『済んだ音は遠く高く』 狼と香辛料 【二次創作】
ローム川河口の港町ケルーベ。三角州を間に北側・南側の三つの町にわかれており、それらを合わせて大きな一つの町とされている。南側の町はずれ。市場で賑わう三角州や人の出入りの激しい南側中心部と違い、人通りも少なく静かだ。青い空、白い雲。空は澄み切って高く、太陽の光が降り注いでなお肌寒い。絵にかいたような秋の情景に、一人の男がたたずんでいる。
クラフト・ロレンス、齢二十五。ローエン商業組合に属する、旅の行商人である。背には古臭い袋を負い、さわさわとなびく風に身を任せる様は、あくせくした商人の印象とはかけ離れたものだ。
とはいえ、こんな時間にこんな場所でのんびりしているからと言って、彼が商人失格の怠け者というわけではない。なぜなら、彼は彼の意思でそこに立ちすくんでいるわけではなく、彼の足もとにいる少女が彼をそうさせているのだから。
「ホロ、そろそろ起きろ」
呆れた声で言うが、ホロと呼ばれた少女は意に介さない。それどころか大きな欠伸を一つして、気持ち良さそうに寝がえりを打つばかりだ。
一瞬寒くないのかと呆れかけたが、それも道理、ホロは草の絨毯よりもさらに暖かいもので身を包んでいるのだ。ふさふさの毛皮。よく手入れの行き届いたそれは、毛皮職人ならずとも手に入れたいと思う立派な品だ。いつぞや仕入れたテンの毛皮18枚はトレニー銀貨210枚で売れたが、この毛皮ならば一枚でそのくらいの値段が付いてもおかしくないかもしれない。
しかし、事情を知らないものならともかく、ロレンスがその毛皮を品扱いすれば、毛皮の所有者であるホロにどれほど冷たくあしらわれるかは想像に難くない。なぜならその毛皮は、まだ彼女の体の一部なのだから。
そう、その毛皮は、正真正銘の、ホロ自身の尻尾なのだ。見た目こそ華奢な少女であるホロだが、その正体は大の男をも丸のみできるほどの巨大な狼なのだ。ヨイツの賢狼ホロ。ロレンスは、ホロの「故郷に帰りたい」というたっての願いをかなえるため、ヨイツを目指して旅をしている。そして現在は、ヨイツを目指すのを一時中断し、ホロの仲間の骨を追っている。今ケルーベにいるのも狼の骨の噂を追いかけてのことだし、明日ウィンフィールにむけて旅立つのもそのためだ。いうなればすべて、ホロのための旅なのだ。
それなのに、当のホロは旅支度を全く手伝わない。それどころかこんなところでのんびりと油を売っている始末。
「まったく、少しはコルを見習ったらどうだ」
先日旅に加わったばかりの少年の名を出す。素直でよく働く少年を、ロレンスもホロもとても気に入っている。だが、コルはホロに見習わせるには模範的すぎる。自由奔放なホロがコルのように振る舞うとなれば、ロレンスはなにか悪いものでも食べたのではないかと心配し、つきっきりで看病するだろう。
「コル坊は何かを言いつけられた方が楽になる性格じゃからな。わっちはのんびりしているほうがよい」
わかっていてそんなことを言ってくるので始末が悪い。
「コルを一人で行かせるのが心配じゃないのか」
コルは元々神学を学ぶ学生だ。授業料が払えなくて追い出されたらしいが、それまで学問しかやってこなかった分世間知らずなところがある。もっとも世間知らずという意味では、数百年パロスエの村から出たことのないホロも似たようなものだ。
「あれは頭がよい。それに謙虚じゃからの。ぬしよりよほど安心じゃ」
「聞き捨てならないな」
コルを信頼しているという点に異論はないものの、少なくとも行商人として一人前と自負している身には、将来ならともかく現時点で彼に劣ると言われるのは不本意だ。不愉快そうな表情が100%作りものではなくなってしまったとしても仕方のないことだろう。
「ほら、それじゃ。ぬしは自分をいっぱしの商人だと思っておろう? その自負や経験が、ぬしを素直にさせぬ」
見栄やプライド。ある程度必要なそれは、別の場面では枷となる。
「たまには素直になることじゃな」
尻尾をぱさり、と大きく一振りして、ホロはまた横を向いてしまった。
「最近は随分素直になったと思っていたんだがな」
そんな言葉も負け惜しみにしか聞こえない。ロレンスは小さくため息をついた。まだ買い出しが残っている。
「風邪引かないうちに宿に戻れよ」
そんな言葉だけを言い残して、ロレンスは喧騒の市場へと戻って行った。
「まだまだじゃの」
ロレンスの姿が見えなくなると、ホロは体を起こして苦笑いした。その傍らには、低木に隠れていたらしいコルがいる。
「よいかコル坊。ぬしはあんな朴念仁になってはいかん」
「はい」
コルはうすうす感づいていた。ホロが何を求めていたのかを。コルには女性経験はないが、それでもなんとなくロレンスがどうすれば正解だったのかは分かった。自分では代わりにならないと分かっていながらも、コルはホロの傍らに腰を下ろした。
「少し冷たいけど、気持ちのいい風ですね」
正解、とでもいうようにあたりの草がいっせいに靡く。
