オール・ハブ・タトゥー
「有沙ちゃん、お風呂上がりに一杯付きおうてや」
温泉から上がり、脱衣室から渡り廊下を歩いて三十秒。有沙は湯煙の間と名付けられた和室で涼んでいるところだった。
在原は有沙同様、備え付けの浴衣に着替えている。あの隈取みたいなメイクは鳴りを潜め、色白の顔が幽鬼のようにゆらりと立っていた。
「私、お酒は飲めませんよ? 」
遠慮がちに有沙が断ると在原はあぁ、ちゃうちゃうと大仰に手を振る。
「風呂上がりに飲む言うたらあれやろ。コーヒーギューニュー。こっちの男連中、アラン以外オジサマでソフトドリンクよりお酒やて。で、アランはアランで早々に部屋へ行って荷物纏めるとかでおらんなるし。あっ、アランってあの彫りぶかのイケメンやで」
マシンガントークとはこの事かと思わされる一息の勢い。この関西弁を操る在原という男はよく口の回る人物で、有沙はまるで著名なコメディアンの漫談を聞いているような感覚に陥る。
「せやで、現役JDとお近付きになろうなんて下心はこれっぽっちしかないんや」人差し指と親指の間を一寸程度開き、在原が言う。
「まぁ、そういうことでしたら……」
有沙が了承の意を示すと在原はニコリと笑う。
自販機は大浴場を出て、左手すぐの所にあり、近くには男女別のトイレがあった。じゃあ有沙ちゃんの分は俺の奢りや、と旅館に設置された自販機へ四枚、硬貨を投入した。
十番のボタンを押すとガコガコと自販機の中で機械が動き、指定された飲み物の瓶を受け取り口へと投下する。
「ほい、有沙ちゃんの分」
「ありがとうございます」有沙は差し出された珈琲牛乳を受け取り、礼を述べる。
瓶の蓋を開ける瞬間はいつだってノスタルジーを感じる。プラスチック製の柔らかなそれに指を引っ掛け、ポンッとため息が吐き出される音。口許を濡らす褐色の液体はいつまで経っても上手に落ちてはくれない。
「なんや、アンタなんでタトゥーなんか彫ったん」
喉を鳴らし、一息に瓶を空けた在原が開口一番、水を向けたのはタトゥーの話だった。
先程、鹿野によるミステリ講義が始まる前にもあった件のやり取り。しかし、その時に話題に上ったのはデザインの話くらいなものだった。こうして、ホワイに着目されるのはこの奇妙な一致を共有する身として、避けては通れない事だろう。
有沙は一口瓶を傾け、カラカラに乾いた喉を潤す。
「私は……そうですね。忘れないためでしょうか」
躊躇いがちに言葉にしてみたはいいが、中々あとが続かない。──私がこの言葉を口にしてもいいのだろうか?
胸中を渦巻く疑問に答えを出せないまま、されど、進まぬわけにも行かず。
「忘れへんため? 」
在原に促され、やっとの思いで口を開く。
「私、昔友人を自殺で亡くしてて。それで」有沙は努めて平静を装おうとするが、中々うまくいかない。どうしても声に幾らかの感情が乗ってしまう。
「あぁ、なるほど……」これまで陽気さを隠そうとしなかった在原の顔も流石にこの時ばかりは曇った。
こうなる事は予期していたはず。それなのに目の前の男に打ち明けてしまったのはどうしてだろうか。答えは分かりきっている。
年齢も職業も別々でありながら、奇妙な偶然で結ばれた今この瞬間がある種の運命だと思ったから──けれども、言うべきではなかった。
ここに来て、有沙はやはり自身の発言を悔いることになった。陰鬱な空気が二人の間に降りる。
「でも、その友だち幸せもんやな」
「えっ? 」
ふと宙を舞った呟きに有沙は面を上げ、在原を見つめる。些か慰めの言葉にしては明るすぎる響きを伴った彼の言葉。そこに一つの光明を見出そうと彼の口から発せられる救いの言葉を待った。
「だってせやろ。あんたの友だちは確かに生きている間は死にたくなるぐらい不幸やったかもせん。せやけど、今はあんたが生き続ける限り忘れられることなく、おれるわけや。生きてても誰からも相手されへん人もおるんやに? そん中では幸せなんとちゃうか」
在原が語ったのはよくある類の戯れ言だ。だって、死はあまりにも残酷で、無慈悲で、最も現実に近い。それは有沙もよく分かっていた。けれど、いざこうして正面切って言われるとそれを信じたいとそう思えてくる。
「おっと、もうこんな時間か。一杯だけの付き合いやったはずやのに堪忍な」
在原が微笑み、手を打ち合わせると先程まで場を支配していた暗い雰囲気が払われるようだった。
午後七時。在原に一杯付き合った後、有沙は自身に宛てがわれた二階の自室で過ごしていた。
そこへ女将から夕餉はぜひとも宴会場でとのお呼び出しがあり、境目旅館に集まった面々は豪勢な料理に舌鼓を打つ優雅な一日の終わりを過ごす事となった。
