偽善者
――猫を、拾ったんだ。
8月終わりのある日。
夕方にさしかかろうとしていたが、気温はまだかなり高い。
俺はハンカチを手に汗をぬぐいながらえっちらおっちら歩いていた。
その夏俺はバイクで事故って足を骨折。
経過観察の帰りだった。
バス停から家まで約10分。
骨折した足だとさらに5分。
(あー……早く帰りてー……クーラーガンガンにつけて休みてー……)
ゆるやかな坂が癪に障るほどにきつい。
そんな道中で、それを見つけた。
子供。
それと、猫。
子供が子猫をだっこしている。
俺は動物が好きだ。
猫はとりわけ好きだ。
さっきから鳴き声が聞こえていたので、どこかにいるんだろうとは思っていた。
その出所が子供の腕の中。
夏休みの子供が、飼い猫と遊びに出ているんだろう。
そうほほえましく思いながら、俺は横を通り過ぎようとした。
だが、見てしまった。
子供が、握りつぶさんばかりの勢いで子猫の胴をつかんでいるのを。
(おいおい、そんな乱暴な扱い方ないだろう!!!)
思わず立ち止まる。
声を掛けそうになったが、俺の頭の中にいろいろな思いが駆け巡る。
(飼い猫なら、余計なこと言うべきじゃないんじゃないか?)
(乱暴に見えるけど、飼い猫なら「いつものこと」なんじゃないのか?)
(「小学生が松葉杖を持った不審な男に声をかけられる事案が発生」なんて通報されるんじゃ?)
しばし迷う。
が、腕の中の子猫がなんだかぐったりしているような気がしたので、腹を括った。
「ボ、ボクぅ~、その子、ボクのおうちの猫なのかなぁ~?」
不審者もいいところだ。
子供はそんなことお構いなしに、実に明朗闊達に答えた。
「うぅん、そこで寝てた!」
……ノラか。
子供は嬉しそうに、子猫を振りまわしながら言う。
「おうちに連れて帰ってねぇ、僕が飼うの! ○○ちゃんちにも××くんちにも子猫がいるんだよ!」
ああ、この子は本当に猫が好きなんだ。
同じ猫好きだからか、なんとなくわかる。
猫を見る目は本当に愛しそうで、「僕が飼うの!」と言ったその口調は本当に幸せそうだ。
だけど。
扱い方を知らない腕の中で、子猫の存在はあまりにも儚すぎた。
ときどき思い出したように鳴くのだが、初めに声を聞いた時より、心なしかその声は小さく、弱くなっているようだった。
子猫は「寝てた」とその子は言った。
多分、暑さにやられてか、元々弱っていたのだろう。
子供から逃れられないくらいに。
そうして、扱い方を知らないこの子に捕まった。
俺はこの子から子猫を奪いたかった。
でも、力づくで奪うわけにはいかない。
「そっかぁ。でも、ママやパパは、猫を飼ってもいいって言ってるのかな?」
「?」
「猫を育てるには、ご飯とかトイレとか必要だよ。○○ちゃんちには猫のトイレ、なかった?」
「あった!」
「あったよね。そういうの、買わなきゃいけないんだけど、ボクのお小遣いで買えるかな?」
「……」
小さく首を横に振る。物分かりのいい子だ。
「それに、この子具合悪いみたいだよ。ボクも風邪ひいたらお医者さんにいくよね? この子も、お医者さんに連れて行かないと」
「でも僕、お金持ってない……」
「それならこの子、お兄さんが病院に連れて行ってもいいかな?」
「えっ……でも僕が飼うんだよ……」
「でも、猫を飼うなら、ママやパパがいいって言わないといけないのは分かったよね?」
「うん」
「だから、お兄さんは猫を病院に連れていく。その間にボクはおうちに帰って、ママとパパに猫を飼ってもいいか聞いておいで」
携帯番号と名前を書いたメモを渡す。
ついでに簡単にいきさつを説明した手紙も書く。
「それでね、もし飼ってもいいって言われたら、ここに連絡して。これ、お兄さんの携帯だから」
「分かった!」
子供は猫を俺に渡すと、自転車で坂を下って行った。
多分連絡は来ない。それはそれでいい。
それより俺は、一刻も早く、この猫を動物病院に連れて行かなければ。
俺の飼い猫マルが世話になっている動物病院に、子供から奪った子猫を連れて行った。
