手のひらのひこうき雲
原口 モ
第1話『夢』
また、夢を見た。子供の頃に見た、あの怖い夢。
喫茶店のテーブルの上に置いたスマートフォンの画面に、窓越しの外の景色が映る。スマートフォンの画面の中で雨が窓を叩いている。
駅から少し距離のあるこの喫茶店はいつも客はまばらだ。三十歳独身、在宅でライターの仕事をしている大和は、やる気が出ない時や暇な時に、度々この店を利用している。
カウンター八席、低めのテーブル席が二人掛けと四人掛け、それぞれ二席ずつの喫茶店には、整えられた白髪に同じく白くなった口髭が良く似合う、初老のマスターがいるだけで他に店員はいない。
マスターは無愛想ではないが、必要以上の愛想は振り撒かない。店に入るといつも軽く会釈をして、「どうぞ」そう言って丁寧に席まで案内してくれる。
親切な接客はいつも変わらない。なので足を運ぶ。大和が注文するのは、決まってアイスコーヒー。特にこだわりが有るわけでは無いのだが、冬でもアイスコーヒーを好んで飲んでいる。
四人テーブルにはベビーカーに乗せられた赤ちゃんと若いお母さん。赤ちゃんは可愛らしい黄色い服を着ている。
カウンター席に大和よりも少し歳上だろうか、パーカーのフードをかぶってずっと俯いている陰気な印象の女性。この女性、どこかで見たことがあるような? 何か嫌なことでもあったのだろうか?
まあ、余計なお世話か。
今の所、客はそれだけだ。大体いつも大和は、窓際の二人掛けテーブルに案内される。低めのテーブルが丁度良い。どことなく暗い雰囲気の店内には、聴いたことの無い国籍不明の妙な曲がいつも流れている。
大和は、憂鬱な気分でため息をつく。
ふと、ベビーカーの赤ちゃんと目が合ってしまう。一歳くらいだろうか? 男の子か女の子か分からないが、何とも言えない表情でじっとこちらを見ている。
まだ赤ちゃんにとっては、珍しいものばかりだろうから、こんな自分にも興味があるのか?
照れ隠しに微笑みかけてみたが、相変わらずの仏頂面。泣かれるとマズイと思い視線をそらした。
なんとなく、店内の視線が、自分に向けられているような感じがした。気まずくなり、飲みかけのコーヒーを飲み干して店を出る支度をした。
窓越しに外を見る。硝子に映った自分は、右手の人差し指で左の眉尻をかいている。これは大和の癖で、以前友人から指摘された事がある。
困った時や、気まずくなった時に出てしまう癖らしい。実は店に入った時から何となく、あまりいい気分のしない視線を感じていた。
──いつもの事、慣れている。
何気なく、時計を見る。
午後三時四十分を少し過ぎていた。
喫茶店を出ると雨はもう止んでいた。傘を差すのは面倒なので安心する。
家路に向う途中、向かっている方向遠く先で、作業服姿の男が一人で突っ立っているのが見える。
身体はこっちに向いているが、どこを見ているのかはよく分からない。大和は一瞬気になったが見知らぬ人間と思ったので気にしない事にした。
通りはさっきまで雨が降っていたせいか、人気は殆どなかった。この辺りの歩道は、整然と舗装されていて通行しやすい。また雨が降ってこないか心配しながらそのまま進んで行くが、どうしても前方の男が気になってしまう。
「ん?」男に動きがあった。
たった今まで立ち止まっていた男は、まるで大和を確認したかの様に、こちらを真っ直ぐ見てゆっくりと動き出した。
自分の事を待っていたのか。知り合いか? いや、やはり覚えがない。しだいに男は歩を速める。
大和は例えようのない不安に襲われる。
男はやがて小走りになり、やはりこちらに近づいて来ている。
近づくにつれ見えてきた男の顔は、頬がこけて異様に痩せていた。白髪の混ざった頭の男は、何歳位かなのかよく分からない。
落ち着かない様子の男の口元は、何やら独り言でも言っているのか、かすかに動いているように見える。大和は見覚えのない見知らぬ男に不気味さと恐怖を感じ始めた。
──えっ…… 何! 誰?!
さっきまで小走りだった男は、今は大和に向かって勢いよく走って来ている! 明らかに大和が狙いである事は間違いなさそうだ。血走った目を見開き、男が目の前に迫る!
「ちょっと! 怖い怖い! 怖いって!」思わず声を上げる大和。
目の前に迫った男は、怯える大和を見おろし鋭く光る物を振りかざす。
咄嗟に出した大和の手の平に鋭い痛みが走る。あまりの恐怖で、もう声も出せずにいる大和は、自分の身体がこの場から消えてしまうような感覚を覚える。
そしてまた、あの夢を思い出す。子供の頃から何度も見たあの怖い夢を。最初に見たのはいつだったのだろう? あれは、夢だったのだろうか? 不安と恐怖が入り混じった嫌な夢。
──今のは?
男は、恐怖で固まる大和にさらに襲いかかる。男の右手には刃物の様な物が見える。左手で髪の毛を鷲掴みにされ、右手の刃物で腹を刺され、さらに蹴り飛ばされ大和は転倒する。またどこか遠い所に行ってしまうような不思議な感覚。
──また……
──自分は、死ぬのだろうか? こんな見ず知らずの男に……
大和は考える。
──これは現実なのか? あの夢の続きなのだろうか?
何故、この男はこんなにも哀しい目をして怯えているのだろうか。
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