第7話『顔』

     ○


 マイちゃんの葬儀から数日後、朝早く目覚めた美香は、またマイちゃんの事を考えていた。出会った頃の事、懐かしく楽しかった思い出、あの時の後悔、柩の中のマイちゃん、そして月に願ったあの夜の事。そんな時、ふと思い出した出来事があった。


 ──あれは、いつの記憶だったろうか?

 何故か気になり始めた美香だったが、中々思い出せずにいた。マイちゃんと一緒にいた時。何をしていたのか、いくつの時だったか思い出せない。しかしその時の会話のやり取りが、美香の脳裏に思い浮かぶ。

 

「何ですか! 何か用ですか!」美香は相手の男に、腹を立てていた。

「ミカちゃん、行こう」

「だってマイちゃん。この人……」

「いいから。行こう」マイちゃんに言われその場を離れた。

「何なの! あいつ!」


 美香は、当時のやり取りを思い浮かべていた。この時の男の顔が、ぼやけてはっきりしない。


「あいつ、失礼だよね! マシで腹立つ!」男から離れても、美香は怒っていた。

「いいって、気にしないから。ね、忘れよう! ミカちゃん」マイちゃんは優しい笑顔で言っていた。


 出会った頃と比べ、マイちゃんはよく笑い明るく素敵な人になっていた。


 美香は早朝から仕事中もずっと考え続けていた。

 ──あの男の顔……

 美香は再び記憶を辿る。


 ──そうだ。桜だ! 


 桜の花びらが散る季節。美香はマイちゃんと二人で、桜吹雪を見ながら歩いていた。落ちてくる桜の花びらを見詰めるマイちゃんの横顔が鮮やかに浮かぶ。耳には、あのターコイズブルーの美しいピアスが小さく光っていた。おそらくマイちゃんがあの怪我をする日の少し前だ。


 マイちゃんが桜の木の前に立ち止まり、降ってくる花びらに手の平をかざした。その横顔を愛おしい気持ちで眺めながら歩いていた。記憶がスローモーションで蘇る。マイちゃんを中心にして、桜の木と美香がすれ違う。映画やドラマで静止画の視点がズレていくシネマグラフような光景。


 桜の木の向こうに男が立っている……


 顔面蒼白の男は、親友の顔を邪悪な物でも見るような眼で見据え、かすかに震えていた。

「……その顔」男はぼそりと呟いた。

 その瞬間、頭に血が上り男に突っ掛かっていってしまった。男はずっと無言だった。あの時マイちゃんは知らない人と言っていた。 


 ──あの顔…… 

 美香はその男の顔が気になり頭から離れなくなっていた。男の顔を鮮明に思い出していた。 




     ○

 悟志は倉庫業のアルバイトをしながら、出来るだけ目立たないように暮していた。他との接触はなるべく避け、職場と職場から歩いて十五分程度のアパートを往復するだけの日々を送っていた。

 時々、何の為に生きているのかと思うことがある。自分でも分からない。ただ、死んでしまうとあの父親に負けた気がする、と訳が分からない理由を無理矢理つけたりしていた。要するに死ぬ勇気は無かった。 


 季節は春、桜の花が散る頃。それは突然訪れた。

 アルバイトの帰り、桜の並木道。その日も仕事で疲弊して部屋に帰る道すがら、桜吹雪を見てはしゃぎながら若い二人組が前から歩いて来る。一人が立ち止まり、花びらに手の平をかざし桜の木を見上げた。

 その顔に吸い寄せられる様に悟志の焦点が合った。ひと目見て直ぐに分った、あの子に間違いない。

 悟志は目を逸らす事が出来ず動けなかった。


「……その顔」思わず悟志は呟いていた。




     ○

 美香は自宅に帰ると、ネットニュースを検索した。辛かったので、これまでニュースや報道は見る事が出来なかった。あの男の顔を思い出してから、まさかとは思いながらも気になって仕方がなかった。 


 さすがに白昼堂々の通り魔事件なので記事は直ぐに見つかった。犯人は、今だ犯行の動悸を語っていないが、やはり最初からマイちゃんを狙った事は間違いなさそうだった。

 犯人は三十三歳の男、佳奈さんに聞いた通りだ。犯人の顔写真、おそらく学生時代の物だろう。それでもはっきり分かる、間違いない。美香は驚かなかった。なんとなく予感していたから。


