第9話『光』

    

     ○

 自分のせいで顔に火傷を追った少年は、立派に大人になっていた。


 自分はどうだろうか? 

 あの頃のまま常に怯えながら生きている。目立たないように只々生きている。死ぬ勇気は無いのでいっそ事故にでも遭って、この世から消えてしまってもいいとも思っていた。このまま何事もなく時が過ぎれば良かったのに。



 ──出会ってしまった……


 そして再び、ずっと待っていた声が悟志に囁やきかける。

 忌々しい過去、全てを思い出させる闇の塊の様な声に悟志は戸惑いながらも狂喜していた。


(大丈夫、上手く行く)

 ──大丈夫、上手く行く……

   大丈夫、上手く行く……


 再会したのは運命だと悟志は思った。神様はチャンスをくれたのだ。どうすればいいかは分かっている。今は声も聴こえる。自由になる為、この青年はこの世界にいてはいけない。また自分だけの美しい夜を取り戻す為に。


 尾行してマンションも分った、『蒔田まいた大和ひろかず』名前も知っている。偶然を装いマンションの住民と一緒に何度か侵入し、蒔田大和がメールボックスを確認する姿から部屋番号も突き止めた。ある程度の生活のリズムも調べた。後はやることは決まっている。


(早くやろう。急がないと。大丈夫、上手く行くから)

 

 数日後、決行する。いつもの要領でマンションに侵入し蒔田大和の部屋がある四階、共用階段の陰で待つ。日頃は午後七時半頃、帰宅している。

 午後七時 幸い階段を利用する住人は今の所無いが、さすがに落ち着かない。当然だ。今から人を殺めようとしているのだから。しかも、罪のない青年を。


 ──悪く思わないで欲しい。お前さえいなくなれば俺は開放されるのだから。


 とはいえ、喧嘩もまともにしたことがない。どうやって襲う? とりあえず包丁は持ってきた。首を絞めるロープもある。

 部屋に入る時に押し入るか? 大声を出されたらどうする? 抵抗されたら? 


 ──いや…… 彼が死んでしまえば後はどうなってもいい。包丁で何度も刺せばいい……

  



 蒔田大和は中々姿を現さない。相変わらず階段を利用する住民はいない。初めの頃は住民の声、足音、四階の何処かのドアが開閉する度、敏感に反応して身構えていた。

 時間が経つにつれマンションも外も少しずつ静かになって行った。

 午後十時五十分 自分でも思う。よくもこんなに待っていられるものだと。

 マンションを突き止め、おおよその帰宅時間を調べただけで何とかなると思っていたが、仕事や休日等は把握してなかった…… まあ、素人の浅はかな計画なんてこんなものだろう。


 時間の経過と共に固めた筈の決意が、あの時見た灰色の花びらみたいにヒラヒラと剥がれ落ちていく。

 悟志は階段に座り込み、三階に続く踊り場を眺めていた。考えてみれば、そもそも自分は誰も殺めてない。酔っぱらいを突き飛ばした場面も見られて無かったかも知れない。

 だとすれば放火の件も問題無い筈。見られていたとしても今更、記憶が戻る事も無いのではないか。


 そんな事はもうどうでも良かった。本来の目的や理由など関係無い。あの火傷の顔の青年をこの世から消す。それだけが自分の使命なのだから。

 

 午前零時 日付が変わったが、耐える事は慣れている。待つことなど何とも無い。

 高校の授業中、時計の針をじっと見詰めていた事を思いだした。


 今日はもう帰ってこないのかも知れない。もしかしたらずっと部屋にいたのかも。どうでも良くなってきた。でも何故か帰る気にもならない。


 ずっと考えていた。今まで考えたくなかった事、思い出したくもなかった事。悟志にじっとりと張り付いていた負の感情。


 蒔田大和も顔面に火傷を負った事で、ずいぶん辛い思いをしただろう。自分のせいで…… 


(気にするなよ)

 待ち伏せを始めてからずっと黙っていた声が囁き出した。


(人の不幸など心配しなくていいだろ。誰かが幸せになるには、誰かが不幸にならないと。そうだろ、他人の不幸を踏み付けて人は笑っているんだろ? お前も笑って生きてもいいんだよ)


 声は悟志の心を再び醜く歪めていく。


(生け贄だよ。十年近くも経って、わざわざ違う土地で目の前に現れたんだろ? なぁ、悟志! 彼は生け贄なんだよ)

 

 午前二時四十五分 声を聴いた後、このマンションの中は静寂が続いている。

 足音も人の声も聴こえない。悟志は立ち上がり、エレベーターに近づいて行く。この階で長いこと止まっているエレベーターの中の照明は消えている。

 階段の方へ戻る途中、外廊下から何気なく空を見た。

 深夜の空には、気を狂わせてしまいそうな巨大な赤い満月が浮かんでいた。


 しばらく悟志はまるで狂気の象徴の様な赤い月に魅せられていた。


 ふいに、エレベーターに明かりが灯り下へ向かって動き出した。悟志は再び階段に戻り身を潜める。


 一階まで降りて行ったエレベーターは、そこで止まったまま動きが無い。




 不思議に思ったが悟志は座り込み、また踊り場を見下ろして階段の段数を数えてみたりしていた。

 

 ── ……っ!