宴もたけなわとなった所で各々、自己紹介も兼ねて自分のタトゥーについて話していかないかとこんな話になった。その中心に居たのは在原だった。彼はいつの間にか、この年齢も性別もバラバラの一期一会のリーダーとして皆に認められていたのだ。
「あー、でも皆詮索は無しな。自分がどないしてタトゥー入れたかなんて他人に語って聞かせるもんでもあらへんやろうし」有原はちらりと有沙を見て、そう付け足した。彼の脳裏を過ったのは先の会話だろう。
気を遣わせてしまったな。ため息が溢れるも、吐いた唾はもう呑めない。
トップバッターを担ったのはこの話を持ち出した当の本人である在原だった。
彼はおもむろにロングTシャツの袖を捲くる。するとその下から絡み合った二匹の大蛇が現れた。大蛇は在原の肩から手首にかけて巻き付くようにして彫られており、夏でも長袖は手放せないだろう。
男性としては些か靭やかな肉付きの腕。そこに幾筋もの線が入っている。有沙は見間違いかと目を擦り、よく見ようとして顔を近付けるもそれがいけなかった。
瞬きの間、有沙の目の前で袖が下ろされ、傷のように見えたそれらは隠されてしまったのだ。
「なんや、そんな珍しいものでもあらへんやろ? 」有沙の奇妙な挙動を見咎め、在原が言う。
「いえ、タトゥーのデザインかっこいいなって。そう思って。特に二対の大蛇といえばウロボロスが有名ですが、敢えてケリュケイオンにしたんですか? パシフィストなんですね」
「おぉー! せやろ、せやろ。この図柄、よくウロボロスと間違える輩がおんねん。いや、俺は指摘されるまで全然しいひんかったんやけど、調べてんな。そしたら、二匹の蛇ってより一匹の蛇がなんや自分の尻尾噛んでるやつやいうやん。いやいや、これ二匹やし、尻尾噛んでへんし。そんな不老不死なんて興味ありまへんでっせって」
咄嗟に口をついて出た言葉だったが、意図せず在原の琴線に触れたようだ。有沙はホッと胸を撫で下ろす。しかし、そう。詮索はしまい、と改めて心に誓う。
「ほな、俺の話はここまで。次は誰がいく?」
「では、俺がいこう」手を挙げたのは在原の右に座っていた男性だった。
まず彼は吉川宏と名乗り、事業主をしていると簡単な自己紹介を行った。社長らしさの現れか、腕には高級時計、靴はピカピカに磨かれ、服からもどことなく、高価な空気を漂わせていた。
そんな彼の背にギリシャ神話の怪物メデューサが入れ墨であるというのだから驚きだ。
「もんもんってアンタ、ヤーサンかいな」在原が茶々を入れる。
吉川は僅かに苦笑する。そこにあるのは呆れか、はたまた別の何かか。
「日本画による西洋の怪物。これこそ和洋折衷、世界に進出する日本というものだよ。そうそう、グローバル化というのはだね……」
なんとなく、この人とは気が合いそうにはないな。有沙は辟易とした気持ちで、続く彼の事業に関する話を聞いていたのだった。
「ほい、じゃあ、次。誰いく? っていうても、もう零時やさかいタトゥーと名前だけって感じにしよか」
各々が紹介を済ませる中も在原は頻りに携帯の画面を見ては時間を気にしている様子だった。やはり、翌朝の食事を気にしてのことだろうか。
境目旅館はその立地上、朝昼晩の食事付きを基本的なプランとしており、それは五十周年記念を祝した今回のキャンペーンでも変わらない。在原が時間を気にしているのは明日の朝食が七時と割りかし早い時間に設定されているからだろう。そう考えるとむしろ夜行性ですと言わんばかりの在原が早く寝ようとするのにも納得がいった。
そうして七人全員が自己紹介を終えたのは午前一時半のことだった。
翌日、有沙は騒々しい物音に目を覚ます。すわ大雨だろうかと自身が今、山上の旅館に泊まっていることを思い出し、崩落しやしないかと不安が胸中を蝕んだ。しかし、よくよく聞いてみるにその音はどうやら、それは誰かが扉を叩く音らしいと気付き、はだけた浴衣を整えつつ、扉を開ける。するとそこには難しい顔をした鹿野が浴衣姿のまま、立っていた。
「こんな朝から……どうしたんですか?」
「在原さんが殺されたわ」
「は……え?」
有沙が鹿野の言葉の意味を理解するにはそれ相応の時間を要した。しかし、端的な彼女の言葉はあまりにも痛々しい事実をそこに横たわらせていた。
長閑な休日の一幕は突然の惨劇によって粉々に打ち砕かれ、紅く染まった山々を更なる赤が彩る。
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