第5話『声』
──何もかも上手く行かない。何故、自分だけこんな目に合うのか?
『葉山悟志 十八歳 高校三年生』
悟志は、しばしば自暴自棄になる事がある。悟志が高校一年生の時、親が離婚した。
両親は悟志の事をお互いに押し付け合った。それから父親と二人で暮らしているが、この父親が最悪だ。
一応会社員として仕事はしているが、家では酒を飲んで暴れ悟志に対して暴力を振るう。体育会系のこの男は、恐らく外面が良く会社では真面目に仕事をこなし、年頃の息子を一人で育てている苦労人を装おっているのだろう。
実際、高校にちゃんと通わせて食費も用意しているので、傍目には息子想いの良いお父さんなのかもしれない。しかし、とにかく暴力が酷い。
日を増すごとに暴力は酷くなり、最近では酒を飲んでなくても平気で暴力を振るう。
悟志の右目の下には泣きぼくろがある。悟志の母親にも同じような場所にほくろがあった。
「お前のその目が母親そっくりでむかつくんだよ! そのほくろが!」
父親は最近、特にこの泣きぼくろに対して言いがかりを付けてくる。理不尽な怒りに対して抵抗したいが、高校三年になった今でも、幼少から大学時代まで柔道をやっていた父親には到底敵わない。
どうすれば相手が痛がるか、どうすれば苦しむか知り尽くしている。風呂場の鏡で自分の体を見るだび、辛くなる。赤、青、紫、どす黒い色とりどりの
──いっそ殺してくれ。
高校生活でも居場所はなく、陰湿ないじめの的。
最初の頃は、わざと聞こえるように悪口を言われたり無視されるなど、地味なものだった。
今では教室の机は落書きだらけ。登校すると毎朝黒板に嫌がらせのメッセージ。教科書等は原形を留めていない。トイレに行けばびしょ濡れにされる。
無関心な教師も同級生達と似たようなものだ。いつからこんな風になったのだろう。何故こうなったのだろう。親の離婚で自分が変わってしまったのか。いや、もっと前から…… 全部、自分が悪いのか。
授業中はずっと、百円ショップで買った見るからに安っぽい腕時計の針を目詰めている。
速く時間が過ぎてくれ、速く授業が終われと念じている毎日。休み時間も寝た振りをしているが、周りの会話が気になる。「キモい」「邪魔」そんな言葉や笑い声が聞こえる度に心がざわざわする。
悟志は今日も授業が終わるまで必死に耐え、ホームルームが終わると逃げるように教室を出る。
その背中に嘲笑が突き刺さる。
居心地の悪い学校を出て地獄のような自宅に向う。自宅迄の景色は灰色で、すれ違う人達はまるで無表情の面を被っているように見える。
住宅街にある古いアパートの一階の右端し、隣の部屋は長いこと空き部屋。鍵を開け中へ入る。
今の時間、父親は居ないが後で帰ってくると思うと、まだ父親が居ないこの部屋も決してくつろげる空間では無い。部屋全体に黒い
しばらくして、玄関が開く。
──帰ってきた……
半分諦めているつもりだが、毎回帰って来る度に動悸がしてくる。
父親は帰って来るなり、冷蔵庫からビールを取り出しテレビの前に座る。
悟志は息が詰まる思いで、部屋の隅に膝を抱えて座り込み気配を消していた。父親が酔い潰れて寝るまでの、いつも通りの長い時間。まるで身体が畳に沈み込んでしまうような重く長い時間。
そしてまた言い掛かりをつけながら、悟志の部屋に来て暴れだす。出来るだけ違う事を考えて耐えようとするが、肉体的な痛みからは逃れようがない。痛みを感じると心が折られる。悟志が心を折られても、暴力は止まず痛みは続く。
──この男が居なくなれば……
そんな事を考えるが、この男を殺す勇気は無く自分が死ぬ度胸も無い。
勝手に暴れ暴力を振るった父親は、勝手に潰れて寝る。こんな状態でも、朝にはちゃんと起きて支度をして出勤する。そして何食わぬ顔で良い人ぶって仕事しているのだろう。
悟志は眠れない夜、部屋から出て近所をうろうろする。散歩というよりは、部屋にいるより空気が澄んでいて、人と会うことも殆ど無い夜の町は、悟志にとってせめてもの癒やしだった。
月明かりの夜の町は、昼間の灰色の景色より遥かに美しい。悟志はこの空気の澄んだ美しい夜の町だけが、自分を受け入れてくれる世界だと信じていた。その日は、隣町の住宅街まで来ていた。
何度か来た事があったこの住宅街は、坂道が多くまるで迷路の様に道が入り組んでいる。初めての人はきっと迷ってしまう。特に夜などは、地元の人間じゃなければ目的地に辿り着けないだろう。
悟志の足が止まる。カーテンの閉まった民家の窓に自分の姿が映る。幸薄い顔をじっと見詰める。泣きぼくろがより一層、不幸な印象を与えている。
ふと悟志は足音に気づく。
周りを見回すと、どの家も電気は消えている。足音の主の姿は確認出来ない。足音はしだいに近づいて来ている。不規則で、時折引きずるような足音。
悟志に緊張が走る。
路地の角から何者かが姿を現した。暗くて良く見えないが、酔っているのかふらふらと歩いている。男だ。
──まさか、あいつ!