つい数日前にマルを連れて行ったばかりなので、先生は俺の顔を見て驚いていたが、子猫を差し出すともっと驚いていた。
猫を一目見た段階で難しそうな顔をしていたが、触診などを進めるにつれてますます表情は翳っていった。
「おそらくずっと食事も採れなかったところにこの暑さで、随分衰弱していますね。出来る限りのことはしてみますが……」
そういって言葉を濁す先生に、俺は頭を下げた。
「二時間後に来てください」
閉院まで見てくれるってことだ。
俺はもう一度頭を下げて、家に帰った。
帰るとどっと疲れが出た。
マルがなつっこく寄ってくる……そこで俺はあわてた。
道端に倒れていた猫だ、どんなウィルスを持っているか分からない。
ノミだってたくさんついていた。
マルにはワクチンを打っているけど、ワクチンで防げない病気がうつるかもしれない。
あわてて部屋の外に出て、服を全て脱ぎ、シャワーを浴びる。
子猫を抱えていた腕は特に念入りに洗った。
せっかく巻きなおしたギプスを濡らしてしまい、とても気持ちが悪い。
服もそのまま熱湯につけて煮沸消毒し、二重に手洗いして洗濯機に放り込む。
それだけで30分以上かかってしまった。
もう一度部屋に戻り、消毒用のアルコールを全身にかける。
アルコール臭が苦手なマルはどこかに隠れてしまった。
どうしよう。
目の前で死にそうな子猫を見てつい放っておけずあんなことをしてしまったが……。
うちにはマルがいる。
住んでいる家は当然ペット可住宅だが、入居時の契約では一頭までの約束だった。
あの子を飼うことになったら、新しい家を探さないといけないのか?
それにあの子猫は弱っている。なんかの病気があるかもしれない。
ノラで病気にかかっていない子なんて、1割いるかいないかだと聞いたこともある。
マルにうつったらどうする?
マルはもう何年も一緒に暮らしてきた家族だ。
ネットで「多頭飼い」を調べて見る。
ほとんどが「初めは隔離し、徐々に二匹の距離を詰めていきましょう」とアドバイスしている。
だが、俺の家はワンルームだ。隔離できる部屋なんてない。
部屋の他はトイレと風呂場があるが、まさか冷暖房もない風呂場に子猫を放置するわけにもいかないだろう。
どうしたらいいんだ?
自分の軽率さに頭をかきむしる……ふと壁を見ると、もうすぐ2時間がたとうとしていた。
(ヤベェ)
あわてて服を着る。
焦っていると余計に足が思うように動かなくて、服を着るだけで5分かかった。
「治るまで乗るな」と言われていたバイクにまたがり、動物病院まで飛ばす。
なんとか間に合った。
診察台の上で点滴を打たれている子猫。
たかっているノミをとって、身体も拭いてもらったのだろう。
随分見た目は綺麗になっていた。
だから、余計に分かる。
痩せたおなかが弱弱しく上下しているのが。
細い四肢が力なく震えているのが。
「ミャー」
小さな声で鳴くと、先生が驚いたように言った。
「さっきまでは全然鳴かなかったんですよ。あなたが戻ってきたのが分かったのかしらね」
そのあと簡単なアドバイスをもらって、猫を連れて帰った。
もし助かる見込みがあるなら入院を勧めるだろう。
その段階で、なんとなく子猫の結末は分かっていた。
「あっきー。お前の名前はあっきーだ」
俺は段ボールの中にフリースを敷き詰め、そこに子猫を入れた。
うだるように暑いのに、子猫はとても冷たい。
フリースで包み込むようにして何度も何度も撫でた。
ちなみに「あっきー」という名前は、「こどものおもちゃ」という漫画の登場人物のあだ名から。
子供のおもちゃにされていたから、そうつけた。
我ながら酷いネーミングセンスだ。
余談だが、ついひと月ほど前、俺の友達も子猫を拾った。
その友達は子猫に「ごはん」と名前をつけた。
由来を聞くと「道でうずくまっていてカラスのごはんになりそうだったから」だそうだ。
俺とどっこいどっこいのセンスだと思う。
閑話休題。
いつの間にか近くに来ていたマルは、俺の手の中の闖入者を見ると、体中の毛を逆立ててどこかへ飛んでいった。
「ははっ、ビビリめ」
