運命調整委員会

ふわり、と鼻腔をくすぐられて目を覚ますと、そこに奇妙な男が立っていた。

古いスパイ映画でしかお目にかかれない様な黒い帽子に黒いコート。サングラスはかけていないが、長く伸ばした前髪が目の半分を覆っている。

やや猫背で、体全体を軽く左に傾けて立っている様はともすれば不気味さをも生み出しかねないアンバランスさであったが、左手に持つ大きなアタッシェケースがかろうじてその不自然さを打ち消していた。

「やあ加藤さん、お目覚めですか」

「き、君は一体誰なんだ。どうやって僕の寝室に入り込んだんだ」

寝起きの頭で思いつくままの疑問を口にしながら、もしや強盗の類ではないかと自答し、馬鹿な質問をしてしまったと震えあがる。

そんな加藤の内心を知ってか知らずか、男はポケットから一枚の紙を差し出した。

「こんな時分に突然の訪問をお許しください。私はこういうものです」

名刺の中央には大きな明朝体の縦書きで[古峰 一成]と書いてあった。振り仮名は振られていないので、フルミネなのかコミネなのかはわからない。

それより名前の右上に書かれている小さな文字のほうが気になった。

「『運命調整委員会 主任』……?」

そのような委員会は聞いたことがない。不審のこもった眼で古峰氏を見返すと、彼は口元に微笑みを浮かべた。

「はい。私どもの活動について、ご説明を差し上げてもよろしいでしょうか」

無断で人の家に侵入してきたくせに、よろしいでしょうかときたもんだ。

思わず「よろしくない」と答えたい衝動に駆られたが、押しとどまった。運命調整委員会なる団体に興味があったし、何よりも古峰氏の口調にはどこか有無を言わせない響きがあったからだ。

「突然ですが、加藤さんは『人生万事塞翁が馬』あるいは『禍福は糾える縄の如し』という言葉を聞いたことがおありですか」

「ああ、もちろんあるよ。良いことと悪いことは交互に来るとか、良いことと思ったら悪いことにつながったり悪いことがいいことにつながったりして、何がどうなるかわからない、みたいな意味だと思ったけど」

「仰る通りでございます。他にも、不幸続きの人に『悪いことは続かない』と慰めたり、いいことばかりが続いて増長している人に『そんな風に威張っているとやがてしっぺ返しが来るよ』なんて忠告したり、人の幸不幸はバランスよく来るものという考え方は広く浸透しています」

「そうかな。実際には不幸続きの人も幸福ばかりの人もいるし、必ずしもそれが真実だとは思えないよ」

加藤に口舌を中断され、古峰は大袈裟に首を振った。

「いいえ、ここは声を大にして申し上げますが、人の幸不幸はバランスよく来るというのは、間違いのない真実なのです。殆どの人は、人生の中でプラスとマイナスの帳尻が、だいたい合うようにできているものなのです」

古峰は鞄から薄い冊子を一部取り出した。

「今ここで詳しくお伝えするのは時間もありませんから、こちらのパンフレットをご覧ください。プラスとマイナスの帳尻合わせの事例を書いています」

差し出されるままに受け取る。

「ところでですね、先ほど『殆どの人は』と申し上げたのには訳があります。実は、本当に稀なことなのですが、自動的にプラスとマイナスの調整がされない人というのが、ごくごくたまにいらっしゃるのです。そして加藤さん、実はあなたもそうなのです。少し振り返ってみてください。人生、なんとなく、いいことよりも悪いことのほうが多いような気がしていませんか?」

古峰に言われるまでもなく、加藤は己の半生を振り返っていた。だいたいさっき「不幸続きの人もいる」と発言したのも、自分のことを振り返ってのことだ。

友達と一緒にしたはずの買い食いで、自分だけ食中毒になる。旅行中にインフルエンザを発症したのに、ただの風邪か疲れだと笑い飛ばされて市中を引きまわされる。頼まれて登録したモニター情報が不正に流出してダイレクトメールが山ほど送られる。ついてないな、そう思うことが山ほどあった。

「失礼ながら、加藤さんは、それなりの不幸・不運をたくさん経験していらっしゃいます。本来ならばそれを帳消しにできるような良いことが起こってしかるべきなのですが、なぜか加藤さんには良いことが起きていない」

そこまで言うと、古峰はぐっと身を乗り出した。

「そこで私の訪問です。私ども『運命調整委員会』は、なぜか運命のバランサーが上手く機能していない方を見つけ出し、プラスの偏りに対してはマイナスを、マイナスの偏りに対してはプラスをご提供することで、その方の人生のプラスマイナスの帳尻を合わせることを目的とした団体なのです」

なるほど、ようやく話がつながった。

「私の役目は、加藤さんの望みを聞き出し、それを叶えることです。所謂『プラス』に属することなら、なんでも叶えることが出来ます。今蓄積しているマイナスよりも大きい望みであれば、将来起こるマイナスのことと合わせて今回の願いをかなえることもできますし、小さい願いに変えることもできます。と急に言われてもお困りでしょうから、来週の同じ時間にもう一度伺いますので、その時までに願い事を考えておいてください。では」

