第2話『月』

 すっかり帰りが遅くなってしまった。親友の美香と食事をし、その後カラオケに行って店を出た時はもう午前二時を過ぎていた。

 

 美香が興奮気味に言い出した。

「マイちゃん! ちょっと見て! ほら、あれ!」


 自分のマンションまでは歩いて帰れる距離だが、美香がタクシーを利用するため大通りへ向う途中だった。


「え? 何、どこ?」

「あれ、あれよ。 あれ月だよね?」美香が指をさす方向を見て応える。


「ああ、月だね……」

「月だよね! でかくない? で赤いし! 何か怖!」

「うん。確かにちょっと怖いね」

「月ってたまにでかいよね! しかも赤いとめっちゃ怖くない?」


 美香に言われて、確かにそう思った。改めて見ると、巨大な赤い満月が深夜の空に異様な存在感を放っている。


「たしかスーパームーンってやつだね」天体に詳しい訳ではないが、美香に言う。

「へぇ。スーパームーンって言うより、ホラームーンって感じだよね」

「はは、そうだね」

「うん。でも月って何か不思議な魅力があるよね、惹かれるというか……」

「そうだね。不思議だね。でもおっきい月見ると何か得した感じもするけどね」

「わかる! でも、赤いのはやっぱり不気味だなぁ」美香は自身の両肩を抱いて震えて見せる。


 そう言いながらも美香は、あの月に見入っている。自分も同じく不気味な魅力を放つ赤い月から眼が離せずにいた。赤い大きな月を見ていると、巨大な球体が溶けて血が溢れ出す情景を想像し、少し怖くなった。


「願い事したら叶えてくれるかな?」 

 美香は月に向かって目を閉じ、手を合わせて祈る様な格好をする。

 美香が急に可愛らしいことをやり始めたので、少し可笑しくなってわざとらしく優しい声で言う。

「お月様お願い事聞いてくれるといいね。ミカちゃん」

「おちょくりやがって!」そう言って美香が肩を叩く。 

 お互い顔を見合わせ笑い合う二人。


 美香との出会いは中学の時。


 自分は美香の事を親友と思っているが、思い返せばいつも美香に助けられてばかりだった。出会ってから今日まで感謝してもしきれない程の恩がある。中学二年生の三学期、転校した先の学校で、クラスメイトとして出会ったのが『下山美香』だった。


 周りの目を気にしてまだ新しい学校に馴染めずにいた自分に、美香は気さくに話し掛けてくれて次第によく話をするようになった。

 きっかけは、ある日の三時限目終わりの休憩時間、自分の席の近くを通った髪の長い小柄な眼鏡の女子に声を掛けられた。


「もしかして目が悪い?」

「え?」突然声を掛けられて驚いたのと、質問の意味が分からず困惑した。


「あ、いやノート全然取ってないからね。視力悪いのかなと思って」

 自分の机の白紙のノートを見て、なるほどと思った。


「先生に言ってあげようか? 席、前の方がよかったら。大丈夫?」


 恥ずかしくなり白紙のノートの理由を白状する。

「あ、えーと。ごめん、ごめんなさい。芯がなくて…… シャーペンの、無くなってしまって……」

「何だ」素っ気なく言うと、眼鏡女子は自分の席に行ってしまった。 


 顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなり俯いていると、眼鏡女子がまたスタスタ近づいて来て、

「はい! これ上げる」眼鏡女子は、クリアブルーの綺麗なシャープペンシルを一本差し出して来た。 


「いや、そんな……」

 戸惑って恐縮していると、

「いいの。文房具大好きでたくさん持ってるから。可愛いでしょ。使ってもらえると嬉しいしさ。ね!」

 何も言えずに黙って受け取ってしまった。


「下山美香。よろしく!」

「あ、あの」 

「またね。マイッチ!」

 ─マイッチ……


「あ、マイちゃんが良かった?」一方的に喋って眼鏡女子の下山美香は、さっさと席に戻って行った。


 人の視線に常に怯え、上手く接することが出来なくなっていて、この時も美香に感謝の言葉が言えなかった。でもどうしてもお礼を伝えたいと思い、休み時間に教室の人気が少ない隙を見計らって、美香の机のペンケースの下にメモを滑り込ませた。この時の緊張は今でもはっきり覚えている。

 なぜか、この時は勇気を出せた。


 [シャーペンありがとうございます。

 大事に使います。あと『マイちゃん』の方でお願いします。]