 ──あの男だ。


 だとすれば、また自分のせいなのか? 自分が絡んだりしなければ。美香はもうどうにかなりそうだった。胸の奥を掻き回される気分がして洗面所に駆け込み嘔吐した。


 洗面台の縁に両手を突き、顔を上げる。鏡に映った自分の顔は涙目で頼りない。ぼやけた頭に男の顔が浮かぶ。あの泣きぼくろが印象的な男の顔もどこか哀しげで頼りなかった。



 美香はマイちゃんが転校して来た時の事を思い出す。教師に連れられ教室に入って来た転校生。教室がざわつく。美香もどう反応していいのか戸惑っていた。転校生も教室での反応を予想していたのだろう、無表情だが諦めているようにも見えた。


 最初は皆、腫れ物に触るような態度をとっていた。教師達もそれは同様だった。あるきっかけがあり美香は転校生と話すようになる。美香が授業中に変顔をして見せた時、恥ずかしそうにはにかんだ顔が今でも忘れられない。その顔を見て美香は、この子は絶対いい子だと勝手に思った。


 その後マイちゃんは、クラスメイトとも打ち解け少しずつだが明るくなっていった。


「あのね、マイちゃん。ちょっと聞いていい? このまま聞かない方が不自然だと思うから……」美香がそこまで言うと、マイちゃんは直ぐに察した。

「あ、いや。話したくなかったら…… ごめんね」美香が少し慌てて言うと、


「聞いてくれる?」マイちゃんは優しく笑った。 


 そして皆が気になっていた事をあっさり話してくれた。 


 マイちゃんから話を聞いた美香だったが、気の利いた言葉が出てこなかった。代わりに静かに涙を流した。

「辛かったね……」

 やっと絞り出した言葉は、相応しいかどうか美香には分からない。『辛かったね……』では済むはずがない程の思いをして来たに違いない。


「聞いてくれてありがとう」マイちゃんは優しく応えてピースサインをしてくれた。


 他のクラスや授業参観の時の保護者など、また学校の外でも転校生は好奇の目に晒され的になった。美香を始めクラスメイト達は、どれ程の力になれたかは分からないがマイちゃんを守り味方になった。

 マイちゃんはそんな仲間達に心配掛けまいと、あえて明るく堂々としていた。本当は凄く辛かったと思う。

 結局、最後まで嫌な目付きで見ていたのは教師や保護者、大人達だった。


 転校して来たマイちゃんの顔には……




     ○    

 悟志は桜吹雪の中、若い娘に絡まれながらもう一人の顔に釘付けになり、動けずにいた。目の前の世界が灰色になり、時が止まったかのような感覚に陥る。桜の木を見上げた人物だけが明瞭になり、周辺の景色は霞んでいた。その人物の周りを、桜の花びらがまるで灰のように舞い散っている。


 ──その顔……







     


 美香 

  ──

 悟志 




     ○

 悟志の頭の中で、あの声が囁き掛ける。

 (いいのか? お前の事覚えてるんじゃないのか? 本当はあの日の記憶あるんじゃないのか?)


 随分久しぶりに聴いた声は、気持ち悪く不快だった。思わず耳を塞ぐがそれは意味を持たなかった。


 (ほら、いいのか? あの時みたいに。 大丈夫、上手くいくって)


 悟志の胸に当時の緊張と不安が蘇る。声は悟志の頭を再び支配しだす。そして気付く。待っていた。心の何処かでこの声をずっと待っていた。この声は自分を正しい道へと導いてくれる筈と悟志は思っていたから。


 ──あの子がこの世界にいる以上、自分の居場所はない……


 悟志は二人の後ろ姿をゆっくりと追って行く。




     ○

 あの男を思い出したからと言って、親友はもう帰って来ないのだからどうしょうもない。


蒔田まいたひろかず』マイちゃんの最後の姿、美香にとって最後の記憶。 ……想い出。

 病院の一室、車椅子に座り笑顔で手を振るマイちゃん。顔には火傷の跡。マイちゃんはよく言っていた。


 ──いつもの事、慣れている。


 無理矢理、変顔して見せる美香に、マイちゃんは、はにかみ照れる。姉の佳奈さんにそっくりな優しい顔。左耳には、佳奈さんとお揃いのピアス。

 美香はあの日、あの赤い月に願っていた。マイちゃんへの想い。ずっと一緒に居たかった。 ……大好きだった。


『お月様お願い事聞いてくれるといいね。ミカちゃん』


 お月様は美香の願い事を聞いてくれなかった。代わりに最悪の贈り物が届いた。


 美香は初めて大声を出して泣いた。子供のように泣き続けた。


 涙で潤んだ視界、美香は鏡に映る自分の背後にマイちゃんの幻覚を見た。幻で現れたマイちゃんは、昔と変わらず困った様に人差し指で眉尻をかいていた。

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