 『生け贄』は突如現れた! まさか階段で来るとは思っても見なかった。『生け贄』は、足音も立てず下を向いてだるそうに踊り場に現れた。悟志は静かに立ち上がり二、三歩後方に下がり、標的を見据える。 


 こちらには気付いて無い。酷く疲れているよに見える。どうしてもこの青年の苦労が脳裏をかすめてしまう。が、

(行こう、悟志。こいつは不幸なんかじゃないよ。あの仔犬みたいにキャンキャン吠える娘を見ただろ。こいつは守られているんだ。お前はどうだ? 誰が守ってくれる? ……悟志、俺が付いてる。大丈夫、上手く行く)


 悟志は勢いよく『生け贄』を両手で突き飛ばした。

 あの時の酔っぱらいと同じように。無防備だった青年は、驚くほど軽くふわりと宙を舞った。ゆっくりと花びらのように落ちてゆく。さっき迄眺めていた踊り場が底のない地獄に思えた。


 ──そうだ。灰になれ。

 目が合った気がするが、力のない瞳には悟志が映っていないように感じた。


 何とも形容し難い嫌な音が静寂を破った。底がないように思えた地獄は、思ったより速く『生け贄』を握り潰した。

 仰向けで目を見開き痙攣している蒔田大和を見て悟志は急に怖くなった。

 我に返って踊り場のそれを、横目で見ながら階段を一気に駆け下りた。



 もう声は囁かなくなっていた。




     ○

 空には美しい満月が見える。仕事帰りの静かな街を歩きながら高瀬泉は思った。


「今日はスーパームーンか…… 綺麗だな」


 まるで闇夜の王の様に浮かぶその月は、赤く巨大で『鎮座する』という言葉がよく似合う。

 看護師の泉は、三交替制シフト勤務。今日は午前零時半で上がりだったが現在四時前。ちょっとしたトラブルや後輩のフォロー、何やかんやでこの時間になってしまった。


 面倒見のいい泉は度々こんな事があるが、自分の仕事が好きなので全く苦にならない前向きな性格だ。困っている人の力になりたいと常日頃から思っているが、それは自己満足だと言う人もいる。


 泉は、考え方や価値観はそれぞれなので気にしない事にしていた。


 スマートフォンのカメラで月を何度か撮影してみたが、上手く撮影出来なかった。

 カメラの設定には詳しく無いので、実物の月のインパクトは収める事が出来なかった。それでも泉は満足だった。価値観はそれぞれだ。 


 付近には誰もいないと思っていた深夜の街、泉は向かっている方向の少し先で人影を確認した。

 営業を終えた飲食店の看板の前で座り込んでいる。深夜だが人がいても不思議ではない。自分もそうだしと泉は思った。


 近くまで来ると座っているのは男の人で、地べたに体操座りのような格好をして俯いていた。酔っているのかな? 気分が悪いのかな?


 放っておけない性格の泉は、

「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」と声をかける。


 男の人は一瞬、顔を上げ和泉を見てまた俯いた。改めて見ると微かに震えて、泣いているようにも見えた。呼吸もやや荒い。


「どこか苦しいですか?」泉は少し屈んで顔を覗き込む。




     ○

 『蒔田大和』のマンションから逃げ出した後、悟志はしばらく歩き続けた。静かな夜に悟志の足音だけが響いていた。


 ──これからどうすればいいのだろう? 


 声はあれからずっと黙っている。

 もはや、自分が何をしたいのかさえ分からなくなっていた。考えて見れば最初から自分に考えなど無かったのかも知れない。

 悟志は疲れ、明かりの消えた飲食店の前に座り込む。



 人が歩いて来ている事に気付いたが、顔を上げる気力もなく俯いたままじっとしていた。


「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」女性に声を掛けられたが応えなかった。


「どこか苦しいですか?」そう言って女性は顔を覗き込んできた。


 見上げると女性の後ろに、さっき見た赤い月が見えた。悟志はまた怖くなり、息が苦しくなる……




     ○

 男の人は、やはり怯えているように見えた。呼吸が段々と荒くなっている。泉は鞄から水筒を出して、カップになっている蓋に水を注いで、

「お水です。飲めますか?」そう言って男の人に手渡す。


 男の人は震える手でカップを受け取り水に口をつける。そして一気に飲み干した。泉はカップを受け取り、また水を注いで渡した。


「どうぞ」男の人はまた素直に受け取り、二杯目のカップの水をじっと見詰めていた。


「少し落ち着きましたか?」和泉が尋ねると、

「……はい」震えたような声で力無く返事が返ってきた。

 



     ○

 自分の事を気遣う見知らぬ女性。それ程、他人の眼に自分は哀れに映っていたのだろう。親切にされるのは慣れていなかった。


 ──帰ろう。

 悟志は立ち上がろうとして、よろけてしまった。女性が支えてくれようとしたが、悟志は膝をついた。 


「大丈夫ですか? 無理しないで下さい」言われて女性を見る。



 ──笑っている。

 心配そうな顔の中に、これまで何度も経験してきたあざける、さげすむような顔とはあきらかに違う優しく包み込むような微笑み。

 

 いつ依頼だろうか? こんな風に微笑みかけられたのは。

 子供の頃はこんな事もあったのだろうか? 赤い月の前で優しく微笑む女性を見て、悟志は少しだけ暖かさを感じた。


 もう長いこと感じた事が無かった暖かな光を、女性の微笑みの奥に見た気がした。


 こんな人が母親だったらもっと違う道があったのだろうかと悟志は思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る