 次の授業中、教室の右斜め前から視線を感じた。

 見ると美香がこちらを見ている。自分と目が合うと美香は、ピースサインをして変顔をした。

 この時の気恥ずかしく、とても嬉しい気持ちは今でも忘れられず、思い出す度にやけてしまう。


 美香との出会いはこんな感じだ。一見、目立つタイプではない眼鏡女子の美香だが、正義感が強く裏表がないので男女関係なく人気があった。

 そんな美香が親しくしてくれたお陰で、最初は腫れ物に触る様な態度を取っていたクラスメイトも、段々と話し掛けてくれるようになった。


 その後、美香とは高校も同じで高校を卒業し二十三歳になった今でも付き合いが続いている。

 美香はどんな時でも、不器用な自分の味方になって助けてくれた。

 美香との出会いは、人生に不安を感じていた自分を前向きにして、笑顔を取り戻してくれた。他に友達も出来たが、お互いに気を使わない美香との関係は居心地がとても良い。


「じゃあね、マイちゃんありがとう。気を付けて」

「うん、ミカも。また連絡する」


 タクシーに乗った美香に別れを告げると、一人でマンションへ向う。

 夜は少し肌寒かった。一人になると、よりそれを感じた。空を見上げると赤い巨大な満月は相変わらず圧倒的な存在感で、まるで自分の事を空から見ているような気がしてくる。


 マンションに辿り着いたのは午前三時前。エレベーターの前に立ちボタンを見る。

 このマンションのエレベーターは、五分なのか十分なのか知らないが、しばらく動いてないと階数を表示する画面が省エネのためか少し暗くなる。


 エレベーターは四階で止まって【4】という表示は暗くなっている。深夜だという事もあり、しばらくエレベーターも休んでいたのだろう。部屋も四階。


【↑】のボタンを押す。【4】の表示がパッと明るくなり、エレベーターは【3】……【2】……【1】と降りてくる。


 一階に到着したエレベーターのドアが開き始める。手にぶら下げていたバッグをサッと肩にかけ直して、中に入ろうとした……

 ─えっ!!

「うわっ!」一瞬、我が目を疑った! 


 止まっていたはずのエレベーターの中に人が乗っている! 


 心臓が口から飛び出しそうになる! 怖くて顔は見なかったが、乗っていたのは血まみれの男だった。男は急に、掴み掛かろうと手を伸ばしてきた!


 ──何なの! 嘘でしょ!

 混乱する頭で必死に考える。


 ─とにかく逃げなくては!

 階段で四階の自分の部屋まで逃げようと走り出す。


「おい! 待て!! 頼む待ってくれ! おい!!」男が、怒鳴る。


 ──いや、無理ですって! 怖すぎる!


 男の怒鳴り声を背に、もつれる足でパニックになりながら死にもの狂いで階段に向かって走る。しかし、ある考えがよぎる。

 ──もしかして、怪我をして動けずにいたのか? 助けを求めていたのか?  


 誰もいないと思いこんでいたエレベーターの中から、血まみれの男が突然現れ、掴まれそうになり怒鳴られたので、恐怖のあまり逃げ出してしまったが…… 

 もしそうだとしたら大変だ! 後ろが気になり振り向いた……


「……は? えっ!」エレベーターの方を見ると男がいない。


 誰も乗っていないエレベーターのドアが、ゆっくりと閉まり出す。


 ──消えた? 何が起こった?


 思考が追いつかない。訳が解らない。見間違いなんて有るはずがない。声もはっきりと聴いた。怒鳴り声がまだ耳に残っている。


 周りを見廻してもやはり誰もいない。静まり返った深夜のエントランス、しばらく放心状態でドアの閉まったエレベーターを見ていた。


 ──早く部屋に帰ろう、疲れてるんだな……


 エレベーターは、一階で止まったまま【1】の表示は明るく光っていた。さすがにエレベーターに向う勇気は今はない。一気に気力と体力を消耗し、疲労感が重くのしかかる。

 放心したままエレベーターに背を向け、そのまま階段で行くことにした。俯いたままゆっくりと登り始める。足が重い。体が重い。まるで自分の体が粘土で出来ているみたいに。 


 無意識に自分の耳を触る。耳を触った指先にピアスの感触。お守りのピアス。ふと、何年か前に話した美香との会話を思い出す。


「マイちゃんさぁ、高校出てからずっと、そのピアス付けてるよね。佳奈さんから貰ったんでしょ?」

「そうそう、高校卒業のお祝いに」


『佳奈さん』とは、五歳上の姉の事だ。子供の頃から色んな人に、そっくりだとよく言われた。照れくさかったが、優しい姉の事は大好きだったし憧れてもいたので正直嬉しかった。

 高校卒業の記念に、お揃いのピアスをプレゼントしてくれた。「あんたもね、おしゃれしていいんだよ」姉はそう言っていた。


 そんな姉は結婚して実家を出て、別の土地で暮らしている。


「佳奈さん優しくて、奇麗だったもんね」

「そうかな」

「お揃いなんでしょ? いいなぁ」

「まぁ、お守りみたいなもんかな」


 そんなピアスに触れることで、気持ちを落ち着かせようとしていた。顔を上げて階数を確認すると、三階まで来ていた。


 ──あと、一階か……


 重い体を引きずるように、うなだれて残りの階段を登る。そして、何とか最後の段に片足が掛かった時、


 " ドン! "


 不意に体が軽くなる。 


 ……いや、宙を舞っている? 身体は仰向の状態で空中に投げ出された。


 色んな事が起こり過ぎて何も考えられない。考える気力がない。虚ろな視線の先、スローモーションの景色の中に、人影が見えた……


 次の瞬間、全身に恐ろしい程の衝撃! 粘土の様に重かった体に一気に血が駆け巡り、鋭い激痛が体中を走り回る。

 激しい痛みの中で、


 ──ミカちゃんは、月に何を願ったのだろうか……

 

 そんな事を一瞬考え、あの赤い月を思い出す。ほとばしる激痛の中、気絶した。

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