煙そうそう

 その夜、彼らは各々の部屋に鍵を掛け、眠りについた。それもアランの「犯人は毒物に精通している可能性がある。全員が寝泊まりしているところに毒ガスなんか撒かれたら一巻の終わりだ」という言葉で決まったことだった。有沙としても非常時とはいえ、男女混合で雑魚寝というのは気がひける。それでなくとも気を張りっぱなしだったのだ。少しでも疲れを回復させたかった。それは他の客も一緒だったのだろう。何の文句もなく、素直にアランへ従う様子からは色濃い疲労が見て取れた。

 「有沙ちゃん、これ」部屋へと戻ろうとする有沙の背に声が掛かる。振り返ると鹿野が右の二の腕をさすり擦り立っていた。差し出されている右手には白い錠剤が載せられている。

 「これ、なんですか?」

有沙が問うと、睡眠薬よ、と鹿野が答えた。

 「こういう異常事態だもの。よく眠れないかと思って」こちらを見遣る鹿野の目は驚くほど冷静だった。

 「鹿野さんはとても落ち着いていますね」

有沙がそう言うと鹿野はふっと静かに息を吐く。

「昔、妹が死んでね。それから、なんだか人って呆気なく死んじゃうものだよなーって妙に冷めちゃったところがあって。あっ、もちろん全く心が動かないわけじゃないんだけどね」

予想だにしない彼女の返答に有沙は一瞬言葉を詰まらせた。

「そう、だったんですか……」有沙は漸くそれだけ絞り出すと、哀しげな笑みを湛えた鹿野を残し、一人、部屋へと急いだ。

 有沙は部屋に入ると急いで鍵をかけ、ホッと一息つく。手には鹿野に貰った睡眠薬が未だ握られていた。白い錠剤は一見して、そこいらの薬局で貰うものと変わりないように思えた。しかし、万が一ということもあり得る。手に握りしめたそれを有沙は一瞥するとゴミ箱へと放った。

 寝間着へと着替え、ベッドに横たわること一時間。時刻は午後十一時を回ろうとしていた。

 煙草が吸いたいなぁ。

 悶々と今日という一日を振り返っていた有沙の脳裏にふと、そんな言葉が浮かんだ。

 一度、湧いてしまうと欲求というのは抑えつけようとするほどに強くなってくるのが世の常というもの。

 思いついたが吉とばかりにベッドから飛び起き、箪笥の中に掛けていたトレンチコートを取り出す。胸ポケットには有沙が愛好する白黒の四角い箱がちらりと見えていた。

 室内に灰皿がないのを確認し、コートを羽織って、廊下に足を踏み出す。とっくに消灯時間を過ぎている今、窓から差し込む月の光とスマホのか細いライトだけを頼りに有沙は階段を下った。木造の階段は踏み出す度、僅かな軋みを立てる。影になっているところは暗として知れず、その闇に佇む何者かがいても見つけることは容易ではない。

 ようよう降り立った一階のロビーはしんと静まり返って、一昨日の喧騒が嘘のようであった。階段はロビーの真ん中に位置しており、喫煙所は向かって右手。更に奥に進むと湯煙の間、渡り廊下を進んだ先の突き当りには男湯が右、女湯が左にそれぞれある。一方、向かって左側には受付所、並びに自販機とコインランドリーが設置された遊戯場があり、その前を通り過ぎると御手洗いとなっている。この御手洗いの手前には宴会場の入り口があって、角を左に曲がったさきはスタッフルーム及び厨房というのがこの旅館一階の構造となっている。二階の殆どは客室となっており、昨日亡くなった在原を含めた七人の宿泊客は全員がこれらの部屋を使っていた。

 大まかに言えば、L字型をしたこの旅館は崖を背にして立っている構造上、L字の中腹、凹んだところなどは現時刻、一切の光が差し込んでいなかった。最早、スマホのライトでも殆ど辺りを見渡すことはできず、精々が足元を照らす程度。

 記憶を頼りに有沙は喫煙所の扉を開け、中へと入る。手に握った箱から一本煙草を抜き取って口に咥え、火をつけた。静寂に支配された喫煙所にカチリとジッポの音が響いて、立ち昇る煙が炎に照らされていた。

 在原は。在原は昨日の夜、何時どうやって、誰に殺されたのだろう。

 ニコチンが口腔から喉を通り、肺を満たす。有沙の脳がその喜びに震え、段々と意識はこの旅館で起きた一つの事件へと収束していく。

 そもそも、あれは殺しだったのだろうか。実際に現場を見たアランと吉川、この二人はどうやら殺しを信じて疑っていない様子であったが、中毒死といえば自殺の常套手段。しかし、在原の死に対して他の誰もがこの疑問を呈さないのには彼の人柄によるものだろう。

 「けど、在原の腕にあったあれは……」昨日、彼が袖をめくった際に見えた白い線。一瞬ではあったが、遺留品である多くの薬物と併せて考えると注射痕でまず間違いない。ともすれば、彼はドラッグの常習犯であり、日頃から摂取していた違法な薬物の数々に身体が保たなかったなんてことも考えられる。

 それでも、アランたちが殺しであると踏んでいる理由を知りたいが、現状疑われそうな要因は作りたくない。せめて、犯人の目星でも付けば良いが……。

 「あっ」ふと、意識の表層に浮かぶものがあった。アランたち、現場を見た人間以外に殺しを断言していた人物がいたではないか、と。

 ただ、それは疑惑のきっかけではあっても決め手にはなり得ない。 

 何か。何か証拠でもあれば。

 そう思う有沙の足は自然と旅館を抜け出し、離れの倉庫へと向かっていた。

 冷え冷えとした秋の山。冴え冴えしき月の光に照らされ。どんよりとした空気が木造の簡易な小屋を覆っているような気がした。その雰囲気に呑まれ、有沙の足が竦む。

 ──またあの時みたいに変な正義感で人を殺すの?

 意を決し、一歩を踏み出そうとしたその瞬間。頭の中で声が響くのと冷気を切り裂き、聞き覚えのある声が耳朶を打ったのはほとんど同時だった。

 「何されてるんですか? 」驚きに目を見張り、声のした旅館の方へと目を向ける。そこに居るのが誰なのかを認め、有沙は息を呑んだ。

 立っていたのは鹿野だった。ロングコートにジーパンといった服装をした彼女はゆっくりとこちらへと向かってきていた。丸眼鏡に月光が反射し、その瞳の奥に映る感情は窺えない。

 「何をしてるの? 」再び声が掛かる。鹿野が一歩踏み出すたび、有沙はじりじりと後退を余儀なくされる。冷や汗が額を流れ、背中が壁に当たる。まずい。

 最早、ここまでか。

 目を閉じ、瞼の裏に広がるのは悔恨と懺悔。そして、一人の少女。彼女が微笑んでいる。そうおもう何故、と。如何して、と。一匙の煙を残して行くのも悪くはないかとそう思えた。

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