「明日はまた船じゃ。今のうちに陸を堪能しておかんとな」
ロレンスなら、船と言ってもたった半日だろう、なんて言いそうだ。それは事実だが、ホロの求める真実ではない。
「ホロさん、まだ少し、僕も買い忘れているものがあるんです。一緒に行ってくれませんか」
このままここに二人でいても、ホロの慰めにはならない。
この場を離れる口実。
「そうじゃな。たくさん用意せんと、何が起こるかわかりんせん」
コルがロレンスから預かった銀貨にはまだ余裕がある。それで沢山の葡萄酒でも買いこむつもりなのだろう。ホロの顔が意地悪く笑う。
「……っぷし」
コルが小さくくしゃみをする。毛皮に包まれたホロと違い薄着のコルには、いい加減寒いのだろう。
「ほれ、これを使いんす」
白きつねの襟巻をはずし、首にかけてやる。もともとが暖かいのに加え、先ほどまで巻いていたホロの体温が鼻孔をくすぐる。
「い、いいんですか」
上質の手触りに戸惑うコルに、ホロは優しく笑いかけた。
「かまいんせん」
その笑いの意味は、機微を察する能力にたけたコルにも、さすがにわかりはしなかった。
いろいろあった、などという言葉でまとめることすら陳腐に思えるほどにいろいろあったケルーベ最後の夜。
コルは既に眠りにつき、その髪をホロが母か姉のように慈愛に満ちた表情で撫でている。既に荷造りは済んでおり、あとは明日船に乗ってウィンフィールの町イークへ行くだけだ。
全ての準備は整っている。ロレンスの心の準備以外は。
「今日はすまなかったな」
独り言のようにロレンスは呟いた。
「何のことじゃ?」
聞き逃すホロではない。コルをなでる手は止めぬまま、顔だけをロレンスのほうにむけてきた。
「いや、コルから聞いた。陸でのんびりしたかったんだろう」
何をどう聞いたのか、ロレンスはそんなことを言ってきた。コルは、理解力に優れた少年だが、如何せん伝えるほうにやや難がある。ホロの寂しげな表情に、思わず口をはさんだのだろうが、おそらくホロの気持ちを伝えるのではなく、コルとホロ二人の間にあったことをそのまま伝えてしまったのだろう。
「船が嫌いなら、そう言ってくれればよかったのに」
そんなことまで言ってくる。船はたしかにそこまで面白くはないが、嫌いだなどと言った覚えはないのに、なぜかロレンスの中では嫌いだということになってしまっている。
「船の旅が気乗りしないのはわかった。でも、イークまではたった半日だ。そのくらいは我慢できるだろう?」
ロレンスは何もわかってはいない。自分が犯した失敗を、船旅嫌いのホロに船旅の準備をさせようとして機嫌を損ねた位にしか思っていないらしい。そんなことではないのに、まるで我が儘な子供をあやす父親のようにホロを説得しようとしている。
「骨のこと、そのままにしておくのはすっきりしないだろう? それはお前も同じ気持ちじゃないのか」
そんな大層なことではない。もっと単純なことなのに。
「……そうじゃな」
いつものように爆発してしまえれば良かった。でも、言葉を重ねれば重ねるほど、本当に伝えたかったことから離れていくような気がする。違う道に迷い込んだことが分かっていながら、かたくなに歩を進める旅人のようだ。だから、これ以上言葉を重ねてほしくはなかった。
絞り出すように言った言葉だったのに、ロレンスは安心したようだ。
「ブロンデル大修道院、だったな。こんどこそ、骨が見つかるといいな」
ホロの頭を、子供をあやすようにぽんぽん、と叩く。向けられる笑顔は暖かいものだ。これだから、文句も言えない。
「さて、俺たちも寝るか」
肩の荷を下ろしきったとばかりに気の緩んだロレンスを見ていると、自分のほうが本当にただの甘えたがりの我が儘な小娘になり下がってしまった気がする。
「ぬしよ。わっちゃあ、船は嫌いではありんせん」
「そうか。船の上はうまいものがないからな」
頓珍漢な返事を返してくるロレンスは、もう半分夢の中だ。あまりにも無防備なその姿を見ていると、先ほどまで胸を締め付けていた何かは何処かへ行ってしまう。
ロレンスから本当に望む言葉を引き出すのは、もしかしたらとても難しいことかもしれない。
だがしかたない、そのような相手を選んでしまったのは、ほかならぬホロ自身なのだから。
「―――――」
音なき声で、一吠えする。ありったけの思いを込めたその声は、人であるロレンスの耳には届かない。それでいい。届いてしまったら面白くない。
焦れて、焦らして、焦らされて。そんなゲームができる相手のいることこそ、幸せの形。
いびつな形を作り出す女心も、朝の日差しを浴びればまた真っすぐな幸せの形に戻るだろう。
先ほどまで焦らされていたことを追い払うように、ホロもベッドへと倒れこむのだった。
本編10巻へ続く。
投稿日時:2009年12月28日 04:29
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます