2013年3月14日(木)


今日はホワイトデーらしい。

らしい、というのは、そのイベントが私にはまったく関係ないからだ。

世間では、バレンタインにチョコを貰った男性が、女性にお返しをする日だという。

同僚たちの中には明らかに浮き足立って、いかに課長の目を盗んで定時ぴったりにオフィスを出るか計算している子もいる。

多分、彼とディナーの約束でもしているんだろう。

その真剣さを、ちょっとは仕事に向ければいいのに。

などと言うと「吉川さんは仕事が恋人ですもんね」などと返される。

彼女たちはいつもそうだ。

三十代も半ば、恋人の一人もおらずに仕事に没頭する典型的な独身お局様、それが後輩たちが私に対して持っているイメージ。

(はぁ)

思わずため息が漏れる。

そのイメージは残念ながら間違ってはいない。だが、私とてなりたくてそうなったわけではないのだ。

私は、単に真面目だった。真面目と言うのが肯定的な言葉だというのなら、手の抜き方を知らなかった。

残業を言いつけられれば残業をし、休日出勤を言いつけられれば休日出勤をし、社会人として働く責任とはそういうものなのだと思っていた。

他の子のように、恋人とのデートを優先して、他の同僚が忙しそうにしている中一人定時で帰るなんてことはできなかったし、同棲のための物件を探しに行くからと休日出勤を拒むことなんて考えられなかった。

結果、同僚たちは次々と寿退社、或いは妊娠して休職、もしくは社内プログラムを利用して短縮出勤をしていた。

社内で出世できない分プライベートの幸せをつかみ、妻として、母として充実した生活を送っている彼女たち。

お給料は私より安いけれど、それでもパートよりは安定した正社員で、旦那さんの稼ぎもあり世帯年収は私より上。

「兼業主婦って大変なのよ」と苦笑する彼女たちに、何度「じゃあ辞めれば」と言いそうになったことか。

隣の芝生が青いことは十分に承知している。彼女たちが自分に比べて恵まれると考えるのは、とても我儘なものの見方だということも。

それでも。

元彼のことが脳裏をよぎった。

大学の終わりにつきあい始めた、今のところ人生最後の恋人。

頭の良かった彼は公務員試験に合格して役所勤めとなり、人間関係に心を砕いていた。

仕事の単調さや頭の固い上司・先輩、そういったものの愚痴を私に聞いてもらいたがった。

一方の私はメーカー勤務、それも営業職。

一年目だろうが女だろうが、そんなことは関係なく、入社直後から忙しかった。

やれ飲み会だ接待だ、と夜遅くまでかかるのも当たり前で、彼からの電話も取れず、メールの返信も十二時を回ることが多くなった。

付き合い始めてから、必ず一緒に過ごしていた二人の誕生日。

社会人一年目の彼の誕生日、初めての有休をとった。

二人で朝から晩までいると、妙に一日が長い気がした。

私の誕生日は休まなかった。

二年目の彼の誕生日、その少し前、彼からは何の連絡もなかった。

私も連絡しなかった。

彼の誕生日はただの平日で、それからしばらくして彼から最後の電話があった。

それ以来、出会いもなければデートの暇もなくて、なんとなくそのまま、気付いたら10年がたっている。

「まだ帰らないんですか」

声を掛けられてはっと振り返る。

斜め後ろに、後輩の遠藤がいた。

「うん、この資料、来週クライアントに提出だからね。何としても明日中には課長に確認していただかないと」

お客様に出す資料は、全て課長以上のチェックが必要だ。

クライアントへの提出日は来週の水曜だったが、課長次第では大幅な修正が入るかもしれない。今週中に確認していただく必要があった。

だが遠藤は、少し困惑したような表情になった。

「あの……白石課長は、明日は朝からフォーラムにご出席で、事務所には戻られないんじゃなかったでしたっけ」

「え、そうだっけ」

「はい」

頭の中が白くなる。……確かに、今朝そんなことを言っていたような。

「そっかー、まいったな……資料見ていただかないといけなかったのに」

後悔が口をつく。うっかりしていた自分の落ち度だから、やつあたりも出来ない。

「大丈夫ですか? 吉川さん、最近また遅いみたいですけど」

髪をかきむしる私に、遠藤が恐る恐る話しかけてくる。

「うーん、なかなかクライアントとの調整がうまくいかなくてね」

今作っている資料は、もう4度目の修正だ。

クライアントの中でも、上層部と現場で意見が食い違っており、どちらかが賛成すればどちらかが反対するというありさまなのだ。

内心「社内で意見統一してから持ってこい」と思うのだが、そこはお客様、グッとこらえて意見を反映した修正資料を提出するものの、そんな状態では賛同が得られるはずもなく、やれこれはAだ、いややっぱりBだ、新しいCを導入すべきだ、慣習的にはDだ、と揉めに揉める。

