。赤ちゃんの方に体を向けて、暖かく包み込むような笑顔を送っている。
──これで良かったのか?
以前は丁度いい高さに思えた窓際の二人掛けテーブル席だか、今は少し低く感じる。
テーブルの上に無造作においたスマートフォン。電源の落ちた画面に胸のすくような、美しい青空が映っている。
ぼんやりとスマートフォンの中の青空を眺めていると、その空を飛行機が真っ直ぐに横切る。
何とも言えない幸福感を覚え、得した気分になった。
些細な事がきっかけで、トラブルが起こる。でも些細な事が、こんな何でも無い事が幸福感を与える事もある。
どう捉えるかだ。どう感じるか。考え方はそれぞれ価値観はそれぞれだ。
人は常に選択し、後悔を繰り返す。でも後悔するということは、人の気持ちを考えてしまったり、相手の事を分かろうとしたり、思い悩むからこそのような気がする。
後悔しない人は、人の気持ちや考えを、理解しようとしなくても平気なのかも知れない。
下山美香も高瀬泉も、自分を責めていた。それは二人が、相手の気持ちを考え、理解しようと苦悩したからこそ、優しさがあったからこそのように思う。
赤ちゃんの楽しげな笑い声が聞こえる。
見ると、カウンター席のパーカーを来た女性の横に座っている男性が、赤ちゃんに手を振っている。
目の下のほくろが印象的な優しい笑顏…… この人は、あの日の事を覚えているのだろうか?
あのピースサインを……
隣の女性も嬉しそうに笑っている。
──これで良かったのか?
飛行機が通り過ぎた後のスマートフォンの中の青空には、二本の飛行機雲が真っ直ぐに残っていた。
「何を一人でにやにやしてるの? 気持ち悪!」
テーブル席の対面に座っている妻が意地悪く言った。さっきの大袈裟な咳払いをしたのも、この妻だ。
彼女が意地悪を言う時、何故か彼女の眼鏡が漫画のようにキラリと光るような気がする。
「ちょっと見て! ほら」意地悪を受け流し、妻を促す。
「ん? 何」コーヒーカップをつまんだまま、妻が顔を寄せる。
空にかざしたスマートフォンを、妻が覗き込む。彼女の顔がぱっと明るくなった。
手の平の中の美しい青空を、真っ直ぐ伸びた二本の飛行機雲が白く輝いていた。
「手のひらの ひこうき雲だね。願い事したら、叶えてくれるかな?」妻が言う。
ふと、自分の手の平を見てみる。あの深々と
「そうだね。そうだといいね」希望も込めて応えた。
また赤ちゃんのはしゃぎ声が店内に響く。
カウンターの男女が赤ちゃんに向かって、二人揃って変顔をしてピースサインをしていた。
──これで良かったのか……
「うん!
これで良かったんだ。きっと!」
おしまい✌
手のひらのひこうき雲 原口 モ @mo-haraguchi
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