それだけ一気にいうと、いつの間にか古峰の姿は消えていた。夢を見ていたのか? だが、加藤の手には、名刺とパンフレットがしっかり残されている。夢じゃないのか。運命、プラスとマイナス、どんな願いも叶う……。


古峰からもらったパンフレットには、運命のプラスとマイナスについて、詳しい解説がされていた。

曰く「人生にはプラスのこととマイナスのことがあり、一生を通じてだいたいプラスとマイナスの帳尻が合うようにできている」「生まれつき恵まれている人は幸せに思えるかもしれないが、考え方によっては生まれつき借金を負わされているようなものなのである」「事故に遭わない日常は当たり前ではなく『プラス』の出来事だが、あまりに小さいプラスのため『プラス』だと自覚している人は少ない」「プラスやマイナスは個人の主観的なものではなく、客観的に決められている」「例えば美しい容姿を持つがゆえに興味のない男性に追い掛け回されて『こんな容姿はいらない』と考える女性がいるとしても、客観的に『容姿の美しい女性』はプラスと考えられる。本人がそれをプラスと考えているかどうかは関係ないのである」……。

そのパンフレットによれば、加藤が積み重ねてきた小さな不幸は紛れもなく『マイナス』であり、さらに加藤自身があまり気にしてこなかったさまざまなこと、例えば服を3着しか持っていないとか、人生で一度も恋人が出来たことが無いとか、年収が200万に満たないとか、そういったことが『マイナス』にカウントされていることもわかった。

この分だと、どうやらかなりの願い事でも叶えてもらえそうな気がする。だが、いくら悩んでも、叶えてほしい願い事なんて見つからなかった。

オシャレに興味はないから、とりあえず着られればいいと思っているので今ある3着で十分だ。恋人なんてできたら、休みの日にデートに出かけなければいけないし、食事だって奢らなければいけない、面倒くさい。年収も、増えれば増えるでありがたいが、給料が上がればその分仕事量や責任が増えるかもしれないと考えると、今のままでも十分だと思う。

だが、一週間後……正確にはあれからもう2日立っているから、5日後には、もう一度古峰がやってくる。その時には叶えたい願い事を伝えなければいけないのだ。

無難に「家内安全」「無病息災」でも願っておくか?

いやしかし、パンフレットの『知らないうちに消費しているプラスのこと』に「安全な生活」も「健康」も含まれていた……下手に願って、これまでの「普通の暮らし」を送れなくなってしまうほうが困る。

「なんだ加藤、真剣な顔して、腹でも下したか?」

同僚の森が茶化してくる。

「なあ森、もしなんでも好きな願いが一つ叶うとしたらどんなことを願う?」

森は精力的な男だ、願いの一つ二つくらい容易に挙げられるだろう。

「なんでも? そうだな、なんでも叶うなら、絶世の美女と恋愛とかしてみたいな」

「ははっ、お前奥さんも子供もいるじゃないか」

「それとこれとは別さ、男はいくつになってもいい女といい恋愛をしたいもんだ」

「そういうものか? あんなに綺麗で優しい奥さんと、可愛くて利発な子供がいるのに、それでも他の女に目が向くのか?」

「当たり前だろ。お前、どうしてそんなつまらない男なんだ」

「つまらないか?」

「ああそうだ。いい女がいれば手を出したい、それは男の本能なのに、綺麗な奥さんだの利発な子供だのと理屈をつけて手を出そうとしない」

森は抉るような視線で加藤を見返してくる。

「女に限ったことじゃない。酒でもギャンブルでも、お前のは安定志向じゃない、単に後ろ向きなだけなんだよ。そんなだからチャンスがあっても、みすみす見逃しちまうんだ」

女だけじゃない、酒でもギャンブルでも……おそらく、他のこと全て……森の言葉は加藤の心に深く突き刺さった。


「こんばんは、加藤さん。願い事は決まりましたか」

事務的な笑顔で問いかけた古峰に、加藤はこういう願いでもいいのか、と確認をする。

「もちろん問題ありませんが、そのような簡単なことでよろしいのですか? 気持ちの持ちように関する願いはほんの少しのポイントで叶えられる、小さなことなのですよ? 加藤さんのマイナスポイントはたくさん溜まっています、もっと大きな願いだって叶えられるのに」

訝しげな古峰に、加藤はこれでいいんだと断言する。

「まったく、欲のない方ですね。では、その願い、確かに承りました」

手帳に何かを書きつけて、古峰は消えていった。


「欲のない方……ちがう、ただ後ろ向きだっただけさ」

加藤はつぶやいた。

今までの人生だって、いくつものチャンスがあった。不運に慣れていた加藤は「どうせいいことなんておきないんだから」とそれらを棒に振ってきた。

でも、今は違う。自分に「イイコト」のストックがあることを加藤は知っている。もし何かチャンスがあったなら

加藤が願ったのは「チャンスに食いつく積極性」……食いついたチャンスの先には、きっといい結果が待っていることだろう。

これから、自分の人生は間違いなくいい方向に転がっていく。

未来を思い描いて、加藤は一人ほくそ笑んだ。





2013年10月14日 00:44より前(記録無し)

条件:今回の条件は、皆が叶えたくなる願い事のお話を作る


条件に合致した作品が作れなさそうだったのでエントリーはしませんでしたw

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