なんとか折り合いをつけさせ話をまとめようと、クライアントの状況やら業界のトレンドやらを勉強しているのだが、とても追いつかない。

「誰かに手伝ってもらえばいいのに」

「じゃ、マメ手伝って」

マメというのは遠藤のあだ名だ。由来はもちろんエンドウマメ。

「え、今からですか……もうみんな帰っちゃってますよ?」

遠藤の言葉にオフィスを見回すと、確かにこの一角以外は照明さえ落とされていた。

「ああ、ホワイトデーだからね、彼氏彼女と約束があるんでしょ。……マメは早く帰らなくてよかったの?」

ふと不思議に思って聞く。遠藤は二十七歳、顔は悪くなく仕事もそこそこ出来、なにより人当たりがいい。チョコの一つももらっていないとは考えられなかった。

「別に約束とかないですし」

「彼女は?」

「いないですよ」

頭をかいて苦笑する。

「え、意外。モテそうなのに」

こういうのもセクハラになるのかな、などと思いながら、何の気なしに言ってみる。実際今年の新入社員の女の子たちが「遠藤先輩かっこいい」とかなんとか騒いでいた覚えがある。

「モテると思います?」

なぜか食いついてきた。面倒くさい。さっさと資料を完成させて帰りたいのに。

「あー、モテなくはないんじゃないの? 顔もいいし性格もいいし仕事も出来るし。おまけにフリーなら、狙い目優良株ってところじゃない?」

「吉川さん、本気で言ってます?」

「本気本気」

「ちゃんとこっち見て言ってください」

いつになく真剣な遠藤の声に、仕方なく彼の方に向き直る。

「本気だよ」

「俺、いい男ですか」

「いい男だと思うよ」

「じゃ、付き合って下さい」

遠藤は、可愛いリボンをつけたクマのぬいぐるみを差し出してきた。

ぬいぐるみはキャンディで作った花束を抱えている。

白いリボンには銀の糸で「3.14 WhiteDay」の文字。

「俺、入社した時から吉川さんのこと好きでした」

突然の告白。……理解できない。ここ、オフィスだし、目の前にあるのはクライアント用の資料だし、隣に立っているのは後輩のマメだし、え?

「ごめん、ちょっと混乱してて」

仕事の時と同じように淡々と言う。内心ものすごく焦っているのだけれど、この口調のせいで多分伝わらない。

「そ、そうですよね。突然すみません」

なぜか、全て計算づくで告白してきたはずのマメの方が焦っている。

「でも、冗談とかじゃないです。俺、先月バレンタインの時吉川さんがチョコ買ってるの見て、彼氏いるんだ、あきらめなきゃって思って、でも、きょう吉川さん、こんな遅くまで残ってるから、だから、その、俺、好きです」

苦笑する。

「マメ、支離滅裂。何言ってるか分かんない」

「す、すみません」

弟よりも年下のマメは、大の大人のくせに時々本当に子供みたいだ。さっき告白してきたときは曲がりなりにも男の顔をしていたのに、こうやって謝っている姿は本当に情けない。

そのマメが、もう一度男の顔になる。

「それより、明日課長いらっしゃらないなら、資料作成今日中じゃなくてもいいじゃないですか。本当にもう遅いですし、帰りませんか?」

一緒に帰ろう、という意味なのは、馬鹿でもわかる。

「うーん……確かに課長に見ていただくのは来週になっちゃうけど、キリのいいところまでやっちゃいたいから。マメはもう帰りな?」

「なにか、お手伝いできることありますか」

「大丈夫、あと30分くらいで帰るつもりだったし」

「そうですか」

遠藤はまだ何か言いたそうだ。それを、ひらひらと手を振って遮る。

「マメ、電車の後バスでしょ? 終バスなくなっちゃうよ」

遠回しに告げた「帰れ」に気付き、遠藤は肩を落とした。

「じゃ、俺帰ります。くれぐれも無理しないでくださいね」

私が頑固なのは社内でも有名だ。すっぱり諦めて、遠藤は出口へ向かう。

「あ、返事はいつでもいいですから。俺、ずっと待ちます。それじゃ、失礼します」

……そっちは諦めていなかったか。パソコンのファイルを閉じる。もう資料なんて作る気分じゃなかった。

机横のキャビネットをあけて、小箱をとりだす。

ちょうどひと月前に買ったチョコレート、元彼が好きだったゴディバのボールチョコ。


今更元彼に未練があるわけじゃない。第一別れてから10年、

一度も会っていないというのに未練も何もない。

ただなんとなく、幸せだったときがあったということを忘れたくなくて、習慣になっていた。

優しい紅茶の色のクマと、冷たい宝石の色の箱を並べてみる。

甘いキャンディと苦いチョコ。

「……好きです、か」

クマの頭をひとなでし、その首にかかった白いリボンをほどく。

小箱にかかった真っ赤なリボンをほどき、結び直す。

濃い茶色の箱に白のコントラスト、我ながら中々センスがいい。

小箱を無造作に遠藤の机に置いて、息詰まるオフィスを後にする。

片手に鞄、片手にクマ。

「その提案、明日詳しく聞かせてもらおうかしらね」

資料作成は終わっていない。

資料を見せるべき課長は明日不在だ。

クライアントは来週も揉めるだろう。

山ほどある問題の何一つ解決していないけれど。

久しぶりに明日の朝が待ち遠しく思えた。





投稿日時:2013年03月14日 21:10

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