或る一般人の苦悩
「うーん」
白紙を前に私は唸った。
ネタが出てこないのだ、作品のネタが。
「困った」
「何を困ることがあるの」
行儀悪く寝転び、雑誌を繰っていた亜里沙が聞く。
「何を困らないことがある。筆が進まないのだぞ」
「物を書く人にはよくあることじゃないの」
雑誌から目を離さないまま軽く言う。
「この間読んだS先生のエッセイには『締切が迫っているのに一行も書けない。デビューしたてのころはそれを申し訳なく思って胃がキリキリと痛んだが、今となっては書けないものは書けないのだ、と開き直るようになってしまった』ってあったけど」
S先生は業界でも締め切りを守らないことで有名だ。
ひらめきをそのまま記すタイプの天才肌の作家で、一度筆が動き出せばたちまちベストセラーを生み出す。
「S先生は特別なのだ」
売上実績を持つ大御所だからこそ、締切破りが許されている。
そんなこと、誰彼かまわず認めていたら、出版業界が成り立たない。
「M先生も『一文も浮かんでこない。しかし締切は容赦なく迫る。覚悟を決めてエイヤッと書きつける。だが面白くない。恥ずかしくなって、それをぐしゃぐしゃに丸めて、クズ籠に投げつける。よし、もう一回だ――斯様にして、紙とインクを無駄にしながら、締切直前の夜は更けてゆく』ってインタビューで答えてたよ」
それは私も覚えている。
筆が早いことで有名なM先生が、インタビュアーの「いくらでもスラスラと出てくるのですか」という質問に答えた時の文章だ。
M先生の人気シリーズ『売れない作家探偵』の主人公が、締切直前に探偵業の依頼をされたときに「今それどころじゃない」と断るシーンからの引用だ。
多筆のヒットメーカーであるM先生の筆が止まることなどないと思っていたから、印象に残っているのだ。
「しかしだな、亜里沙。お前も知っているように、私は今まで『書くことが浮かばない』ということなど一度もなかったのだぞ」
何年も筆を握ってきて、それなりにスランプと言うものも経験した。
書く文章文章が全て稚拙に感じたり、何かの焼き直しに過ぎなかったり、私の思いが伝わらなかったり、等満足のいかない作品しか書けなかった時期もある。
だが、自慢ではないが、『なにも書けなくなる』ということだけはなかった。
文字を覚え、初めて自分の思いをつづったその日から、私は書くということの虜になり、暇さえあれば文章を書き連ねた。
いや、暇がなくても文を書く時間だけは捻出した。
私にとって『書く』とは『書きたい』ではなく『書かざるを得ない』に近いところがある。
私にとっては書くことそのものが生きることなのだ。
「これは由々しき事態だ」
魚が泳ぐように、鳥が飛ぶように、私は書くのだ。
泳げない魚、飛べない鳥はただ朽ちるのを待つばかりではないか。
書けなくなったら、私も、私ではいられなくなる……そんな思いが、私をますます焦らせる。
そんな私に亜里沙は現実を突き付けた。
「いいんじゃない? あなたは作家ってわけじゃないのだから、書けなくても誰も困らないし」
投稿日時: 2013年02月28日17:32
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