第10話『桜』

     ○

 絶命したはずの大和、真っ暗な闇の中で意識を取り戻す。

 何も聴こえず何も視えない、あの男に襲われて死んだであろう記憶はあるが、他は朦朧もうろうとしている。思い出そうとしても脳のビジョンには、雨が降っているようなザラザラとしたノイズが走り、大和の思考の邪魔をする。



 漆黒の闇は、ポラロイドカメラの写真が浮び上がるように、少しずつ薄っすらと周辺の輪郭をあらわにする。そして無音だった世界にかすかな声が聞こえる。


 ──人の話し声?  




     ○

 四つ歳下の悟志と一緒に過ごすようになって、六年目の春を迎えようとしていた。 

 出会いと言うのは分からないものだ。赤い月の夜をきっかけに始まった、心を閉ざした青年との生活。出会ってからずっと、口数は少ないままだが、日常の些細な会話は以前よりは増えたと思う。


 泉はそれだけで満足だった。世話好きの性格でもあったし、今にも壊れてしまいそうな悟志を、放っておけなかった。人はお人好しだとか、自己満足だとかいうが大きなお世話だ。と泉は思う。価値観はそれぞれだから。なにより悟志を愛してしまっていた。



 悟志というひとの過去に何があったかは知らない。知る必要もないと泉は、思い込むようにしていた。


 もうすぐ桜の季節。

 ──悟志とお花見したいな。悟志の笑顔見てみたいな。




     ○

 泉さんは自分の事を必要以上に聞かなかった。

 過去の事、犯してしまった罪…… 人並みの幸せなど望んではいけない自分を、ただ暖かく支えてくれた。この女性ひとと会うまでは、幸せを望むという考えすら無かった。この女性ひとだけには迷惑をかけたくないと思っていた。


 蒔田大和はどうなったのだろうか? 亡くなったりしていれば、それなりに騒ぎになるだろう。ここは田舎の街ではないから、あの火事の時のように噂話を耳にする事もそうは無いのか。


「今度、お花見行こう! もうすぐ桜が咲くでしょ。二人で行こう」

 泉さんにそう言われて悟志は少し躊躇とまどった。



 ─桜……


 悟志は灰色の花吹雪を思い出していた。




     ○

 桜の木は既に満開を過ぎ少しずつ散り始めていた。花見に悟志を誘ったが、困惑しているみたいだったので、

「あ、いいの。気が向いたらで。ね、無理しなくていいから」


 悟志は申し訳なさそうな顔をしていた。このひとの過去に何があり、何を抱えて生きているのだろう。


 悟志の事をちゃんと知りたいのも事実だが、知ってしまうのも怖かった。また、いつか壊れてしまうかも知れない。それなら今のままでいい。

 そう思う事で、自分を納得させようとしていた……


「話しておきたい…… 話さないといけない事があります。泉さん」


 花見を諦めて2日程経っていた。不意にそう告げられ今度は泉の方が困惑した。

 悟志は泉の眼を真っ直ぐ見ていた。彼の瞳には、確かな光があった。

  