自分の半分もない大きさの子猫を警戒して隠れたマルを笑い飛ばして、子猫をさする。
子猫はまた弱弱しく鳴いて、一丁前に喉をゴロゴロ鳴らした。
「あっきー。いい子だ、あっきー」
名前を呼びながら、ひと肌まで温めた子猫用ミルクを飲ませてみる。
勢い良く吸いつく姿は生命力を感じさせて、俺はそこに一縷の望みをかけた。
「もうだめかも」
そう思われながら奇跡的に元気を取り戻した犬猫の話などごまんとある。
せっかく不審者として通報されるリスクを冒してまで連れ出した子猫だ。
なんとか、生きながらえてほしい。
そう思って、俺は必死で世話をした。
体温の維持、水分補給、そして――語りかけ。
「あっきー、がんばれ」
「あっきー、お前なら大丈夫だ」
「あっきー、早く元気になれ」
「あっきー、お前はもう俺んちの子だ」
「あっきー」
「あっきー」
奇跡は起こらなかった。
いくらネット上でありふれた話に思えても、奇跡はそう簡単に起こらないから奇跡なのだと思い知らされた。
俺がトイレに行ったわずか数分の間に、あっきーは冷たくなっていた。
死ぬと体中の筋肉が弛緩する。
あっきーの股間のあたりには、最後に漏らしたオシッコが染みになっていた。
生きているときにはしっかり閉じられていた口がパカッと開かれて、まるで笑っているみたいだった。
俺は無力だった。
なにも出来なかった。
翌日、会社を休んだ。行政に連絡して、死体を引き取ってもらった。
このことを知っている友達は、俺を慰めてくれた。
「骨折して大変な時なのに救ってくれてありがとう」
「あっきーちゃんは、静かに最後の時を迎えられて幸せだったと思う」
「あなたのせいじゃない、仕方のないことだったんだから自分を責めないで」
すごくありがたい。
同時に後ろめたい。
俺、本当にあっきーに出来ることを全てしてやったんだろうか?
あっきーが元気になったら、うちでもう一頭猫を飼うことになる。
そうしたら、賃貸の契約違反になるし、マルに病気がうつるかもしれないし、もしあっきーが病気を持っていなかったとしてもマルと仲良くやれるかどうかはわからないし、俺は俺で二頭も世話できる自信はなかったし、二頭になれば餌や猫砂、ワクチンや病気時の通院などでお金もかかるし……仮に飼わないとしたら、里親になってくれる人を探さないといけないし、どちらにしろ問題がたくさん出てくる。
実際に病院にあっきーを迎えに行く前に、これからのことを考えて途方に暮れた。
ここは、友達の誰も見ていないから、正直に言う。
俺、あっきーが助からなくて、ほっとした部分がある。
もしかしたら、あっきーには分かっていたんじゃないだろうか。
ほんの少しでも……俺に、あっきーを疎ましく思う気持ちがあったことを。
俺が、自分のことなんか考えずに、本当に全身全霊かけてあっきーが助かることを望んでいたなら、あっきーの上にも奇跡は起きたんじゃないか?
あれから、ペット可、さらに頭数制限のないところに引っ越した。
もちろんマルと一緒にだ。
今すぐ新しいペットを増やすつもりはないが、もしどこかに助けを、新しい住まいを求める不幸な子がいれば、今度は迷うことなくその子の力になれるように、そう思ってのことだ。
誰も使っていない部屋の前に立つと、あのときのあっきーの姿が浮かんでくることがある。
(偽善者)
同時に脳裏にその言葉も浮かぶ。
もしまた道端で、こどものおもちゃにされている子猫を見つけたら。
俺は今度こそ、何の言い訳もせずに、その子が助かることだけ考えるつもりだ。
あっきーの時に自覚した問題は、引っ越したことで解消している。
その時になったら……俺はまた、つまらない言い訳を重ねて、奇跡を遠ざけてしまうのかもしれない。
偽善者だから。
それでも、やっぱり俺は子供の手から子猫を奪い取るだろう。
偽善者だから。
「ミャーン」
あっきー。
あの声をもう一度聞ければ、俺は救われるのに……。
投稿日時:2013年05月05日 03:51
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