悟志は一瞬父親かと思い呼吸が苦しくなる。
が、近づいてくる男は父親ではなかった。酷い千鳥足で今にも倒れそうだ。妙な足音はそのせいか。ほっとする悟志。
火が点いてない煙草を咥え、片手にライターを持っているのが見える。男の動きを警戒しながらすれ違う時、
「おい!!」男が怒鳴る!
悟志は突然の事に身をすくめる。
「何だ! おまえはぁ!」絡んでくる酔っぱらい。
悟志は身体が硬直して声を出せない。
「あ! なんだよ! おっ、こら!」しつこく絡んでくる。
──何もかも上手く行かない。何故、自分だけこんな目に合うのか?
悟志はそう思い辛くなる。自分を受け入れてくれると思っていた、この夜の世界にまで裏切られるのか?
男は倒れそうになりながら悟志の肩に掴み掛かる。
「聞いてんのか! こら、お前だよ!」
父親と比べるとずっと小柄なこの男だが、アルコールの嫌な匂いがあの地獄を思い出させる。
「なんだぁ! その目障りなほくろは!!」
『お前のその目が母親そっくりでむかつくんだよ! そのほくろが!』
悟志は、産まれて初めて『キレる』と言う感覚を覚えた。様々な事が頭の中を駆け巡る。
父親の事、同級生、教師、自分を捨てた母親、ゆっくり動く時計の針、灰色の街、面を被った人々、自分を裏切った夜の街、忌々しい泣きぼくろ。自分を支配していた負の感情が次々に湧き出て来る。
酔っぱらいが悟志の両肩を掴み揺さぶりながら何かしゃべっているが、悟志の耳には何も入ってこない。爆発しそうな位、体の中から物凄い怒りが込み上げて来るのを感じていた。
──殺してやる!
気付くと悟志は信じられない程の力で、男を突き飛ばしていた。
男は鈍い音と共にブロック塀に衝突し派手に転倒する。そして人形の様に身体のパーツから力が抜けて行くのが分かる。
悟志は我に返る。見下ろすと頭部から流血した男がうつ伏せで寝そべっている。恐る恐る近づき軽く蹴ってみるがピクリとも動かない。
──本当に、殺してしまった。
悟志は意外な程落ち着いていた。周囲を見回し、ふと気付く。民家の二階に電気が点いている。
さっき迄は電気が点いている部屋は一つも無かった。悟志の眼はその部屋に釘付けになる。カーテンの隙間から、こちらをうかがっているような人影が見えた。子供か? その小柄な人影は部屋の中を行き来して、倒れるようにして見えなくなった。しばらくして電気が消えた。
──見られた?
そう思った時、声が聞こえた。いや、頭の中で何者かの声を聴いた。その何者かが悟志に囁やきかける。
(お前、見られたぞ。どうする? 分かるよな。 このままじゃ駄目だよな)
「隠さないと……」悟志は静かに呟く。
男の側に落ちているライターが目に入る。そのライターを拾い、あの民家に向う。
(そうだ。心配ない。お前は正しい)
ライターを手に取り民家の庭に忍び込んた悟志は、ごみ箱や木材など数カ所に火を点けその場を立ち去った。
アパートに戻りそっと部屋に入る。布団に潜り込むが、しだいに怖ろしくなる。
──とんでもない事をしてしまった…… もう終わりだ……
(大丈夫。上手く行く)
頭の中でまた、声は囁く。
悟志は眠れずにいた。しばらくすると深夜の住宅街に消防車のサイレンが鳴り響く。悟志は耳を塞ぐが、けたたましいサイレンの音は脳に直接こだまし続けているようだった。いつまでも、いつまでも……
(大丈夫。上手く行く)
サイレンと共に囁き続ける声。その声に悟志の頭は、完全に支配されていた。
──そうだ。上手く行く。俺は悪くないんだから……
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