 暴力、孤独、人間不信。親の愛情を知らない彼の人生は常に灰色の雲に覆われていた。

 そして詳しくは語らなかったが、取り返しの付かない罪を犯してしまったらしい。


 悟志の過去を聞き薄々は感じていたし、覚悟もしていた予感。


 ──犯罪とは? いったい……


 泉は悟志と向き合いゆっくりと、なるべく丁寧に、

「話してくれてありがとう。過去は過去だ。それでも生きて来た自分を大事にしよう! これからだ! 悟志の人生はこれからだ」


 悟志は黙っている。



「私は何も変らない。今までと何も変らない」泉の言葉を黙って聞いていた悟志が口を開く。


「……花見に行きたい。泉さんと」悟志は無表情のまま呟いた。


 嬉しかった。本当に嬉しかった。




     ○

 散り始めてはいるが、おそらくまだ満開と言ってもいいだろう。見事な桜の木を前にして、悟志は不思議な感覚におちいっていた。


 一本だけぽつんと立っている桜の木。泉さんは毎年この桜を見て元気を貰っている、と嬉しそうに語っている。


 何より、悟志を驚かせた情景。


 空を見上げると晴れ渡る空、鮮やかな青色が、地上に近付くにつれ優しく薄くなる。

 美しいグラデーションを背景にした一本の桜の木は、陽光を浴び、まるで神が宿っているかのような威厳があり、舞い散る花びらも暖かい光を浴び、キラキラと輝いている。


 ──桜色……


 そう。悟志の瞳はこの美しい情景を鮮やかに捉えていた。もう灰色ではない。


 隣に並んでいた泉さんを見る。悟志を見て優しく微笑むその目からは、涙が流れていた。




     ○

 悟志は桜を見上げたままじっと動かない。泉は少し不安を感じながら彼を見る。



 ──泣いていた。


 悟志は泣いていた。大粒の涙を流しながら。泉も涙が溢れてきた。出会ってから初めて見る悟志の涙を見てたまらなくなった。


 悟志がこちらを見る。そして笑った。


「泉さん、こんなに綺麗な世界が…… ありがとう」悟志は顔をくしゃくしゃにして泣きながら笑っている。


 ──そうだ。泣け! 笑え! 貴方は、自由に生きていいんだ。もう一人じゃない。これからの人生、もっともっと笑って泣けばいい!



 良かった。本当に良かった。まさか悟志の笑顔が見れるとは。しばらく二人は泣きながら笑い合った。



 花見の帰り、二人は喫茶店に立ち寄った。店内を包み込む珈琲の薫りが幸福感を刺激する。

 カウンターに座り珈琲を飲みながら、泉がスマートフォンで撮影した桜の写真を悟志に見せ、見つめ合い笑い合う。


 店内にレトロなドアベルの音が響き、二人の目の前でコーヒーカップを丁寧に拭いていた、初老のマスターがドアの方に向かう。


 何気なく見ると、お客さんは車椅子で来ており、マスターはゆっくりと窓際の低いテーブル席まで車椅子を押して案内していた。


 マスターのいかにも紳士といった振る舞いに、

「素敵だね」そう言いながら悟志を見た……



 悟志は震えていた。殆ど飲み干したコーヒーカップを見詰めて震えていた。

 

 泉は出会った日の悟志を思い出し、不安で押し潰されそうになる。




     ○

 ──何故だ、何故こうなる。そうだよな。当たり前だよな。俺は犯罪者なんだから……




 (そうだ。悟志、わかるよな?)

 またあの声が悟志を壊していく。醜く…… 暗く、もっと暗くもっと醜く壊していく。


 

     ○

 あの日から悟志は、音を立てて壊れていった。


 食事もあまり摂らなくなり、夜も眠れていな。いようだ。日増しにやつれて行く彼を見て何も出来なかった。

 あの日、悟志は何を見たのか? 何を思ったのか? ちょっと前まで、泣いて笑っていたのに、桜を見て感動していたのに。泉はもう自身を無くし、途方に暮れていた。



 そんな風になってから五ヶ月程経った。


 最近では、仕事にも行かなくなり、部屋に籠もるようになっていた。深夜に何も言わずにふらふら外に出て、黙って帰って来る。何を聞いても返事がない。


 悟志は、「夜がまた…… やっと…… ……なのに……」 返事の変わりにそんなに言葉を呟いている。

 


 その日は珍しく午後の明るい時間に、出掛けていった。

 声をかけても、やはり返事は無い。ぶつぶつと独り言を言っていた。 

 

 泉は嫌な予感がした。

 胸騒ぎがして台所を見る。

 ──包丁がない!


 言いようのない不安に駆られる。

 すぐに外に出るが、悟志はもう見当たらない! 


 ──どこに行ったの! 悟志……


 まさかと思い桜の木を見に行ったが、そこにはいなかった。あの喫茶店にも行ったがやはりいなかった。どうしていいのか分からなくなって、独り店内でパーカーのフードをすっぽりかぶり、項垂うなだれる。


 過去に、マスターと何かあったのか? 今日も店内で見かけた車椅子の青年が関係しているのか? 青年が店に入って来た時、目で追ってしまったが、青年がこちらを向いたので思わず目を逸らした。


 ここで待ってもしょうがないと思い、喫茶店を後にする。一人で人通りのない歩道をとぼとぼ歩く。





     ○

 蒔田大和の胸に包丁を突き立てた。

 ──分かっていた。ずっと……



 最初から、声など聞こえていなかった。


 自分で都合のいいように声のせいにしていた。声に支配などされていなかった。


 全部、自分で勝手にやった事だ。でも、もう終わった。


 全てが終わった。これでいい。




 ──泉さん…… ごめんなさい。

 悟志の眼から涙が溢れる。




     ○

 薄暗い空間で大和は、微かな人の声をぼんやり聞いていたが、遠くてよく聴こえない。


 少しずつ目が慣れ、どこか懐かしい感じがする部屋にいる事に気付く。


 部屋の電気を点け、部屋の中を見回すと姿見に映った姿を見てはっとする。





 鏡の中の自分は、姿だった。


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